報告95 日本での飛び級制度
【1】
その日の合唱練習が終わり、クラスの生徒たちが帰り始めた頃、大塚と上野は、気を張り巡らしながら、私や水上のことを見ていた。一方の私はというと、そんな事はお構いなしに帰る準備をしながら、上野と水上に声をかけた。
「じゃ、俺は帰るが、お前たちはどうするんだ?」
水上は特に不機嫌な様子を見せることもなく、私に言った。
「ちょっと用事あるから。残る。」
「そうか。上野は帰るか?」
「すまん北沢!俺も用事があるんだ。」
「そうか、わかった。じゃ、俺は帰るぞ。」
私は、そう言って教室を飛び出した。上野は、その様子を確認すると、大塚と目を合わせながら、教室から近くの廊下に静かに移動した。そして間も無く、教室には、田端と水上の二人きりの状態になった。
「で、どうしたの?相談って?」
水上は、机の上に寄りかかりながら田端に尋ねた。外の廊下では、上野と大塚がその様子を、息を殺すように潜みながら見守っている。わずかな沈黙の後に、田端が口を開く。その間は、時間にしてしまえば、たったの数秒だろうが、上野たちにとっては、何時間にも感じられるほどだった。
「水上さん…北沢くんのこと、まだ好きなの?」
「……何でそんなこと聞くの?」
「みんな、水上さんのこと、応援してたけど最近なんか様子が変だなと思って。」
「……。…別に。今は、友達くらいにしか思ってないけど?」
「そうなの?」
「で?何で私にそんなこと聞くの?相談したいんじゃなかったの?」
あたりの空気がピリピリとし始める。田端は再び少しの沈黙の後、同様に口を開いた。
「……あのね。私、北沢くんと付き合いたい。」
水上は、ため息をつきながら。田端に言った。
「あんたね…。そんなこと私に言う必要なくない!?好きだったら、告白すればいいじゃん。そんなの早い者勝ちだって。」
「でも、水上さん、いいの?私が付き合っても。」
「…別にいいんじゃない?なんなら、協力しようか?」
「そっか。ごめんね。残ってもらって、それじゃ私帰るね。水上さんも帰ろ?」
「ごめん、少し伴奏の練習したいからもう少し残る。」
「分かった。じゃあ、また明日ね。」
田端はそう言いながら、軽やかにその場を立ち去った。水上は、机の上に座ったまま、固まっている。上野と大塚は、そんな水上の様子を離れた場所から見ていた。上野は、大塚に言った。
「大塚…。どうすんだよこれ?」
「わかんないよ!そんなこと!」
「盗み聞きとは、感心しませんね〜」
………………!!!
2人の真後ろから、声が聞こえる。2人は、飛び上がるかのように、後ろを振り向くと、そこには飛田の姿があった。飛田は2人に尋ねる。
「それで、君たちはどうするのですか?」
飛田のその言葉を聞くと、大塚は呆れた顔になって飛田に言った。
「…もしかして、今までの件、全部見ていたんですか?」
「たまたまですよ。喧嘩でもしてるのかと思いましてね。様子を見守っていたんです。」
「嘘くさ…。」
飛田の言い訳に、上野はそう呟いた。飛田は、少し悪い笑顔をしながら2人に言った。
「私から、2人にアドバイスです。水上さんには、お姉さんがいますね?そして、彼女は、スクールの先生でもあります。どうでしょう、彼女に相談をしてみると言うのは?きっと力になってくれると思いますよ。」
大塚と上野は、目を合わせ、お互いの表情を確認するとすぐに、その場から立ち去った。
「さて…。北沢さん…。もうあまり時間はありませんよ。答えを考えているのでしょうかね?」
【2】
その日の夜、私はいつものように、スクールの事務室で事務作業をしていた。
「北沢先生。お疲れ様です。」
そして、いつものように、桜が部屋に入って挨拶をして来た。私は、一度作業を中断して挨拶をする。
「お疲れ様。大学はどうですか?実験が多くて大変でしょう?」
「そうなんですよ。ずっと顕微鏡で何かを観察してます。目が痛いです…。」
私は、こうして、彼女と世間話をする事が、いつの間にか日課になっていた。彼女は、私の素性知る数少ない人物であると同時に、現段階で唯一コンタクトが取れる教え子だ。私にとってこの時間は、教師に戻れる唯一の時間なのかもしれない。桜は続けて私に尋ねた。
「ところで先生、いつもそこのデスクで仕事してますけど、勉強はいつやってるんですか?」
「勉強ですか?私は、朝早く起きて1時間くらい勉強していますよ。後は、寝る前に1時間くらいですかね。」
「受験勉強は大丈夫なんですか!?」
「ここで、生徒に教えていれば、大体頭に入るので問題ありませんよ。それに、トップの学校に進学するつもりもありませんし。」
「それで、どんな勉強をしているのですか?」
「基本的には、大学入試レベルの数学と英語です。最近は、英検以外の英語の資格を狙ってます。最近、勉強時間が少ないので、もう少し増やそうとは思っていますが、なかなか難しいですね。進学したらもう少し、勉強時間増やしたいものです。」
「確かに、合理的かもしれないです。先生の場合、今のうちから、大学入試の準備ができてしまう訳ですから。もしかして、志望校とか決めているのですか?」
「高校は、決めていません。大学は、いくつか候補があります。」
「え?どこですか?」
「千葉大学です。」
「千葉大ですか?確かに有名な大学ですが、どうして千葉大学なんですか?」
「この大学は、珍しいことに飛び級制度があるので。高校3年生から入学できるんです。」
「日本でも、そんな制度があるんですね!知らなかったです!!」
そんな世間話をしているときだった。突然、弟が事務室の扉から顔を出して言った。
「水上先生、お疲れ様です。あ、兄さんもお疲れ。」
「ああ、お疲れ。」
「水上先生、上野くんと大塚さんが質問があるって言ってたよ。対応してもらってもいいかな?」
「分かりました。すぐに行きます!」
そう言うと、桜は事務室を飛び出して、個別スペースへと向かって行った。
【3】
私が仕事を終えて帰宅した頃、弟や他の講師たちは、まだスクールに残っていた。弟は、いつものように、事務作業を淡々とこなしていた。そのときだった。
「あの…塾長。少しお時間いただけますか?」
弟は、その声のする方向に振り向いた。その先に居たのは桜だった。弟は、桜に言った。
「水上先生、今日もお疲れ様。どうかしましたか?」
「その…お兄さんの事で相談が…。」
「兄さんの事で?それは、穏やかじゃないね。会議室使おうか。」
弟は、そう言って桜を会議室へと連れて行った。
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