バス停さん
家を出て坂を降りるとバス通りに出る。
バスが通るといってもそこは昔の街道で、狭いくねった道を山沿いに走って、山道入り口と旧村役場を繋ぐ、住民すらあまり通らない古い道だった。
私は高校に通う3年間だけ、バスに乗るためにこの道に出ていた。
街道に出るとすぐ、バス停があった。
街道のうらぶれた雰囲気によく似合う、錆びた小さな時刻表が立っていた。
一番上には丸く、バス会社の名が入った部分。
その下に長く四角い、時刻表。
さらに下には支柱が見え、最後はコンクリートの台。
私と変わらない高さのそれは、毎朝坂の途中から私の視界に入る。それを私はよく人と見間違えた。
それで、心の中で「バス停さん」と呼んでいた。
ひと気のない道に立つ心細さを紛らわせるために。
ある、雨の朝だった。
家を出るととても暗い。
まるで夜明け前のようだった。
いつも静かな集落には雨の音しか聞こえない。何軒かある民家の明かりもよく分からない。でも間違いなく家を出る時刻。
私は傘を広げ、歩き出した。
雨雲が相当厚いのか、下り坂はまるで夜道のようだった。
足元に気をつけながら降りると、「バス停さん」の側に行く。その日は遠くから見つける余裕はなかった。
ほどなくバスが来た。
いつもより少し小さいバス。
ドアが開いた。自動ではなく、中から人が押したらしい。
それは黒い背広姿の人だった。顔は暗くて見えなかった。
バスの中も暗い。中の様子が全く分からないのに、なんだか誰もいない気がした。そしてとても冷たい空気が流れてくるのを感じていた。
私はいつもと違うバスに迷ったけれど、そこにいるのが心細くて
バスに乗ろうとした。
足を踏み出す。
でも。
傘が動かない。
傘の先が、時刻表の角に引っかかっていた。
無理に引っ張ると傘が破けそうだった。
慌てて取ろうとしたけれどできない。
そのうちバスのドアが閉まった。
バスが消えた。
周囲が急に明るくなった。
雨は変わらず降っているけれど
明るくなった。
そうだ、雨の朝ってこんな感じだ、と気付く。
遠くから鳥の声がした。
木々の葉に跳ねる雨粒の、忙しない音もする。
ふと、視界の端に、白い手が見えた。私の傘をつまんでいたのを、離した。
バス停さんだ。
私がそう思ったのは何故だろう。
私は自由になった傘、それから時刻表を見た。
相変わらず小さくて古びていたけれど、その時は少し輝いて見えた。
あのバスに乗っていたら、私はどうなっていただろう。
読んで頂きありがとうございました。