4.フェアシュテック・シュピール
手を引かれるまま歩き続ける。回廊の硬い石を踏んでいるはずなのに、ミリアムはふわりふわりと、浮雲を踏むような気持ちになっていた。
霧の朝を歩いたときに似ている、と、彼女は思う。細い廊下を進みながら、霧の満ちる野原を思い出していた。グリーンの草もグレイに見える、自分の足さえも見えなくなり遠ざかる不思議の朝のことを。
思い返すあの頃は、いつも幸せに包まれている。悲しいことも辛いことも嫌だったこともあったはずなのに、今のミリアムにとってはすべてが楽しい記憶へと昇華されていた。
父と母とも、一緒の記憶。
三人で暮らしていた土地を離れ、ずいぶんと遠くに来てしまった、と思う。あの町。小さな菫と呼んでいた私たちの家。ミドルランズクリフ。もう一人では帰り着かないかもしれない――
「入って」
扉を押さえている彼に背中を押される。突然眠りから覚まされたかのように、驚いて顔を上げたミリアムは、こちらを向いているいくつもの視線に出会い、再びすっかり竦み上がってしまった。
大きな鍋から湯気が立っている。皿を抱えた娘たちが居る。野菜桶に座り込んだ娘も。部屋の中心で包丁を握っていた女性はそれを台の上に置き、滑るような動作で近づいてきた。
大きな声が大きな部屋に響く。
「ま。まぁまぁまぁまぁ。シェリル様かと思いましたわ。まぁよく似ていらっしゃる」
「でも、すこぉし大きいわよね。背は」
「でも髪の色がそっくりだわ。見間違えそう」
「年は上よね? あなたはいくつなの?」
号令でもかかったのかのように、わっと寄って来た娘たちが、口々に、けれど誰もがそろって早口で言った。
必死で応えるミリアムの声は、細く小さくかすれている。
「あの、十二です」
「ほぉら、やっぱり年上よ」
「でも髪は本当にそっくりよね」
「ほんとだ。うらやましい。私もその色、理想なのよね」
「マリアの、じゃなくてグーの好みでしょ、金の髪がお好き♪ なのよね」
「それだけじゃないもの、私だって好きなんだもの。んもう、やめてよ、こんなとこでそんな話」
ダン!
誰もが息をのむような音が響いた。台に叩きつけられたのはめん棒らしい。もわもわと舞い上がる白い粉の中で、マーサは何事も起こしていないかのように、笑みを浮かべている。
「どうぞ、フレディ様」
「ありがとう、マーサ」
フレディも笑みで応えた。喧騒にかマーサにか、引いていた身を起こしつつ。
「みんなに紹介しておくよ。今日からシェリル様のお話し相手に来てくれた、ミリアム・ジルアード嬢」
「よ、よろしくおねがいします」
「ミリアム、こちらは厨房の母君、マーサ。そして右から、ミミ、イルゼ、マリア」
三人の娘は名前を呼ばれると、順に頭を下げて見せた。共通点は同じエプロンを着けているというだけらしく、個性が丸見えである。
どこぞの国のメイドとは違う。国家風土というものだろうか。様を付けて呼ばれる方と料理人が親しく口をきき、そしてその下の娘たちもまったく緊張の素振りはない。
ミリアムは押し寄せてくるなにもかもに混乱させられるばかりだった。一つに対しても説明がつかず納得はしづらい、どころかそこまで考えを至らせることができずにいた。
まさしく波のように、次から次へと被さってくるばかりなのだから。終わりなどないように。
そんな彼女の頭の上で、今も展開は続いている。
「マーサ、僕が迎えに来るまで、ミリアムをここであずかっていてもらいたいんだ。状況は匿うに近いけれどね」
「また何かお始めになったんですか。フレディ様」
「始めたのは僕じゃないよ」
「それはもちろんシェリル様でしょう」
「今回はルイスも加わっているんだ。頼めるかな?」
ますます厄介。マーサはそんな心中を隠さず表情に表した。そしてため息と共にではあるが、出た言葉は肯定だった。
「お嬢様方に見つからなければよろしいんですね?」
「うん。シェリーは昼食の代わりになるものを探して現れるかもしれないし、ルイスはそんなシェリーを探しているから、二人ともここに来てしまうかもしれない、けど」
「どうしてここに来たんです」
「マーサならなんとかしてくれると思って」
「うまいことを言いますよ、フレディ様は。見込まれたら仕方ありません。お任せいただきましょう」
「ありがとう」
そんなに時間はかからないよ。言い置いてフレディは行ってしまった。扉が閉じるところまでマーサは、そして三人娘も、ミリアムもなす術もなく見送る。
追いかけて良いものか――思いつく頃には手遅れだった。
「ではね」
振り向いたマーサと、その後ろに一列に並んだ娘たちの目が、ミリアムに向けて輝いている。思わず一歩、後ろに下がる。効果的にも調理台にぶつかり、それ以上は無理だった。
「始めますよ、お嬢さん」
声にならない質問が頭を巡る。誰か助けて。そんな言葉も、混ざっていたようだ。




