23話 恋する乙女はジャムの香り。
リリーの誕生パーティーから、はや数日。
リリー自身はいつも通りの平和な日常を取り戻していたが、知らぬは本人ばかりなりーー世間ではそうではなかった。
第三王子ラインハルトがリリーのパーティーに現れたという事実は瞬く間に噂好きの貴族社会に広まり、彼に今まで浮いた話が無かった分、それは大きな衝撃をもたらしたのである。
『スペンサー伯爵家の娘が王子の婚約者に内定したらしい』と大騒ぎになっていた。
噂の中心人物でありながら、そんなことを何も知らないリリーは、今日も呑気にラズベリーのジャムを煮ていた。
あら、お砂糖入れ過ぎちゃった?
「ねえ、レオ。このジャム、ちょっと甘くし過ぎたかしら?」
「甘い方が日持ちしますからねぇ。ヨーグルトにかけるなら甘いのが合いますよ」
コックのレオに相談しながら、ジャムを煮詰めていく。
厨房は甘い匂いに満ちていた。
日持ちは大事よね。
またハルト様に渡せる機会があればいいのだけれど。
最近のリリーはジャム作りに余念がない。
それもこれも、誕生パーティーでラインハルトにお土産としてリリー特製のジャムの瓶も渡した結果、とっても美味しかったとラインハルトから手紙が届いたからである。
それからリリーは、毎日せっせと様々なフルーツのジャムを作っているのだ。
それはどう見ても、恋する健気な乙女の姿だった。
まあ、貴族令嬢としては珍しい行動パターンではあるのだがーー。
周りのコック達は、そんなリリーを微笑ましそうに見ていた。
そんなほのぼのムードが漂う厨房と打って変わって、スペンサー家に重大な出来事が襲いかかろうとしていた。
「大変だーーーー!!!」
父のウィリアムが叫びながら帰ってきた。
髪は乱れ、なんだか足元がおぼつかない。
厨房にいて気付かないリリーやコック以外の、母、兄、使用人達がパタパタとウィリアムに駆け寄った。
「あなた、何があったのですか? そんなに慌てて」
「今日は城での仕事でしたよね? 随分と帰りが早かったのですね」
アンとアーサーが問いかけると、息を切らせながらウィリアムが興奮気味に答えた。
「さきほど国王に呼ばれた。陞爵が決まった!!」
「え?」
「しょうしゃく?」
意味がよくわからず首を傾げる母子に、苛立ったようにウィリアムが説明を加えた。
「だーかーらー、伯爵から侯爵になるんだよ! 私がスペンサー侯爵に!!」
…………侯爵?
「「……ええええええぇぇぇ!!!!!」」
たっぷり間が空いてから、二人の絶叫が玄関に響き渡った。
「以前からの外交の手腕と、その成果を鑑みてと国王はおっしゃっていたが……」
「いや、どうみてもリリーをラインハルト殿下の婚約者にする為ですよね? 爵位を釣り合わせようとしてるとしか」
「あら、そんな身も蓋もないことを言っては駄目よ。少しはお仕事の成果も入ってますよ」
ウィリアムだって、この陞爵が自分の力だけだとは思っていない。
思ってはいないが、こうもあからさまにリリー絡みだと家族に言われると少し傷付く。
しかもリリーを勝手に婚約者にしようなど、全く面白くない。
「どうせ私の頑張りなんて」
ぶつぶつと呟き、拗ねたウィリアムの手を妻が引き、とりあえず居間へ向かう。
お茶の準備をしてもらっていると、リリーも居間にやって来た。
ジャム作りが終わったらしく、相変わらず甘ったるい匂いを漂わせている。
「お父様! 今日は早いのですね。お疲れさまでした」
ウィリアムは娘の笑顔に荒んだ心を癒されつつ、侯爵になることを伝えた。
「すごいですお父様! お父様がお仕事を頑張った結果ですね!! お父様が評価されて私も嬉しいです!!」
「ありがとう、リリー」
裏の事情など考えもしないリリーは、父の偉業に喜び、心から称えた。
勢いよく娘に抱きつかれ、抱き締め返しながらもウィリアムの心中は複雑である。
『こんな素直で可愛い娘を手放すくらいなら、侯爵の位なんていらん!!』
……と断ってやりたいところだが、今もウィリアムの腕の中でラインハルトの為にジャムの香りを漂わせているリリーのことを考えると、そんなことはとても言えないからだ。
「儀式には家族で参加するようにとのことだ。リリーも準備を頼んだよ」
「私もいいのですか!?」
思いがけず王宮に行けることになって喜ぶリリーの頭を、ウィリアムは優しく撫でた。
◆◆◆
ウィリアムの陞爵の日が訪れた。
侯爵令嬢になるのだからと、侍女のアイラが気合いを入れて飾り立ててくれるが、リボンや飾りボタンが多用してあるドレスはリリーには窮屈で気が滅入ってしまう。
今日は父が主役なので、色味を抑えた紺色のドレスが選ばれたが、素材とデザインがとても凝っていて高価なドレスに違いない。
ハルト様は他の公務があると聞いたわ。
少しでも姿を拝見出来たらって思ったけれど、難しそうね。
残念だわ。
それにしても、このドレスってば動きづらい……。
ラインハルトに会えないせいか、マイナス思考に陥っていたリリーだが、鏡を見て気付いた。
あ、でもこのボタンは金色なのね。
ハルト様から贈られたドレスみたい。
リリーが金色のボタンに目を留め、顔を綻ばせたところにすかさずアイラが尋ねる。
「お嬢様、髪にお付けするリボンは何色になさいますか?」
何でもいいと言われる前に、さりげなくラベンダー色のリボンを混ぜて差し出す。
出来た侍女である。
「まぁ、ラベンダー色のリボンがあるのね! アイラ、この色でお願い」
すっかりご機嫌になったリリーに「かしこまりました」と真面目な口調で返しながら、アイラはこっそりと笑みを浮かべた。
こういう扱いやすい素直なところが、リリーの美点なのだ。
王宮での式典は、想像よりも小規模で行われ、粛々と進んでいった。
リリーは父の後方に、母、兄と共に並んで立っていたが、式の中盤あたりからは飽きてしまい、豪華な内装や、初めて目にした大臣達を観察したりしていた。
すると、ふと国王と目が合ってしまった。
慌てて姿勢を正したリリーだったが、リリーを認識しているのか、国王が一瞬戯けた表情を見せたのでつい笑ってしまう。
いけない、思わず笑ってしまったわ。
国王様って、思っていたより優しくて親しみやすい方なのね。
あ、王太子のオリバー様とやっぱり似ていらっしゃる気がするわ。
ハルト様のお顔は、どちらかというと王妃様似だもの。
とうとう王家の人間全員と面識を持ったリリーだったが、それが特別なことだとはまだ気付いていなかった。
考え事をしている内に無事に受爵は終了していたようで、人々がぞろぞろと退出し始めた。
ホッとした表情で戻ってきた父に、リリーが「お疲れ様でした」と労った時だった。
「リリーお姉ちゃん!!」
子供の可愛い声が会場に響き、驚いて目をやると王太子の息子のハリーが入口から顔を覗かせていた。
「ハリー君!!」
リリーが駆け寄ると、なんとハリーの傍らには眉をハの字にしている王妃が立っている。
「ごめんなさいね。ハリーがどうしてもリリーちゃんに会いたいってきかなくて。連れて来ちゃったわ」
「だって、またジャム作ってねって言いたかったんだもん」
ジャム?
もしかしてハルト様にお渡ししたのを、ハリー君も食べたのかしら?
「ジャムでしたら、今日もお持ちしていますよ。ラズベリーですが」
リリーは、ラインハルトに会えなくても渡してもらおうと、ジャムを持参していたのである。
「やったー! ラズベリーも僕好き! あ、お姉ちゃんは野イチゴって食べたことある? 僕、食べてみたいんだよね」
「野イチゴ? 領地ではよく……でも、ここのお庭にも群生してますよね? この前、木の上から見えたような……」
話している途中で、リリーはハッと気付いた。
また自分から木登りの話を!
クスクス笑う王妃に苦笑を返しつつ、野イチゴが見えた方角について説明したリリーだったがーー。
「なるほどね。ではリリーちゃんは私に着いてきてちょうだい」
気付けば王妃に拘束されるように廊下を進んでいたのだった。