㉔ひそやかな計略
侯爵令嬢であるナルディアは久しぶりに観劇に来ていた。観劇の内容は今、王都で一番人気のもの。その幕間の休憩時間に劇場のオーナーから会いたいと言われた。案内の者について行ったナルディアは、そこに待っていた人物から意外な提案をされるのだった。
「はあ~」
感嘆の思いが抑えられずに私は息を吐きだすと共に、小さく声をだした。
噂に聞いていた以上の内容にここに来るまでの気乗りしなかった気分は払拭されていた。役者が上手いのだ。臨場感たっぷりに歌い上げる前半の最後の見せ場は、圧巻の一言だった。
緞帳が降りて第一幕が終わり休憩時間になった。舞台に酔いしれてぼうっとその様子を見ていた私は、桟敷の外から声を掛けられていることに気がついてはっとした。
(そうだったわ。今日はただ観劇に来たわけではないのに)
私は素早く立ち上がると、桟敷席から通路へと出た。
「ビングレム侯爵令嬢でございますか」
「はい」
「お会いしてお話をしたいという方がいらっしゃいます。来ていただけますでしょうか」
「あの、その方とは?」
戸惑いを込めて問いかければ、声をかけてきた男性(多分劇場の従業員だろう)は、穏やかな笑みを浮かべた。
「この劇場のオーナーでございます」
「劇場のオーナーの方? わかりました。伺わせていただきます」
「ご案内をいたします」
男性は胸のところに左腕を当て軽く頭を下げると、先に立って歩き出した。私は遅れないようにと若干早足で後をついて行く。
私はこの劇場の所有者が誰なのかは知らないけど、こういう文化事業に力を入れている方で私と知己にある方に心当たりがあった。
他の桟敷席から出てきたところで、私と男性のやり取りを窺うように見ていた人達も、私が納得したような顔で男性の後をついて行くのを見て、声をかけてくる人はいなかった。
関係者のみが通れる通路に入ったところで、私はそっと詰めていた息を吐きだした。わかっていたことだけど、人々からの不躾な視線というものに緊張を強いられたようだ。人々から注目を集めるだろうとは解っていたので、心構えはしてきたつもりだった。けど、一人で立ち向かうには、人々の視線は痛かった。
そんなことを考えているうちに部屋の前へと着いた。そこはこの通路の一番奥まった場所だった。部屋の入り口には支配人室というプレートがつけられていた。
男性が扉をノックし、応えがあってから扉を開けてくれた。私は男性へと目礼をしてから部屋の中へと入った。私が部屋の中に入ると扉が閉まった。
私は視線を待っていた人物へと向ける。その人は笑みを浮かべて言った。
「ビングレム侯爵令嬢。急な招きに応じてくれてありがとう」
「ごきげんよう、エレラデルド公爵様。あなたがこの劇場のオーナーでしたのね」
そばに来た公爵に手を差し出されたので、その手に左手をそっと乗せると、恭しく持ち上げられ手の甲に口づけをする仕草をされた。エレラデルド公爵が顔を上げたところでそっと手を外そうとした。
が、公爵はその手を離してくれず、エスコートをするようにソファーへと案内をされた。彼が向かい側へと行きソファーへと腰を下ろしてから、私もゆったりとした仕草でソファーに腰を下ろした。
「学園が休みに入って以来だね、ビングレム嬢」
「そうですわね、エレラデルド公爵様」
公爵が親しみを込めた言い方に変えたのに対し、私が堅苦しい返事を返したら、彼は口元に苦笑を浮かべた。そして、あらかじめ用意してあった紙を、私の方へと向けて見せてきた。
「ビングレム嬢、出来れば肩書は無しでお願い出来ないかな」
「ということは学園の同級生としてということかしら、エレラデルド様」
紙面の内容を読む前にそう返したら、彼は嬉しそうに笑った。そして彼が頷いて視線を紙へと向けたので、私は紙面を読むことに意識を集中させた。
「そうしてくれると嬉しいな。ところで……このようなことをいうのは不躾かもしれないが、君が元気そうでよかった」
「……」
「あのようなことがあった後だ。まだ気落ちしているのかと思ってね」
「……」
「君の兄上からも部屋から出てこようとしないと聞いていたから、ここで会えたのが意外で、つい呼びつけてしまったのだ。」
「……」
「いきなり呼びつけてしまったことは謝罪しよう。申しわけなかった」
「……謝罪はいらないわ。ご心配を……おかけしていましたのね」
私は読み終わったことを知らせるために、視線を彼に向けながら言葉を返した。彼は頷くと上着の隠しから封をした手紙を取り出した。私はその手紙を受け取ると見ていた紙と共にドレスの隠しへとしまう。
「私はエンリコとは親しくしていたからね」
「そうでしたわね」
私は学園での様子を思い出して、そう相槌を打った。だけど走馬灯のようにいろいろなことが思い出されて心が震えてしまい、私は顔を俯けて目を伏せた。
「すまない。劇場に来られるくらいに気持ちが浮上したのだと思ったのだが……。そう簡単には忘れられるものではなかったな」
エレラデルド様の声は痛みをこらえているように聞こえた。
「いえ……いいえ、そうですね。エンリコの友人だったエレラデルド様に、虚勢を張る必要はございませんわね。私は……寂しく思っていますわ」
俯いて目を合わせないようにして答える私に、彼は何を言っていいのかわからないとでもいうかのように、少しのあいだ黙った。
「ところで、君を呼んだのは聞きたいことがあるのだが」
「なんでございましょうか」
気を取りなおしたかのように声音を変えて話してきたので、私も顔を上げて彼へと目を向けた。
「その、間違いでなければ……君はこの劇場に一人で来ているのではないかな」
私はその言葉に軽く目を見開いた。
「ええ、そうです」
彼は私の答えにあり得ないことを聞いたというように、目を瞠った。
「それは、どういうことだ」
少し動揺を滲ませた声をだしたエレラデルド公爵に、私は少し意外に思いながらも言葉を返す。
「本来でしたらお兄様に一緒に来ていただく予定でしたが、国境での仕事が長引いたことで、お戻りが本日には間に合いませんでしたの。ですので、母が付き合ってくださるはずでしたわ」
私はため息にならないように息を吐きだしてから言葉を続けた。
「それなのに、昨夜両親が参加した夜会でトラブルに巻き込まれてしまったそうで、母は足首を捻ってしまい歩くのもままならい状態となってしまいましたの」
「それは……カントス侯爵の夜会のことかな」
「ご存じでしたの」
「ああ。私は参加していなかったが、先ほど会った友人が教えてくれたのだ。詳しくは知らないのだが、酷い醜聞であったと聞いている。巻き込まれた侯爵夫人は災難だったね」
「ええ、そういうわけで、せっかくのチケットを無駄にするのもと、私だけで参りましたの」
「ご友人を誘おうとは思われなかったのですか」
「急な話ですもの。お誘いしていいのかどうか悩みましたわ」
私が言外に込めた意味を感じ取ったのか彼は「そうだな。急な誘いはエチケット違反だな」と呟いた。
女性の支度というのは時間が掛かるし、まして劇場というのは小さな社交場でもある。一般の方も観覧できるとはいえ、桟敷席を使うのはほぼ貴族だろう。
それでも裕福な商人などが桟敷席を使うと聞いたことがある。なので、桟敷席を使う方用のサロンは貴族用と一般の方用と分かれていると聞いたことがあった。
「それならばこのあとは私に、ビングレム嬢をエスコートする栄誉をいただけないだろうか」
「まあ。お気遣いは無用ですわ」
「そう言わずに、演目が終わり馬車に乗るまでではどうだろうか」
彼は真剣な顔でそう言った。私は少し迷った後に彼に訊くことにした。
「それは第二幕をご一緒に、ということでしょうか」
私の問いに彼は目を見開いてから苦笑を浮かべた。
「すまない。そこまで深く考えていなかった。そうだな。ここを出て桟敷席まで送ることと、演目が終わり馬車に乗るまでならどうだろうか」
「ええ、それならお願いしたいと思います」
私は口元に笑みを浮かべた。その笑みが引きつったりせず、ちゃんと笑えていることを祈った。
彼は口の両端を軽く持ち上げてから口を開いた。
「それではサロンのほうに行こうか」
立ちあがった彼に腕を差し出された私は、そっとそこに手を掛けたのでした。
◇
「ごきげんよう、エレラデルド公爵。珍しいことがあるのね」
「これはカシノス伯爵夫人。お会いできて光栄にございます」
サロンに着くと早速カシノス伯爵夫人が私たちに気がついて近寄ってきた。エレラデルド公爵の腕から手を離すと、彼は伯爵夫人の手を取り、手の甲に口づけをする仕草で挨拶をした。
「ごきげんよう、ビングレム侯爵令嬢。あなたも観にいらしていたのね」
「ごきげんよう、カシノス伯爵夫人」
私はドレスをつまみ軽く腰を落として、淑女の礼をした。伯爵夫人の目が親し気に細められる。
「ナルディア嬢、聞いたわ。侯爵夫人はお気の毒でしたわね」
「ええ。私も母が父に抱えられて帰ってきたので、何事かと思いましたわ」
「わたくし、昨夜はご一緒出来なかったのですけど、話を聞きまして本当に酷いことだと思いましたわ。どこぞの伯爵家の令息が男爵家の庶子の令嬢に入れあげて、ご自分の婚約者の伯爵令嬢に婚約破棄を申し渡したそうでしたのよ。自分の不貞を棚に上げて、伯爵令嬢が男爵令嬢をいじめたとかなんとか申して、詫びろなどと伯爵令嬢に申しつけたとか。伯爵令嬢はそのようなことをしていないのだから、詫びる必要はないと答えたそうですわ」
(伯爵夫人は……その場にいなかったと言われたのに、本当に情報通だわ。夜会で起きたことをかなり詳細に知っているようね。私は両親から詳しい話を聞けずに劇場まで来ることになってしまったのだけど……)
そんなことを考えている間に、カシノス伯爵夫人は周りに聞かせるように若干声を大きくした。
「伯爵令嬢にとっては言い掛かりもいいところだったそうですわ。そもそもその男爵令嬢と顔を合わせたこともなかったといいますのよ」




