報告56 認知心理学のススメ
北沢先生の補足
今回の話は、授業の教え方についてですが…。タイトルからわかる通り、かなり専門的な内容になってしまいました。生暖かい目で見ていただけるとありがたいです。
【1】
スクールに戻った私は、書類をひとしきり揃えて、教室へと入った。その教室には、生徒の姿はなく、桜が机に座っていた。私は桜に声をかけた。
「待たせたね。それじゃ始めようか。」
今日は、彼女に研修を行う予定になっていた。桜は私に言った。
「それはありがたいことですけど、なぜ私だけ個別で研修なんですか?」
「理由は簡単です。あなたは、私の正体を知ってますからね。直接、研修をした方が合理的でしょ。」
「それは、そうですけど…。」
「さてと、そろそろ本題に入りましょう。この研修は受けたい人だけ受けれる研修です。将来、学校の先生や塾の講師を目指している人向けになります。水上さんは、今のところ、このどちらかを志望しているということで良いのかな?」
「はい、学校の先生を目指してます。」
桜は、輝いた目でそう言った。こんな目を見るのは、久しぶりだ。私は、彼女の意思を確認するとすぐに、説明を始めた。
「今日の内容は、上手い授業が出来るようになるには、どうすれば良いか。よく、業界の人たちは、教科指導力と呼んでいますが、これを向上させるには、どのような事をすれば良いかについてお話しします。
ですがその前に、教科指導力が、採用にも関わるという事を先に言っておきます。」
「採用?どういうことですか?」
「知っての通り、教員免許を持っているだけでは、学校の先生にはなれません。公立であれ、私立であれ、それぞれの採用試験を突破しなくてはなりません。その際に、私立の学校では、実践的な教科指導力を採用試験で問われる事が多いのです。」
「実践的な指導力?どういうことですか?」
「代表的な例としては、模擬授業です。これは、試験官の前で、授業をするんです。」
「え!そんなの面接より緊張するじゃないですか!?」
「ですから、ここでの研修や授業を通じて、教科指導力を磨いていきましょうね。」
「ちなみに、私の教科指導力ってどのくらいですか?」
「そうですね、控えめに言って…。模擬授業で、まず落ちるでしょうね。」
「ぜんぜん、控えめじゃないです〜!!」
【2】
「では、早速、教科指導力を向上させるには、どうすれば良いか説明しましょう。まずは、課題の設定です。生徒たちに合ったレベルの授業や教材、説明を的確に設定できる事が重要になってきます。こればかりは、経験しかないです。ですから、このスクールで、たくさんの生徒を見て、たくさん試行錯誤をして下さい。」
「分かりました。ところで、先生も上手くいかなかった時期ってありましたか?」
「ええ。こちらが思ってるよりも、計算問題が出来なくて焦りました。そう言ったものを含めて、修正を重ねなくてはいけませんね。
さて、二つ目は、話し方です。これも授業の質に直接関わる要素になります。先程、私立の学校では、模擬授業を採用試験に取り入れている学校があることは説明しましたね。模擬授業では、特に受験者の話し方を見ている場合が多いのです。」
「話し方でそこまで授業の良し悪しが、はっきりするのですか?」
「いいえ、これは最低限必要な技能なんです。話し方に課題のある人の授業は、100%下手な授業と言っても過言ではないくらいです。つまり、良い悪いではなく、話し方に問題のある授業は、〝問題外〟ということです。いい授業は、これよりもさらにプラスアルファで説明の内容や、黒板の板書など様々な要素が優れています。
水上さんの場合、話し方にそこまで問題はないでしょうから、後は緊張するような場面で、話す速さが速くならないように気をつければ良いでしょう。
地味ではありますが、これが教科指導力の土台になる部分です。」
「結局は、場数を踏んで経験をするしかないという事ですか。」
「そうですね。最低限の経験は必要だと思います。ですが、最も大切な事が別にあると私は考えています。」
「最も大切なこと?」
「教育について、きちんと勉強する事です。」
「なんか、それ当たり前のような気がしますが…。」
「残念ながら、勉強しない先生は非常に多いです。腹立たしい事ですけどね。そもそも、教師という仕事に役立つ勉強とは、なんだと思いますか?」
「うーん…。そう言われると難しいですね。」
「それでは、範囲を絞りましょう。良い授業をするために必要な勉強とは何でしょうか?」
「その教科の参考書や教科書を読み込むことですか?…いや、授業の仕方みたいな本を読む!とか。」
「そうですね。授業の本はたくさん売られていますから、役にたつでしょう。ですが、それには落とし穴があります。」
「落とし穴ですか?」
「そうです、そこにはテクニックがたくさん書いてあるでしょう。それを真似すれば、効果は得られるかもしれません。しかし、原理を知ることは出来ません!」
「原理?」
「そう!原理です!例えば、本に書かれているテクニック的なものは、問題の解き方が載っているようなものです。ですから、ある程度身にはなるでしょう。
一方で、原理は、例えるなら数学や物理でいうところの公式のようなものと言えば良いでしょうか。ですから、原理を知ることで様々な課題に対応できますし、新たなものを創造できるようになります。」
「確かに、言われてみると原理って大事そうな気がしますね。でも、教科指導の原理って一体何ですか?」
「教科指導の根本になる学問があります。それは、教育方法学です。これは、大学の授業でもありますよね。そして、教育方法学の中でも特に中心にある学問は認知心理学です。(あくまで個人の見解ですが。)」
【3】
「認知心理学?」
「水上さんは、まだ大学一年生ですから、聞いたことがないかもしれないですね。認知心理学は、知覚、理解、記憶、思考、推理、問題解決など、人間の高次元な認知のメカニズムについて考える学問です。例えば、記憶のメカニズムを知ることで効率よく暗記が出来るかもしれないですし、思考のメカニズムを知ることで今まで、センスとか、ひらめき力とか呼ばれていたものが、誰でも習得できるかも知れない。そんな事を考える学問です。どうですか?学校の授業と関係ありそうでしょ?」
「確かに!そんな事を研究している人たちがいたんですね!知らなかったです。」
「私の場合は、認知心理学を学び、物理が得意な人の、思考パターンなどについて考えたり、調べたりしました。そして、そこで学んだ原理を授業に応用する方法を考えました。授業の方法に関する本を読むことも良いですが、一度、認知心理学を勉強して、きちんと土台を作っておくと、それぞれの授業のテクニックがどのような効果をもたらすのか見当がつきます。また、本に書かれている内容を組み合わせて、新たな指導法を作り出せるかも知れません。だからこそ原理を学ぶことは大切なのです。」
「ちなみに先生は、どんな本を読んで勉強したのですか?」
「そうですね、たくさん読みましたが。一番のオススメは、エドワード・F、レディッシュ氏が書いた『科学をどう教えるか』でしょう。認知心理学専門の本ではありませんが、かなり専門的な内容が書かれています。あくまで物理の指導法の本ですが、理科を教えるのであれば、一読の価値ありです。もしよかったら貸しますよ。」
「え!?いいんですか?」
「もちろん。理論は、きちんと学ぶに越したことはないですからね。」
「でも、やっぱり教師って経験が、一番大事なんですよね?」
「いいえ。一番大切なのは理論です!もちろん経験を否定するつもりはありません。ですが、現場の先生方の中には、理論をないがしろにする人がいます。とても残念な話です。そもそも、経験が第一だとしたら、新人の先生は確実にポンコツと言うことになります。そうではないでしょう?
ですが、ベテランと新人では、経験の壁があることも事実です。その壁を突破するには、やはり理論を学ぶ事が一番なのではないでしょうか。」
「先生、今日は、ずいぶんと力説しますね。」
「それだけ、あなたに期待をしているということですよ。」
「が…頑張ります。」
【4】
桜の研修を終えた直後、彼女は私に言った。
「今日は、ありがとうございました。でも先生、私、気になる事があります。」
気になることとは、一体なんだろうか?私は、桜に聞いてみた。
「何でしょう気になることとは?」
桜は少しの間、私に言っていいのか迷っているようだったが、しばらくして決心したのか私に向かってこう言った。
「先生は、また突然居なくなったりしませんよね?」
「…?それはどういう事ですか?」
「何となく今日の話が、遺言のように聞こえました。冷静に考えれば、中学生の体に戻ってしまうなんて事、生物学的にあり得ない話ですし、実現した場合その人の体の機能に何らかの異常が起こる事だって十分考えられます…。先生もしかして何かしらの検査を受けたのではないですか?」
…そうか。彼女は私の正体を知ってからずっと、その事を考えてくれていたのかも知れないな。そう思い私は、例のDNA鑑定の結果を桜に正直に伝えることにした。
「察しが良いですね。DNAを調べてもらいました。テロメアの長さに異常が見られるそうです。」
「テロメアですか?もしかして短いとか?」
「いいえ。長すぎるとのことでした。もっとも、異常が認められたのは、テロメアだけですから、DNAの複製やセントラルドグマへの影響は小さそうですがね。」
「そうですか、少し安心しました。でも、無理は本当にしないで下さいね。もう、二度と居なくなるのは、ごめんですからね!」
桜の目は少し潤んでいた。そう言えば、私が行方不明扱いになってから、毎日気にかけていたことは、知っている。可哀想な思いをさせてしまった。私は、桜に声をかけた。
「心配をかけてしまったみたいですね。ごめんね、水上さん。」
これ以上、彼女に心配をかけるわけには行かない。実は明日、飛田と話をする約束をしていた。もしかしたら、その話を聞いて過去のトラウマを完全に思い出し、気がどうにかなってしまうかも知れない。だが、目の前の桜を見て私は思った。
絶対にそうなってたまるか!!
私は、そう決意するのだった。
いつも、最後まで読んでいただきありがとうございます。
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