長篠会戦④
馬場信春は密集させた1500騎の騎兵部隊を楔型陣形で待機させつつ、突破地点を慎重に見極めていた。
丸山戦区の佐久間隊は丸山砦を中心に名高田~柳田~竹広にかけて薄く長く布陣している。
最も有力な突破候補地は丸山砦の位置する柳田だった。
柳田から東に延びる街道を駆け抜ければ、織田軍中央部隊の側面を最速でえぐることが出来る。
しかし、信春は常識通りに動くほど単純な男ではなかった。
作戦地域を研究し、地形や障害物をわがものとし、常に敵の裏をかいた。
柳田は一見近道だが、街道は佐久間軍主力が布陣する丸山砦に抑えられている。ここを強引に駆け抜けようとすれば砦からの猛射を浴びる危険性があった。
信春は佐久間隊の虚を突こうと考え、騎兵部隊を北に迂回させ、守りが手薄な名高田から突っ込ませた。
厳重に固められた丸山砦は一瞬にして、その戦略的価値を台無しにされた。
突破は驚くほど上手くいった。1500騎の密集騎馬部隊はまず、名高田に展開していた800人ほどの守備隊を血祭にあげた。守備隊を挽き潰した後、北へ回り込んだ騎馬部隊は丸山砦に展開する佐久間軍主力を背後から打ちのめした。
砦に雪崩れ込んだ騎馬隊は逃げ惑う織田兵を蹂躙し、ほぼ一方的に殺戮した。
騎馬隊の猛威は佐久間軍の抵抗線を瞬く間に薙ぎ倒してしまい、織田軍左翼を恐慌状態に陥らせた。
攻勢は軌道にのり勝利への扉は押し開かれた。
勝頼はこの扉にもてる戦力全てをつぎ込んだ。騎馬隊の開けた穴に右翼の真田隊、小幡隊、望月隊、さらに総予備の穴山隊に勝頼麾下の旗本衆が雪崩れ込んだ。
織田軍左翼を屠った騎馬集団は旋回して織田軍中央部隊の側面へ踊りでる。
信長はこの予期せぬ事態の急速な変転に背筋が冷たくなっていた。すでに織田軍左翼は無茶苦茶に食い荒らされ、わずかな抵抗拠点だけが散在している。
このまま武田軍が織田軍中央部隊の側面を突けば防衛線は崩壊する。すなわち、長篠の大会戦は武田軍の勝利ということになる。
信長は即座に中央部隊を指揮する信忠へ指示をだした。手持ちの兵力全てを挙げて左側面へ反撃し、左翼戦線を立て直せと。
しかし、織田軍の野戦陣地はあくまで正面の攻撃に対処出来るように作られており、急な配置転換は困難だった。そして、武田騎馬隊は織田軍の指揮系統に反撃の余裕など与えなかった。
織田軍中央部隊は側面への抵抗陣を組織する間もなく粉砕され、蹂躙された。信忠には兵力をまとめる時間さえ与えられなかった。かろうじて、稼働可能な部隊を細切れで送ったが、片っ端から屠られた。
織田兵は小規模に分割された状態で馬蹄にかけられ、バラバラに切り刻まれた。
中央部隊はいたるところで叩きのめされ、左翼を助けるどころか自身が分断壊滅の憂き目にあった。
左方向からの圧倒的な騎馬攻撃は左翼と中央の戦列を飲み込み、ついに右翼へと達した。
弱っていた武田軍左翼・中央も反撃に転じ、騎馬隊と共に大包囲の形成を開始する。
敗北を悟った信長は少しでも多くの部隊を逃がすべく奮闘したが、その頭脳は極めて冷静だった。
もし、焦って急な撤退命令をだしていれば再起不能な打撃を受けていたことは間違いない。
信長は比較的余力のある羽柴隊に左側面を固めさせると、織田軍右翼と徳川軍の総力を上げて攻勢にうってでた。
信長の攻勢は見事に武田軍の虚をついた。
前半の陣地戦で散々撃ち叩かれ消耗していた武田軍左翼はこの攻勢に対応出来ず粉砕されてしまう。
左翼が粉砕されたことで武田の包囲は崩れ、信長は潮が退くように後退していった。
織田軍はまっしぐらに西へ遁走した。長篠城のすぐ西には亀山城があり、さらにその西には岡崎城がある。この逃走ルートは武田の追撃から身を守れる拠点がすぐ近くにある上、尾張への最短ルートでもある。信長を含め多くの織田軍将兵がこのルートを選んだ。
一方、徳川軍は南へ逃げた。
もし家康とその主力部隊が三河へ逃げてしまうと、三河=遠江国境に位置する吉田城が武田に包囲され街道が封鎖されてしまう。
そうなると、本拠地の浜松城が三河から切り離され孤立する危険性があった。家康と徳川軍は浜松への帰還ルートを死守するため吉田城へむけ全力で遁走した。
勝頼は追撃部隊の主力をどちらにむけるか二択を迫られた。
包囲殲滅に失敗した以上、徹底的に追い撃ってどちらかに壊滅的打撃を与えなければならない。
悩んだ末、勝頼は織田軍を全力で追う事にした。
逃走ルートをみれば、家康に浜松城を維持する意思があるのは明白だった。それならば、あえて浜松へ逃がした方が効率がいいと計算したのだ。
遠江10郡のうち8郡はすでに武田の手にある。家康は三河に隣接する浜名郡とその隣の敷知郡を抑えているにすぎない。いわば徳川家の遠江勢力圏は武田勢力圏に突き出た突出部であり、その突出部の先端に位置するのが浜松城だった。
長篠が落ちれば突出部と三河をつなぐ拠点は吉田城だけになる。
突出部に追い込んだ上で時期をみて吉田城を落とせば、三河から切り離して皆殺しにするのは容易だった。
そして、皆殺しにする時に織田軍の介入を抑えるには、ここで可能な限り信長を追撃して打撃を与えておきたかった。
勝頼の命令が下ると武田軍は猟犬のように追撃を開始し、敗走する織田軍の背中に食らいついた。