空手紙の亡霊
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あてのない季節に、あてのない旅路を、あてのない青年が、あてのない手紙を懐に入れながら歩いていた。
吹き付ける風の乾きようはここ幾日かでも殊更で、砂埃を巻いたそれが彼の顔に当たる様は、ごく小さな礫を投げられているようにさえ見える。腕で覆っても全てを防げるわけではなく、目に入ることがあれば、その度に歩みを中断しなければならなかった。
もう何度となく遭った痛みにいよいよ堪りかね、風の止むまで横になろうかと思い始めたとき、後ろから「もし」と声が掛かった。
振り返っても人影はなく、ここまで通ってきた、石ころの多い悪路が佇むのみであった。
彼は不気味に思ったが、この悪路を走るわけにもいかず、かといって何か他のことができるわけではない。結局、少しばかり足を早めるに留まった。
それから暫く歩くと、道の傍に緑が加わり始めた。道も整えられたものとなっていき、彼も徐々に気力を取り戻した。いつの間にか彼は既に静かな山林の中まで来ており、その頃にはもう先程の出来事などすっかり忘れていた。
そして差し掛かった小川で水を飲もうとしたとき、再び「もし」と声が掛かった。先程と全く同一の声であった。
彼は辺りを見回したが、やはりそれらしい姿はない。風はなく、虫すらも鳴いていない。辺りに響いているのは、僅かな川のせせらぎのみであった。
「もし」
今度はよりはっきりと聞こえた。間違いなく川下の方であった。
「姿の現せないこと、お許しください。……折り入ってお頼みいたします。その手紙をここに流してはくださいませんか。この先に届けたい者が待っているのです」
それは若い女のひどく悲痛な嘆願であった。
「なら私が直接届けよう。どうせ何もあてなどないのだから」
「それには及びません。流してくだされば結構です」
先の見えない無為な旅を止めたかった彼は、どうしても目的が欲しかった。そのため彼は意固地になって同様の問答を繰り返したが、女の態度はそれ以上に頑なだった。
「一体この手紙を流すことに何の意味がある? これは少し前に私が思いつきで書いたものだ。誰に宛てるでもない、気まぐれの結果だ」
「その手紙は、貴方様の幼馴染の方に向けたものでしょう。子どもの頃に遊んだ子がいたことを思い出して、記憶を頼りに、宛名のない空手紙として。……お願いいたします。その手紙を流してくださいませ」
彼は狼狽した。誰も知らないはずのことにもかかわらず、書いた理由も、方法も一切の間違いなく言い当てられたのだ。
「では届けたい者というのを教えてくれ。そうすれば、言う通りにしよう」
「それは、私の夫と、子どもでございます。かつて私は、天涯孤独の身でありました。夫も同様です。思えばあれは、神様の思し召しだったのかもしれません。
……私たちの間に、子が一人できました。とても可愛い子です。しかし、あの子は六つの頃に、神様のもとへ行ってしまいました。流行病の熱のためでした。夫はそれから我が子の幻を見るようになり、ある日、子の熱を冷ますために冷たい水を持ってきたい、そう言い残してこの川に向かったきり、行方知れずとなりました。その後の私の行く果ては、語るに及びません。
……貴方様のそのお手紙は、示し合わせたとしか思えないほど、あの子の過ごした日々が綴られているのです。あの子と貴方様とは、生まれも育ちも全く違う場所でございます。出会ったことなど、あろうはずがございません。それなのに、背比べも、力比べも、石切りも、木登りも、幼い思い出の何もかもが、そっくりなのです。
……手紙に自分の思い出が書かれていれば、あの子は喜びます。夫は喜ぶあの子を見て、にこやかに笑います。私にはそれがよく分かるのです。
……貴方様がもうお相手をお忘れになっていたように、あの子の中の思い出も薄らいでいるでしょう。それでも、たとえ誰と遊んだかがはっきりしなくても、書かれている思い出に覚えがあれば、あの子はそれを懐かしめるのです。
……お願いいたします。その空手紙を、流してくださいませ。宛名のないはずの、しかしあの子に宛てられた、そのお手紙を……」
青年は言葉を発しないまま、そっと手紙を流した。手紙は溶けるように視界から消えた。
「あぁ……ありがとうございます……」
一切の悲しみが除かれた女の声はしっとりと澄んでいた。
彼はその余韻に心地よさを覚えながら、ぼんやりと目を閉じた。
「神様の思し召し、か」
彼は女の話を思い返すと、若干の悔しさを含みながら肯定した。あるいは仏様かもしれないとも思ったが、彼にはどちらも同じものだった。
「奇縁とはこういうものを言うのだな」
彼から両親が失われたのは、熱病のためだった。一方は親を、一方は夫と子を。関係こそ違えど、どちらも同じ病で家族を亡くした身であったのだ。
そして何の因果か、自分と女は巡り会った。旅の最中にふと湧いた幼き日々、それを懐旧の熱に動かされるままにしたためた、そんな奇妙な手紙によって。
生きる道を、あるいは死に場所を求めて彷徨う彼の姿は、さながら亡霊であった。だが、悲嘆に暮れる孤弱な亡霊、その有り様に触れた彼の心は少し変化していた。
恐らく自分は彼女に報いた。そう考えて、今度は自分も報われるのではないかと、少し前向きになったのだ。
彼は応報を願いながら、生まれも育ちも違う、名も知らない幼なじみを思った。男か女か、それすらも定かではないのに、不思議と大切な存在だという気がしていた。
いつの間にか森は賑やかになっていた。僅かに顔の憂いの晴れた青年は、女たちに黙祷を捧げると、再び足を踏み出した。勇んだその一歩は、どこまでも行けるかのような力強さがあった。
彼の手紙のなくなった懐には、言い知れぬ温かさが残っていた。
最後までお読みくださりありがとうございました。
今作の構想は太宰治の『魚服記』を読み返したときに浮かんだ「滝」という単語と、前作の『蝶望』の残影によって練られたになります。
最終的に「滝」そのものの要素は殆どなくなりましたが、その過程で繋がっていったものを使い完成した次第です。
重ね重ねになりますが、評価・感想、ブックマークをいただければと思います。よろしくお願いします。