3.塀をくぐって姫登場
石塀を這っている青い蔦の葉から、透明な滴がきらりと落ちた。かすかな光に体を震わせ、娘はそちらへと目を向ける。
焦げた茶の色の地面に、吸い込まれ消える一滴。なにを思う間もなく、今度は弾かれたような勢いで、空へ視線を走らせていた。
鐘の音。ひとつではない、いくつもの鐘が併せ被さり鳴っている。空が音で満ちるようだ。
音楽だったのかもしれない。
思いついた頃には余韻も消えていた。そして娘の思考は、次には鐘の鳴る意味にとたどり着く。
時を報せるもの。
――二時……?
解すると同時に血が翻る。
大変なことをしてしまった!
指定された時刻に遅れてしまったのだ。二時の約束の面会だった。なにより大切なものとして鞄の中、奥深くにしまいこまれた封書の宛名の方と。
添えられていた役職の名は、知らない言葉であったために覚えていない。それはとても難しく耳に馴染まず、想像はるかな高いところに聞こえるものであった。
その……方と、約束をしていたのに……
ずいぶんと余裕を持たされて、駅に到着してはいた。途切れそうな意識の中で、娘は懸命に考える。
こめかみで打つ脈の音がだんだんと大きくなっていく。血が頭へと集まってきているようだ。
そう、駅への到着は早かった。もう二時間も前に娘は荷物と共に駅舎に残されたのだった。何も言わずに付添人は去り、娘は引き止める言葉をもたなかった。
手順については前夜厳しく説明を受けていたために。応えは返らないかもしれないという不安のために。
どんな言葉でも返らないよりはましなのだと、それは最近娘が気付いたことだった。荷物――現在の全財産とともに佇み、娘は反芻する――言葉の返らなかったいくつかの場面を。
拒絶という冷たい壁を理解するのに、多くの機会は必要なかった。思い出す祖母は、背中かスカートの裾である。そればかりを見ていたために。
知らされたとおりに歩いていたはずだ。駅から城の門までは、想像していた間は複雑なものではないように思えていた。真っ直ぐに歩く、城の塔が目印になる。
けれど実際には道は曲がりくねり、間には町があり市場があり広場があった。城の塔だと思ったものは、教会の尖塔であった。
そんなことがいくつか重なり、どこからか道を反れ、門へのルートからは離れてしまっていたのだ。
娘は辺りを見回した。緑の蔦の這う石壁は延々と続いている。葡萄の木も、延々と並んでいる。
少し先でカーブしている赤い土の道、が前。後ろも、同じようにこちらも少し先でカーブをしている。
人なんていない……
ずっとずっと歩き続けていたのに、城への入り口は見つからない。こんなにこんなに一生懸命にがんばったのに、こんなにとんでもないことになってしまった。
思ってしまえばみるみるうちに、大きな目に涙があふれた。ほろりと頬を伝い落ちる。どれだけがんばってみても、良い結果には結びつかない。
誰かに邪魔でもされているように、自分はなにも遂げることができないのだ。
きっともうダメなのだろう。今回の話は、自分の失敗によってなかったことにと戻されるのだ。白紙に。
こんなことをしでかしてしまい、こんなことにしてしまい、どんな目に合わされるのだろうか。そのために呼び寄せて、けれど出発までの短い間ですら疎んでいた祖母。
まず確実に引き取ってはもらえないだろう。では国に戻るのか? 首を振る。自分が居たことで、明らかに苦労を増やしていた伯母の姿が目に浮かんだ。
両親が死んで一年、優しく接してしてくれた伯母だが、負担が減りほっとしていたことならわかっている。今更元には戻れない。
では?
体の内から湧き起こりつつある震えを抑えようと、娘は上着の胸元をぐっと握り締めた。
どうしたら……どこに行ったら……
「どうかしたの?」
声は下から聞こえた。地面に両の手を着いて、こちらを見上げている――少女、が居た。蔦の葉を幾枚か背中に載せている。
カーテンのようにそれをめくり、潜り抜けてきたに違いない。否定の仕様もない姿だった。
「こんにちはッ」
きらきらと瞳に光を踊らせて、少女は輝くばかりの微笑みを浮かべた。
気を失うかと思うほど、娘の体から力が抜けた。