①「聖女になって世界を救え」だなんて、猫のくせに何を言ってるんですか?
薄暗い部屋では複数人の祈りの声だけが響いている。
その様子を私は固唾を飲んで見守っていた。
この儀式が成功した暁にはあの祭壇に眠れる聖女が現れるという。そして現司祭長である私はこの儀式の総責任者であった。
「司祭長様……!」
私の従者であるハロルドの金の瞳が突如大きく見開かれた。
「ごらんになってください! 光が……!」
見れば、祭壇上がほのかに明るくなっていた。
「ええ、聖女様降臨の兆候です……!」
かびくさい本に書いてあったとおりに行っただけなのに、まさか本当に成功するとは。正直驚きしかない。
唱和する祈りの声が自然と高まっていく。淡い光は声に同調して凝縮されていく。それはやがて人間くらいの大きさになり――。
「やりましたね。成功です」
さらに小さくなり――。
「……あれ?」
さらにさらに小さく丸くなっていき――。
「……あれ?」
やがて光が消えうせ、祈りの声がやみ。
「司祭長様。あれは……猫でしょうか?」
現れたのは聖女どころか人間でもなく。ただの茶トラの猫だった。茶トラの猫が祭壇の上で巻き貝のように丸くなって眠っていただけだった。
***
翌日。
私は司祭長の職を辞し神殿を後にした。
右手に茶トラの猫が入ったバスケットをぶらさげて。
***
「さあ。ここが今日から私達の家よ」
国からあてがわれた古い一軒家に移るや、さっそくバスケットから茶トラを出す。すると茶トラはふんふんとにおいをかぎながら家の中を探索し始めた。
「ねずみくらい獲ってくるのよ」
声を掛けたが、茶トラは当然無視。それもそうだ。この猫、ほんとうにただの猫だったのだ。実は人間だとか、魔力が高いとか、そういった特性は一切なし。正真正銘、ただの猫。聖女どころか、聖獣でもなく、メスですらない。
「で、どうしてあなたがここにいるのですか。ハロルド」
実はこの家に着いたときからハロルドはいて、今は台所でスープをぐつぐつ煮込んでいたりする。越してきたばかりの家がどこもかしこもぴかぴかなのも、ハロルドのおかげだ。
「僕は司祭長様のおそばを離れませんから」
「ですがあなたには神殿での仕事がありますよね?」
「あ、もう言葉遣いも楽なものにしてくださっていいのですよ。……その方が嬉しいなあ、なんて」
「何か言いましたか?」
「いいえ! なんでも!」
ハロルドの木べらを動かすスピードが急に速くなった。
「ところで、司祭長様。本当にいいのですか?」
「なにが?」
問いかけつつも続きは想像がついた。案の定、「全部聞きました」とスープをかき混ぜながらハロルドは言う。
「あの猫を護るために司祭長様が職を辞する必要なんて本当にあったのですか?」
「でもそうしなくては猫は殺されていましたから」
召喚の儀式後、私の失敗を責める人はほとんどいなかった。王ですら。ただ、猫は殺すべきだという意見で皆が一致した。異世界からやってきた生物が害になる可能性を気にして。
けれど私はそれを受け入れられなかった。
「でもそのために司祭長様が犠牲になるだなんて」
「ハロルド。私はもう司祭長ではありませんよ。それに私には自分が呼び寄せた命を摘み取ることなんてできません」
私が茶トラを連れて城を出る交換条件は二つあった。一つは、この家に住むこと。この家には特別な魔法が施されていて、悪意のある人間や魔物の類は一切出入りができなくなっている。だからここは猫にとって安寧の場所となるだろう。ただし、一生出ることのかなわない監獄でもあるが。そして二つ目は――私の人生の拘束だ。猫が死ぬまで面倒を見ることを、私は王と神に誓っている。
「……司祭長様はどこまでも尊いお方なのですね」
「人として当然のことです」
すまし顔をしつつ、だが内心は違った。
(あああ……。どうしてこんなことになっちゃったのかしら)
正直、動揺を見せないように必死だ。昨日から、今までずっと。
確かに猫が殺されそうになってとっさにかばってしまった。けれどその瞬間、全員の私を見る目が崇拝の色に変わってしまったのだ。
『さすがは司祭長様……!』
『なんとお優しい……!』
(みんな猫を殺すべきだとか言ってたくせに、本当は殺したくなかったんじゃない!)
そうなのだ。この国の上層部――王や王妃、宰相など――の誰もがいわゆるいい人で。それゆえに隣国からの脅しの類に簡単に追い詰められてしまっていて。それで最後の手段として聖女を召喚しようなんて話になって……。そんな彼らに猫を殺す気概などもともとなかったのだ。
しかもこの茶トラ、すごくかわいいのである。キングオブキャットの称号があったら差し上げたいくらいに。ブルーとゴールドのオッドアイはきゅるんと丸く、愛らしく。毛づやは最高。肉球はぷにぷに。しっぽはふわふわ。そして鳴き声の高さと甘さの絶妙具合ときたら。猫好きでなくても篭絡されること必至の猫なのである。
「司祭長様……いいえ。エミリア様。僕が王になった暁には必ずあなたをここから出してさしあげますから」
微笑みつつ、それはないでしょと内心突っ込む。ハロルドはこれでも王子なのだが、第五王子にはそのような未来はあり得ない。
「あの。僕、明日もここに来ていいですか」
「けっこうです。猫一匹と私一人が生活するだけのこと、人手はいりません」
食材など、必要なものは望んだだけ配達してもらえることになっている。第一、ハロルドには神殿での仕事がある。それに一応、王子だ。
けれど。
「……でも僕、好きなんです!」
木べらを握りしめて思いのほか強い口調でハロルドが訴えてきたから、目が丸くなった。
「なんのことですか?」
「あの、その」
慌てるハロルドの金の瞳が向いたのは、窓際。そこにはふっくらとしたお尻を向けて眠る茶トラがいた。
「ああ。ハロルドは猫が好きなんですね。だったら仕事の後にでもどうぞ」
すると泣きそうな顔から一転、ハロルドが満面の笑みを浮かべた。
「猫のおもちゃ、持参しますね!」
***
夜、ハロルドが帰るとようやく気づまりがとれた。
「……ふう」
司祭長の仕事には誇りをもっていたが、それにふさわしい清廉としたふるまいは正直苦手だ。けれどハロルドには今まで『こういう』態度で接してきた手前、今更変えるのも難しい。
化粧をおとし、髪をほどき、生成りの楽なワンピースに着替える。こういう恰好も久しぶりだ。するとさらに心がほぐれてきた。
「……この生活、なんだかんだ言って満喫しそうかも」
幼いころから遊びの誘惑に耐えて勉学に努め、神殿に入り。それからは婚期も無視して出世街道をばく進してきたけれど……齢三十二にしてこうやって庶民らしい生活に戻ってみれば、もう二度とあの厳しい世界に戻りたくないと思う。これからはこの国を救うとか、そういう壮大な話とも距離をおいて、猫とのんびりとした生活を送ろう。ただ一点、この家から出られないのはつらいけど。まあ猫がいればなんとかなる。
「さ、もう寝よっと」
すると足元に茶トラが走り寄ってきた。ああもう、こんな何気ない動作でもかわいくて癒される。
「ふふ。どうしたの? 一緒に寝る?」
冗談を言ったら、これに茶トラが返事をした。
「一緒に寝たいです」
うん?
「でもその前に話をさせてくださいませんか」
今、人間の言葉でしゃべったよね?
「ああ。驚かせてごめんなさい」
茶トラは軽やかな身のこなしでテーブルの上に乗ると、絶句する私に向かって優雅なしぐさで頭を下げた。
「僕、実は聖女なんです」
「……どこからどう見ても猫だけど。しかもオスよね」
「これはこの世界での姿。でも僕の本質は聖女です。というか、聖なる者には本来、性別という概念がありません」
戸惑いしかない私に「たとえば。僕には予知能力があります」と茶トラが言い出した。
「この世界に人間の女として召喚された場合、僕はさっきここにいたあの男の側妃にさせられていました。なおかつあの男に殺されていました」
「はあ?」
「それに僕はあの男が好きではありません。あの男はこの後、親兄弟を抹殺し、隣国と協定を結ぶことでこの国の王となるのですから」
「はああ?」
あのハロルドが?
「あのね。ハロルドは血を見るのが嫌だからって騎士にならずに神殿に入るような人なのよ?」
「それは偽りの姿です。あの男はあなたに懸想しているから神殿に入っただけです」
「ええー……。それはないと思うけど……」
今までモテた経験は一度もないから正直信じられない。しかもハロルドとは十五も年が離れている。
「じゃあどうして男の人の姿で召喚されなかったのよ」
話をもとに戻す。
「それも同じ理由によるものです。たとえ男でも僕はあの男に殺されていました。あなたと近づきすぎるからと嫉妬されて」
「ええー……」
「だけど猫ならば殺されることはない、そうわかっていたから、だから僕は猫になりました。犬でも鳩でもダメなんです」
「あのー、覚えてないの? あなた、召喚されてすぐに殺されそうになったのよ? 人間じゃないからって」
「あなたが僕を救ってくれることはわかっていました」
「……はあ。そうですか」
「というわけで。これからよろしくお願いしますね」
「ああ、はいはい」
ペットとして一生面倒をみることはもとより了承済だ。けれど軽く請け負った私に茶トラが「しゃー!」と歯をむき出しにして怒った。
「違います! 一緒にこの国を救うんです! あの男が悪の道に染まらないように導くことができるのはあなただけなのですから! そのために僕は召喚されたのですから!」
「……なんですと?」
そんな御大層な使命、すっかり忘れていた。
「そう、あなたこそが真の聖女なんです!」
「…………なんですとおー?!」
完全に素に戻った私は、しばらく開いた口を閉じることができなかった。