94 ヴィルヘルミネ、睡魔に負ける
夜半に雨から変わった雪が沿道に積もり、草花を白く彩っている。
ボロヂノ領から南へ向けて走る馬車は、三台だった。土を踏み固めただけの街道はぬかるんで、どの馬車の車輪も雪交じりの土砂を跳ね上げている。
しかし空は昨夜から一変し、青空が広がっていた。だがら冬を思わせる冷気が渦巻く春であれ、馬車から見える農夫たちの顔もまだ、絶望に満ちたものでは無い。あくまでも問題は夏を過ぎ、収穫の秋を迎える時のことであった。
「昨夜はご苦労だったな、ミーネ。そして、すまなかった」
三台のうち真ん中を走る馬車の中、白を基調とした正装を身に纏うエミーリアが、隣に座るヴィルヘルミネを気遣っていた。
「ぷぇ?」
鼻提灯を膨らまさんばかりにウトウトとするヴィルヘルミネの頭上では、三本のアホ毛がユラユラと揺れている。令嬢は頭をエミーリアの肩に乗せながら、何を言われているのかさえ分かっていないのだった。
――なんか、枕が喋っておる。
赤毛の令嬢の認識は、その程度であった。
けれどエミーリアはツヤツヤとしたブルネットの髪を窓から入る陽光に煌めかせながら、ヴィルヘルミネのやつれた顔に庇護欲をそそられている。何ならフヨフヨとした三本の紅いアホ毛をナデナデして、彼女の全身をギュッと抱き締めたい衝動に駆られていた。
「お、お前を殺そうとする勢力がいた事にも気付かず、護衛の一人も付けてやれなかったことだ。それで謝っている! 謝るから、ギュッとしてよいか!?」
「ああ……いや、別に謝らんでも大丈夫じゃ、です」
「いやむしろミーネ、私が、お前に一晩中付いていれば良かったのだッ! さすれば賊に、お前の手を煩わせることなど無かったものをッ! とにかく、ギュッとする!」
「ぷぇ?」
ツッコミ要員不在の馬車の車室に、やたらと大きなエミーリアの声が響き渡る。とはいえ彼女も美女であり、美声の持ち主だ。となればヴィルヘルミネとしても不快ではなく、しかも抱き締められれば温もりが伝わる。結果は――……。
「――スヤァ」
赤毛の令嬢はカクンと頭を落とし、慌てて首を左右に振っていた。
今ここで眠るのは、流石に暴挙というもの。まさか貴族たる身が、上官の前で眠る訳にはいかないのだ。
とはいえ上官を抱き枕(抱かれ枕)にしていることに関して、ヴィルヘルミネは気にしない。エミーリアも令嬢を抱きしめたまま嬉しそうにしているし、むしろこのままが良いのだろう。
しかし問題は、眠さだった。赤毛の令嬢は一生懸命に目を見開き、耐えているのだが――……。
――若い頃は徹夜ごとき、ぜんぜん全く平気じゃったのに。
などと思うヴィルヘルミネは、今年十四歳になる。彼女の若い頃とは、一体いつのことなのであろうか。ともあれ、彼女はひたすらに眠かった。
何しろ賊を逮捕、拘禁した後で、令嬢は自ら尋問を行っている。
結局、事件の黒幕は存在せず、実行犯がそのまま主戦派貴族たちであった。また窓から侵入した三名はスヴェンの読み通り傭兵で、彼等に雇われていたらしい。
これらのことを処理するのに、ミネルヴァ・ミーネだったら一時間と要しなかったであろう。だがポンコツとなったヴィルヘルミネでは、徹夜の作業になってしまったという次第なのである。
■■■■
エミーリアの一行はフェルディナント陣営が会談場所に指定した村へ到着すると、そのまま一つの建物に案内をされた。がっしりした作りの土壁の家で、暖炉には既に火が入っている。足下に敷かれた絨毯は年代物で、花柄に交じって様々な汚れが滲んでいた。
部屋の中央にある長いテーブルを前に、ヘルムート=シュレーダーとトリスタン=ケッセルリンクの両名が並び、座っている。二人の間には空席があり、そこへヴィルヘルミネが座る予定だった。
彼等の背後に控えた金髪の少女が、鋭い目つきでエミーリアを見つめている。彼女の居場所は丁度、主君が座るべき席の後ろだった。
エミーリアは部屋の入口で会釈をすると、赤毛の令嬢が座るであろう席の正面に腰を下ろす。僅かに遅れてヴィルヘルミネ本人が入室すると、フェルディナント側の三名が直立した。彼等はテーブルをぐるりと回って、彼女の前で膝を折る。主君に対する、明らかな臣下の礼であった。
何事が起きたのかとエミーリアは左右を見回し、慌てている。彼女の左右に座った参謀長と次席幕僚も同じく、何が起きたか理解できない様子であった。
■■■■
「お帰りなさいませ、ヴィルヘルミネ様」
列強各国に「永久凍土の宝剣」とまで呼ばれ恐れられるフェルディナントの宰相、ヘルムート=シュレーダーが片膝を付き、ミーネに頭を垂れている。
その横では目深に軍帽を被り、左右色の違う瞳の参謀総長が同じく膝を折っていた。彼等の後ろでは金髪の少女が肩を震わせ、「よくぞご無事で……」と跪き涙を流している。
エミーリアはこうした光景を目の当たりにし、かつて抱いた僅かの疑念を呼び覚ましていた。ミネルヴァが余りに優秀過ぎるから、ヴィルへルミネではないのか――との疑いである。
「ヴィル……ヘルミネ? いや、待て!」
エミーリアは我に返ると、慌ててミーネの横に立つ。冗談ではない、と思った。
確かにミネルヴァだって赤毛で軍事も政治も天才で――……そこまで考え、「ああ、まさか」と口走る。
ミネルヴァの功績は、まさに天才の所業だ。ヴィルヘルミネにも匹敵すると、確かに思った。
だがエミーリアの心に去来したことは、そんなことではない。ミーネに対する、深い親愛の情であった。
もしも彼女がヴィルヘルミネならば、ミネルヴァは一体どこへ行ってしまうのか。
エミーリアはミネルヴァという存在が、架空でも虚構でも無いと信じている。であるならば目の前の少女は、やはり自分の副官だ。フェルディナントには渡せない。
エミーリアは跪く三人の前に、毅然として進み出た。
「お待ちあれ、各々。彼女はヴィルヘルミネ様ではなく、私の副官でミネルヴァという名の者だ。似ているところがあるのかも知れぬが、人違いであろう」
薄茶色の瞳に決然とした意志を滲ませ、エミーリアが言う。
最初に立ち上がり、文句を言ったのは金髪の少女、ゾフィーであった。二人の間に、見えない火花が散っている。
「わたしはフェルディナント公国軍大佐、ゾフィー=ドロテア=フォン=フェルディナント。まごうこと無きヴィルヘルミネ様の義妹にして、副官だ! そのわたしが、そちらのお方をヴィルヘルミネ様と認めている。そも、貴官は誰か? まだ名も名乗られてもおらぬのに、なにゆえ我等に物申すかッ!」
「あなたが、ゾフィー殿とは……これは失礼した。私は北部ダランベル同盟軍司令官代理、エミーリア=フォン=ザルツァです。以後、お見知りおきを」
エミーリアが右手を差し出すと、ゾフィーは犬歯を剥き出し、そっぽを向いた。それからゆっくりと向き直り、眉を吊り上げて言う。
「まだ同盟が成った訳ではないのに、仲良くしようとは思わぬ。それに、そのお方はヴィルヘルミネ様だ。まずは、その点を認めて頂きたい」
「まだ本人が認めていない。よしんば彼女がヴィルヘルミネ様だとして、記憶を失っているのだ――……彼女が本人だと証明するものを、貴殿は何かお持ちか?」
「それはヴィルヘルミネ様ご本人が、既にお持ちであろう」
全員の視線が赤毛の令嬢へ集まった。彼女は顎に指を当て、目を瞑っている。皆、何事かを考えているのだと思った。
「――スヤァ」
が、しかし。
赤毛の令嬢は皆が何やら話しているものだから、ついウッカリ眠ってしまったのだ。立ったまま眠るなど、実に器用なヴィルヘルミネなのであった。
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