3話 約束のチーズケーキ。
両親の腕から解放されたリリーは、ようやく待たせてしまっていた使用人達の方を向いた。
「今日からまたよろしくお願いします」
一人一人の顔を見渡しながら笑顔で言うと、皆が一斉にリリーを取り囲む。
「リリーお嬢様、お久しぶりです。大きくなられて……」
「すっかりお元気になられたのですね」
「またこの屋敷でお世話が出来る日が来ようとは……」
目頭を押さえている者まで現れる始末だ。
ちらほらと見覚えのある顔との再会に、リリーは五歳の頃の記憶が蘇ってくるのを感じていた。
そして、身体は苦しかったけれど、この家がとても温かく居心地の良い場所だったことを思い出したのだった。
全員でぞろぞろと屋敷に入ろうとしていると、もう一台の馬車が滑るように走り込んできた。
あまりのスピードに何事かと眺めていると、壊れんばかりの勢いで扉が開き、何か大きな物体が眼前に飛び出してきたと思った時には、リリーは暖かいものに包まれていた。
「リリー、おかえり!!」
この声は、兄のアーサーだろうか。
強く抱き締められていて息が苦しい。
しかも今の挨拶に「ただいま」と返すべきか、「おかえり」と言ってあげるべきか悩んでしまう。
リリーが兄の長い腕の中で一生懸命もがいていると、アーサーが降りて無人のはずの馬車の中から別の男性の声が聴こえた。
「アーサー……。嬉しいのはわかるけど、リリーがまた熱を出しちゃうよ?」
「おおっと、それはいけないな」
……リリーがまた?
この声の持ち主は、私の知っている人かしら?
兄がゆるめてくれた腕の中から馬車の方を見てみたのだがーー。
「今日はお邪魔になっちゃうからまたね、リリー」
顔が見えないうちに扉が閉まり、馬車はさきほどと打って変わって今度は静かに走り去ってしまった。
結局、誰だかわからすじまいだったわ。
リリーが馬車が去った方向を不思議そうに見つめていると、アーサーが教えてくれた。
「リリーは覚えていないかな? 昔よく遊びに来てた隣のオーウェン。あいつの妹のジェシーと僕らの四人でよく遊んだんだけど」
オーウェンとジェシー……。
なんとなくだけれど記憶に残っている。
三人が寝込んでいる私のベッドを囲んで、話しかけてくれたような。
更に思い出そうとしていたリリーだったが。
「オーウェンのことはまた今度ね。リリーに早く会いたくて早退してきちゃったよ」
「えっ、早退? 大丈夫なのですか、お兄様」
そうだった。兄のアーサーは学院に通っていて、寮で暮らしていると聞いている。
今の時間はまだお昼だから、午後の授業が残っているはずだ。
しかし問いただせば、明日、明後日と連休の為、寮から外泊許可を貰って帰ってきたらしい。
「そんなの、リリーと過ごす方が大切さ」
本当に良かったのかと父を見ると、不自然に顔を逸らされてしまった。
しかも視線を怪しく泳がせている。
これは……嫌な予感がするわね。
まさか、お父様もお仕事を早退してきたのでは……?
しかし、二人のその気持ちが嬉しかったリリーは、久しぶりに家族全員が揃った幸せを噛み締めたのであった。
◆◆◆
実家に戻った翌日、リリーの姿は厨房にあった。
昨日、リリーの帰還を喜びもてなしてくれた家族と使用人に、チーズケーキを作って振る舞う予定だからだ。
コックのレオが手伝いを買って出てくれた。
十年前も既にスペンサー家で働いていたレオには、よくパン粥を作ってもらった記憶がある。
最初は広い厨房にレオとリリーの二人だけだったのだがーー。
その内、体調を心配したり、好奇心で覗きに来た家族と使用人で厨房があふれ、リリーに追い出された。
皆、リリーに構いたくて仕方がないのである。
再び静かになった厨房で、着々と作業は進んでいく。
チーズケーキは、今回はクリームチーズから手作りすることにした。
領地で酪農を手伝っていたリリーには、乳製品の扱いだって手慣れたものなのである。
手際よく、牛乳や生クリームを使ってクリームチーズを作り上げていくリリーを、レオが感慨深げに見つめた。
「本当にお元気になったんですなぁ。あんな小さかったお嬢様が、立派になられて……」
あまりに嬉しそうに破顔されてしまい、気恥ずかしくて居心地の悪さを感じるリリー。
「立派な令嬢は、厨房でケーキは作らないと思うわ」
「それもそうですな!わはははは」
照れ隠しの言葉だと気付いたレオに豪快に笑われてしまい、リリーも気付けば一緒になって笑っていた。
「昔、約束したでしょう? 王都に帰ったら美味しいチーズケーキを皆に食べさせるって」
笑い終わり、作業を続けながらリリーが話し始めると、レオが驚いた顔で手を止めた。
「憶えてましたか。あんな昔のことを」
「もちろん、忘れたりしないわ。この約束が私を支えてくれたんだもの」
ーー十年前。
療養の為に、家族と離れて領地で暮らすように言われた日、リリーは大泣きした。
大好きな家族や使用人と離れて暮らすくらいなら、身体が辛くても皆と一緒に居たかった。
泣いて泣いて、駄々をこねたが、両親もリリーの体の為に折れるわけにはいかなかったのである。
そんな時、泣きながら食事を拒否し、抵抗するリリーにレオが言ったのだ。
「お嬢様、あちらはチーズやヨーグルトが美味しいんですよ。私はチーズケーキに目がなくてなぁ。仕事がなければチーズケーキの修行に行って、みんなにも食べてもらうんだが……。ああ、残念だ」
チーズケーキ?
みんな好きなの?
泣き止んだリリーに、周りも一緒になって必死に会話に乗っかった。
「リリーの手作りかー。食べてみたいなぁ」
「あちらの乳製品は格別ですよ」
「チーズケーキ、私も大好物です」
今思えばあからさまな誘導なのだが、幼いリリーには効果覿面だった。
「じゃあ元気になって、私がチーズケーキを皆に作ってあげる。楽しみにしててね」
こうして、みんなを喜ばせたい一心で、幼いリリーは領地に旅立ったのだった。
あれから十年……ようやく約束を果たせる日が来たわ。
思いのほか長い修行期間になってしまったけれど。
「随分と待たせてしまってごめんなさいね、レオ」
リリーが眉を下げながら謝ると、レオは泣きながら笑ったのだった。