表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
5/6

南征①

武田の騎馬衆、弓鉄砲衆、槍衆が一団となって突っ込んでいくと、敗走中の織田軍はなすすべもなく崩れ立った。とくに騎馬衆の活躍は凄まじく縦横無尽に暴れ回って陣形を寸断し、織田軍を大混乱に陥れた。

もはや織田軍に秩序はなく、軍馬も人も皆狂奔し、武器も鎧も全て棄て、なだれをうって潰走していく。

そこへ武田軍が槍を突きいれ木っ端微塵に打ち砕いた。


多くの織田兵は最も近隣の亀山城に逃げ込んだ。

しかし、亀山城には大軍を収容する能力も、殺到してくる武田軍を押しとどめる能力もなかった。

防備を固める間もなく武田軍に追いつかれ、石臼にかけられるようにゴリゴリと押し潰された。

織田兵は次第に城内奥深くへと追い込まれていき、最終的に四方から斬りたてられ皆殺しにされた。


長篠城から亀山城、岡崎城へと続く諸街道は人間と軍馬の遺体で埋め尽くされた。そこかしろに首のない遺体が散乱し、遺体が山のように積みあがっている街道もあった。

後続の追撃部隊は遺体をどかさなければ追撃を再開出来ない有様だった。

遺体の中には多くの侍大将、勇士が含まれていた。

佐久間信盛、滝川一益、丹羽長秀、安藤守就、塙直正、蜂屋頼隆、稲葉一鉄、津田勘七郎、津田信勝、氏家直昌、水野信元、毛利秀頼、福富平三、矢部善七郎、野々村三十郎、織田半左エ門、中川重政、木下嘉俊、松岡高光、生駒平左衛門等々。


筆頭家老衆、馬廻衆、赤母衣衆、黒母衣衆は根こそぎ刈り取られた。

信長の親衛隊黒母衣衆12人のうち8人が首をとられ、赤母衣衆17人のうち10人が戦場から帰ってこず、馬廻衆24人のうち18人が死ぬか生死不明の重傷を負った。

筆頭家老衆も5人中3人が死に、彼らの郎党・一族もほとんどが死に絶えた。

織田軍の基盤となる主力将校団のほとんどが長篠の戦野で消え失せた。


しかし、信長その人は遺体の中に含まれていなかった。

信長は安易に近場の城に逃げ込むことを避け、ひたすら馬を走らせて尾張を目指した。

護衛もほとんどつけず、目立つことを巧みに避けた。

追撃部隊は集団を優先的に叩くため、信長は追撃網から無事すり抜けることが出来た。



織田軍の壊滅、そして徳川軍の逃亡によって長篠会戦は終わった。

武田軍は5764の首級を挙げた。戦死者、戦傷者、行方不明者、捕虜を含めると織田軍の損失は1万8000人~2万人に及ぶ。

武田軍の損失も決して小さくはなく、876人が戦死し2500人が死傷。

遠征兵力の20%以上が戦列から脱落した。


一方で長篠会戦は武田に決定的勝利をもたらした。

織田軍は兵員、将校団、装備品において致命的な損失を被った。中でも将校団の壊滅は取返しのつかない打撃となった。兵員や装備品は補填できても、信長が手塩にかけて育てた将校団はすぐには戻ってこない。

そして、将校団を欠いた状態では大軍の有機的運用など望めるはずもなく、長篠会戦以後、織田家の軍事活動は大幅に停滞することになる。

また、織田か武田かで揺れ動いていた三河・遠江の国衆は一斉に武田へ靡いた。頑強に抵抗していた長篠城も戦意を失い自ら開城した。

駿遠三における覇権的地位は織田徳川から武田へと移った。


内政面でも長篠の勝利は劇的な変化を生んだ。

圧倒的戦果を前に、独立性を守ってきた御親類衆や譜代衆も勝頼に服さざるをえなかった。

甲府へ帰還した勝頼は重臣団に軍事専断権を認めさせることに成功する。


勝頼にとってはこれこそが最大の戦果だった。





長篠からの帰還後、吉田城攻撃のため武田の軍事機構は休むことなくフル稼働を始めた。

勝頼が最も力をいれているのは軍編成の切り替えだった。


武田の軍事発起地点は常に甲府にあった。

主力部隊も甲府に常駐している。武田家は周囲を敵勢力に囲まれている事が多かったため、兵力の多くは中央に配置されていた。

どこが攻められても、そしてどこを攻める気でも中央に兵力をおいておけば臨機応変に対応出来る。

遠江に侵攻する際は甲府から北上して諏訪上原城に入った後、南下して伊那高遠城に入る。

その後はひたすら南下して大島城経由で飯田城に入り青崩峠を超えて遠江に乱入する。


遠征のたびに甲府を発起地点にするのは、はっきりいって効率が悪かった。昔とは違い武田家の外部情勢はだいぶ安定している。

東方の北条家とは同盟関係にあり、北方の上杉家とも将軍義昭公を通じて講和がなっている。

西方の織田家も長篠の敗戦で当面の間、動けない。


この情勢下では南に大兵力を常駐させ対徳川に軍編成を特化させた方が効率が良かった。

現在の軍編成は北(対上杉)、東(対北条)、西(対織田)、南(対徳川)、中央(主力)の5軍管区に分かれている。

これを北と南に集約した。北軍管区は中信濃、北信濃、越中、飛騨、西上野を管轄下に置き、南軍管区は南信濃、甲斐、三河、駿河、遠江を管轄下に置く。北軍の指揮権は高坂弾正、内藤昌豊らに任せ、勝頼自身は南軍の指揮権を握った。

甲府に駐留していた主力部隊は南軍管区に移管したので、兵力のほとんどが南に集中している。


早速、青崩峠に最も近い飯田城に主力部隊とその支援部隊を移した。同時に飯田城自体の大改修も始めている。軍隊だけでなく刀、槍、弓、鉄砲、鞍、甲冑を製造する武器製造職人とその家族も飯田城に移らせた。


武田騎馬軍団も南へと移動し、青崩峠に厩舎を作って2000頭の軍馬を置いた。

武田の遠江侵攻ルートは南信濃から遠江へと延びる秋葉街道を使用する。青崩峠は遠江=信濃国境へ位置する秋葉街道最初の要衝であり、遠江侵攻の際には必ずここを通った。

替え馬を置いておけば進軍スピードは各段に上がる。

秋葉街道は軍事優先道路として徹底的に改造し、飛脚、伝馬、宿場施設を3倍に増やした。一里ごとに狼煙台や手旗などの通信手段を設置し、早期警戒システムをくみ上げた。


遠征に備え半年間の諸役(地子以外の税)の免除を条件に町人衆から臨時税(段銭、棟別銭)の徴収も始まっている。

これで五か月は軍事活動に専念出来る。

南征の準備は着々と整いつつあった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ