長篠会戦①
三河の要衝長篠城。
わずか500人の城兵が立て籠もるこの城を1万5000人の武田軍が厳重に包囲していた。
長篠城はすでに満身創痍だった。二の丸を落とされ、水の手を断たれ、兵糧倉を破壊され、城兵は本丸に押し込められている。
その気になればこのような小城いつでも踏み潰すことが出来る。
武田軍がそうしなかったのは、ある男の到着を待っていたからだ。
「織田信長軍3万5000人設楽ヶ原に布陣す」
間者からの報告を受け武田軍もまた設楽ヶ原に兵を進める。設楽ヶ原は山岳だらけの奥三河で大軍を展開できる数少ない平野部だ。
長篠城攻撃の真の狙いは織田軍主力を決戦にひきずりだすことだった。鎌倉右府(頼朝)が定めた封建社会の原則「御恩と奉公」は戦国期の今でも有効だ。主君は臣下の既得権を保護して安全保障を約束する。その代わり臣下は君主に軍事力を提供する。戦国期の軍事機構は例外なくこの契約に縛られる。
故に拠点包囲は敵野戦軍と雌雄を決する最良の手段なのだ。
先に長篠を落としては、高天神城の時のように信長に逃げられてしまう。今度こそ決戦に持ち込み、信長とその主力部隊に決定的打撃を与えなければならない。
そうしなければ、武田家に未来はないと勝頼は考えていた。
織田家と武田家の国力差は歴然だった。時間がたつにつれ戦力差は開いていく。
おまけにここ数年、信長の手で武田家の同盟勢力は次々と滅ぼされている。今では有力な同盟勢力は大坂の石山本願寺しか残っていない。しかも、その本願寺もいつ陥落してもおかしくない状況だ。
本願寺が織田軍の相当数の兵力を拘束出来ている間に決戦を挑むしかない。
長篠こそが戦争の主導権を奪い返す最後にして最良の機会なのだ。
一方で決戦もまた修羅の道だということを勝頼はよく理解していた。
織田軍は3万5000人。徳川軍をあわせると4万人を超える。
しかも、信長は万全を期して大規模かつ強力な縦深陣を展開している。
すでに連吾川沿いにおびただしい数の馬防柵、空堀、土塁が築かれており、背後の丘も切り崩されて階段状の切岸が造成されていた。
数に勝る敵が立て籠もる強力な要塞陣地に正面から突っ込まなければならない。しかも、ぼやぼやしていると酒井忠次の別動隊に退路を断たれて攻撃の主導権すら失ってしまう。
逆に言うとこれだけ有利な状況だからこそ信長は決戦に応じたといえる。
勝頼は手持ちのカードの確認を始める。
武田方に有利な点は二つ。
一つ目は攻勢側であるが故に作戦展開のイニシアチブを握れるという点だ。
攻勢側は好きな地点に好きなだけ兵力を集中できる。対して守勢側は包囲を警戒して兵力配置を平均化せざるをえない。
防御側の脆弱部分(部隊間の境界線)を重点的に突けば、総兵力で劣っていても局地的に優位にたつことが出来る。
二つ目は武田ご自慢の最強騎馬軍団の存在。
武田騎馬隊が戦国最強といわれる所以。それは革新的な騎兵運用術にある。
戦国期の騎兵は基本的に支援兵科として運用される。追撃戦、側面援護、機動予備、偵察と主力兵科である歩兵の援護を専属任務とする。武田家は騎兵を単なる支援兵科としてでなく、敵戦力の主軸を破砕する決定的兵科として運用した。
騎乗突撃の破壊力を重視して騎兵を単一兵科として独立させたのだ。
勝頼は歩兵の指揮権を有力国衆に委ねる一方で、騎兵の原資となる騎乗身分の士階級を武田宗家の直轄下に置き、大規模な独立機動部隊をたびたび編成した。
騎兵の総数自体に差はなくとも、支援兵科として騎兵を分散運用するのが一般的だった戦国時代、武田の騎兵運用術は絶大な威力を発揮した。
二つの優位点から勝頼が導きだした戦術は騎兵の衝撃力を活かした突破包囲作戦。迅速な密集打撃によって一点突破を敢行、機動に必要な作戦空間を確保して敵主力兵団を包囲、集中攻撃をもってこれを撃滅する。イメージとしては斜線陣に近い。
史実で武田軍が惨敗した最大の原因。それは鉄砲vs騎馬という単純な構図にあるのではなく、攻撃ポイントを分散しすぎたことにあると勝頼は考えていた。
未来からの転生者である勝頼は長篠会戦の経緯をよく理解していた。
本来、攻勢側が突破を敢行する場合、重点形成箇所は1~2個に絞らなければならない。
しかし、史実の武田軍は広範囲で波状攻撃を繰り返して攻撃衝力をバラバラにしてしまう。これでは攻撃側のアドバンテージを自ら棄てたに等しい。
織田の鉄砲3000丁といっても一地点、一部隊に集中されていたわけではない。防衛側の普遍的な原理として鉄砲隊は広範囲に分散されていた。
それでも、武田の総攻撃に十分対応できたのは武田もまた攻撃兵力を分散したからだ。
楔をうちこむ場所は一点でいい。
一点集中した攻撃兵力を突破地点に連続でうちこめば、どんな堅陣にも大穴を開けられる。一か所でも突破に成功すれば、あとは後方に浸透するだけで勝てる。残りの陣地も自然と無力化されるからだ。陣地というのは基本的に前からの攻撃にしか対応していない。迂回され孤立した時点で戦闘力を失う。
勝頼は突破地点の候補を二つにしぼりこんでいた。
一つは徳川軍と織田軍の境界線。より具体的には石川数正と滝川一益の部隊間境界線を狙う。
担当戦区が曖昧になりがちな部隊間境界線はいつの時代も防衛側最大の弱点となる。しかも、滝川一益の真後ろには織田信長本陣が控えている。
ここさえ抜けば本陣を最短ルートで突くことが出来る。その代わり本陣予備兵力の介入も受けやすく、大規模な機動反撃に直面する危険性が高い。
二つ目の候補は織田軍最左翼の丸山。丸山は地形上の問題から、馬防柵が存在せず防御設備が他の地点に比べてだいぶ簡易化されている。おまけに正面戦区が広いため、兵力密度は非常に薄く突破を狙いやすい。
最左翼なので徳川軍との連携を望めず、総予備兵力を握る織田軍本陣から最も遠い位置にあるので、突破の妨害にあいにくいのも利点だ。
武田家を代表する最強武将、山県昌景と馬場信春。この二人に本陣予備兵力の全てを与え、二つの突破ポイントを同時に突かせる。
山県隊が織田徳川軍境界線を、馬場隊が丸山を突く。
戦闘計画を頭の中でくみ上げた勝頼は早速、諸将を集めて指示を下した。