サキちゃん起きないで
三年前、従妹のサキちゃんがトラックに轢かれた。
外傷は僅かだったが、問題は中身だ。
サキちゃんは手術を終えても意識を取り戻さなかった。
三年間、ずっと眠り続けている。
毎月、第一土曜日の午前が、私と父がお見舞いに行く日だ。
父の運転する車の助手席で、手持ち無沙汰にスマフォを触りながら、私はため息を吐いた。
行きたくないなあ。
毎回この日は憂鬱になる。
眠っているサキちゃんに声をかけて、お花を変えて。ただそれだけなのに、それだけの行為がすごく嫌だ。
どうして私がこんな目に遭わないといけないんだろう?
偶々、サキちゃんと同じ血縁に生まれて、偶々、サキちゃんが入院した病院の近くに住んでいて、偶々、眠る前のサキちゃんと仲が良かっただけなのに。
「楓」
と、運転しながら父が私の名を呼んだ。
「何?」
と、私もスマフォの画面から目を離さず答える。
一応SNSを開いているけど、開いているだけだ。
そこに、意味なんて無い。
「サキちゃん、早く目を覚ますといいな」
予め指示されたセリフを読むような、感情を感じ取れない言葉。
だいたい、この場で願望を吐いても、どうしようもないだろうに。
サキちゃんが目を覚ますか覚まさないかは、私たちにはどうしようもないことだ。
お父さんだって、私がサキちゃんと仲が良くて、病院の近くに自宅があるから、世間体で毎月通っているに違いない。
「なあ、楓。サキちゃん目覚めて欲しいな」
しつこい。
私に何を求めてるんだ。
私は神でも救世主でも医者でもないんだから、私がいくら目覚めてほしいと願っても、サキちゃんが目覚めるかはまったく関係ないじゃないか。
私の呼びかけでサキちゃんが目覚めるなら、最初の一年でとっくに目覚めているだろうに。
だいたい私は、サキちゃんに目覚めてほしくない。
「楓。楓、聞いてるのか」
面倒くさいから、私は頷いた。
それで父は満足したのか、何も言わなくなった。
もうすぐ私たちは病院に着くだろう。嫌だなあ。
私は神でも救世主でも医者でもない、ただの十四歳の中学生だけど、一つだけ、他人とは違う能力を持っている。
嗅覚。
人の何倍とか、そういう犬みたいな話ではなく。
私の嗅覚には、常人には嗅ぎ取れないある匂いを嗅ぎ取れる。
私がこの匂いを嗅ぎ取れたのは、八歳の時だった。
学校からの帰り道。一人で帰っていると、私はある男とすれ違った。
だぼだぼのコートを着て、帽子を目深に被った男。
男は独特の匂いを発していた。
獣臭と線香が混じりあったような奇妙な匂い。
なんだか嫌な感じがして、私は横道に逃げた。
それからもこの奇妙な匂いは時々出くわした。
大通りを歩いている時、満員電車に乗っている時、時々漂ってくるのだ。
私はこの匂いは嫌いだったけど、自分の知らない香水か何かだと思って、気にしなかった。
ある日、匂いの正体に気が付いたことがあった。
私が十一歳の時。
土曜の昼下がり、近所の公園近くの自動販売機でウーロン茶を購入していると。
「ねえ、君」
と、声をかけられた。
若い男の声。
知らない人の声。
「何ですか?」
と、私は顔を上げた。
病的なまでに細くて、目だけがぎらぎらしている、大学生くらいの男だった。
「ねえ君、何買ったの?」
「ウーロン茶です」
「へー、いいね」
何がいいのだろう?
「実はね、僕、道に迷っててね。市役所の場所が分からないんだよ。ねえ、教えてくれないかな君」
「えっと」
市役所の場所は知っていた。
でも、男に教えることがどうも嫌だった。
男からは、あの獣臭と線香が混じった匂いがしていて。しかも今までより数倍匂いが強かった。
「教えてよ、ねえ。向こうでさあ」
私は逃げようと思った。その時は赤い笛も防犯ブザーも持ち合わせていなかったので、困ってしまった。
けれど。
「楓、何してるんだ」
と、私に父が声をかけた。
すると男は舌打ちをして、足早に立ち去った。
私は助かった、と本能的に察した。
しばらくして、男の顔はニュースに登場した。
児童連続誘拐殺人。恐ろしい言葉が八文字並んでいた。
被害者は私と同じ歳の女の子が三人。
私は四人目になっていたかもしれない。
恐ろしい、と震えて。
同時に、匂いの正体を察した。
私は、殺人者の匂いを嗅ぎとることが出来る。
病室に入った瞬間、私は思わず鼻を摘まんだ。
あまりにも濃厚な、あまりにも濃密な、もはや痛みに近い匂いが私を襲った。
だから、来たくなかった。
サキちゃんはトラックに轢かれて。
私は急いで病院に駆けつけて。
絶句した。
三人殺していたあの男。
あいつの何倍もの臭いをサキちゃんは発していた。
前会った時は、サキちゃんは無臭だった。
なのに、意識を失くしたサキちゃんからは、殺人者の匂いがしたのだ。
お父さんが花を変えて。
看護婦さんと雑談している時、私はずっと匂いを我慢していた。
「楓。サキちゃんに声をかけなくていいのか?」
お父さんにそう言われ、私は渋々サキちゃんに近づいた。
サキちゃんは静かに寝息を立てていて。
私は顔を近づけた。
「サキちゃん、早く目が覚めてね」
心にも思っていないことを呟く。
毎月のこと。
このままずっと眠っていてほしい。
本心を明かさず、私は嘘を吐く。
「サキちゃん、早く元気になってね」
「楓ちゃん」
と、サキちゃんの唇から小さな音が漏れた。
「楓ちゃん、秘密にしててね」
私は、しばらく絶句した後、頷いた。