5月
1
閃光を見た、気がした。
さっきまでの可憐な少女はどこにいったのか、今目の前にいるのは雄々しいほどの威厳と生命力に溢れたひとつのシルエットだった。太陽を背後に高く高く跳躍して、豪快に身を反っている。首筋の後ろから覗く太陽が眩しすぎて表情すら読みとれなかった。俺はというとただ呆気にとられて肩がすくんでいた。その緩んだ顔の横を凄まじい勢いでシャトルがかすめてゆく。審判の笛が鳴り、また1ポイント奪われたのが分かった。
言い訳をさせてもらうなら、そもそも俺はバドミントンなんて強くない。確かに小学生の時バドミントン部に所属はしてたけど、していたってだけで、つまり話になるようなもんじゃない。だから変に期待されても困る。ましてや、こんな球技大会でクラス代表になったところで良い晒し者になるだけなのだ。まあそれにしても、もう少し練習くらいしておけばと悔やまれる。相手は俺の予想をはるかに上回る実力者で、我がクラスの敗退は歴史的敗退に向かってまっしぐらだった。
また1ポイント。最早さっさと終わってしまえと胸のなかで毒づく。サッカーのオウンゴールみたいにさ、こっちからポイントを進呈したい。相手も次の試合まで体力を温存できるし、俺もそっちの方が格好つくし、なんだ良いことだらけじゃん。
ギャラリーを見ても両者の期待度の差は顕著だった。向こうはクラスの大半が応援に駆けつけ、なんと名前入りクリップボードまで作成してる。コートの中の彼女も声援を受けてより調子が上がるようで、浅黒い肌にキラキラと汗が輝いていた。一方こちらのクラスの応援席はベンチに男3人が退屈そうに座っているだけの殺風景で、そして多分俺の表情はほぼ死にかけている。
春の終わりのバドミントンコートはゆるい倦怠で集中力をぼやけさせてゆく。今や俺はあがくことをやめ、なすがままに任せていた。なすがままというのはつまり、無駄な抵抗をせずポイントを与え続け、そして敗者となることで最短距離で試合を終わりに向かわせることだ。
試合終了の笛が鳴ったとともに安堵の溜め息がでた。渇いた微笑みと共に握手を交わす。
「お疲れさま、小林。」
ベンチにいた濱田がお愛想なねぎらいをして、俺は目も合わさずにお愛想で返す。事実俺の身体は一切疲れていやしない。疲れるほど動かしてもいない。俺がしていたことと言えばただバドミントンコートを右往左往していただけだ、というよりも無様に突っ立っていただけだ。抗いもせず。
バドミントンコートを出て木陰の下の石段を抜けると校庭が開ける。今はちょうどハンドボールの試合の最中で、うちの1組と4組が競っていた。どうやらうちのクラスの応援の大半はこのハンドボールの方に流れていたらしく、やいのやいのと歓声が響く。女子達が声を合わせてエールを送る。
「さんたいいち!さんたいいち!
いいよ!いいよ!たっきっー!!」
たっきーと呼ばれた彼はグラウンドを駆け抜けながら、声のした方向に腕を挙げ感謝の意を示した。つられるように女子達の黄色い声が湧く。アニメだか漫画にでもありそうな、なんとも古典的で平和な光景。無駄なほど平和だ。
それにしてもたっきーこと高井はやはり腕がある。素人目で見ても動きが他の奴らと明らかに違う。動きの一つ一つに無駄がなくて、筋肉が波うってるのが分かるのだ。サッカーの本場で鍛えられたスキルはどうやら種目が変わっても大活躍するらしい。ならそのスキルを是非大本命のサッカーにも活かして欲しいところだが、生憎サッカーには出場しないのが高井の憎いところでもある。4組の連中を見るとついさっきまでの俺と同じく、圧倒的な力の差に苛立ちと諦めが混ざった間抜けな表情をしててなんだか笑えた。俺はそれに満足して、それ以上グラウンドの光景が視界に入らないよう目を伏せながら、校舎に沿うようにそそくさと歩き教室へと向かった。
2年1組の教室は校舎2階の突き当たりにある。この時間は丁度皆外に出ているらしく、教室内はカーテンが力なく揺れているだけだった。屋外の景色は1年の時より少し高くなり、雲が低く滑るように動くさまと、校舎から緩やかな坂を下って広がる家並みの様子とがより開けて見えた。彼方を渡るカラスと、工場の煙突から流れる煙と、そして太陽の光を反射しながら輝く車と、そんな景色の一つ一つに心奪われながら俺は窓際にもたれる。上手くは言えないが悟りの境地に似た気分だ。あんなに賑やかなはずの校庭の音は今や別世界かのように遠ざかり、全てはまったくもって緊張感のない木曜の午後だった。つい数分前までの試合のこともまるで悪い白昼夢のように思え、俺はいつまでもここから動かずにいられたらとぼんやり願った。
それにしても暇だ。大いなる暇だ。数ある学校行事の中でも体育祭は露骨にヒエラルキーがものを言う。運動が得意でもない俺みたいに地味な奴は朝から開店休業状態で、出場競技も少ない合間の時間にやることもない、退屈しのぎにも退屈する1日となるだけだった。
鞄からiPodとイヤホンを引っ張り出しておもむろに耳にはめる。教室を包む日常が身を潜め、ほんの一瞬世界は静寂に包まれる。そして物憂げで湿気を帯びたドラムの音が背後から忍び寄ってきた。呟くように歌うボーカルは可愛げとアンニュイさを隠し持ち、自虐的に問いかける、How am I different。僕がどう違うっていうの?さて何がどう違うのでしょう、ここで一人時間を燃やし尽くす俺と、扉の外で三三七拍子をかまえる誰も彼もと。何がどう違うのでしょう。
心をつねられたような鈍い痛みを曇り空に重ねていたら、突如明るいファンファーレが両耳に鳴り響いた。肩が強ばり、突然のことに事態を理解できないでいる頭にギターのうねりと騒がしい電子音が雪崩れ込んできた。まてまて、なんだこの曲??と訝しみながら再生画面に目をやると、「CBD/Only You」との表示があった。CBD、なるほどCBDか。なるほど。妙に納得して俺はとりあえず腕を組む。
CBDを知っているだろうか。この世の中にあまたあるアイドルグループの中で淡々と結成され淡々と活動し、そしてゆるやかに人気をあげてきた、言ってしまえばそれだけのグループである。俺の周りで知ってる人はいない。話題に挙がったことがない。俺も動向を時たま追いながら、ライブの現場にほとんど足を運んだこともない、曲を聞いてもすぐにはそれと分からない、ファンと呼ぶにはおごがましい立場ではある。
[CBD]
CBDは日本の女性アイドルグループ。ROC湯浅プロデュースの下、「限りある花の季節に最高のPartyを作り出す」ことをコンセプトに活動している。CBDとは「Cherry Blossom Decade」の略。
〈概要〉
2009年、静岡県の清水アクターズアカデミーにおいて3人組ユニットとして結成され、7月に県内のブロレスドームでお披露目を行う。(当時は「桜ディケイド」名義。)翌2010年、「チェリーブロッサムドリーム」でインディーズデビューを果たす。当時は地元のイベントやライブハウスでの活動が主だった。2011年2月、「桜の花びら満開キャンペーン」と称した二次オーディションを開催し、10人を越えるグループアイドルへと成長し、この頃から「CBD」と名称を変える。同年8月に「アイドルはやめられない」でメジャーデビュー。2014年に三次オーディションを行い現在の体制になる。2015年にはシングル「Hugして!ダーリン/永遠の芽」で自身最高位となるオリコン19位を記録。
〈メンバー〉
・丸井美奈子〈リーダー〉
・駒野歩美
・石田朱音
・金子夕莉
・…
・
さて俺はイヤホン越しにCBDの歌声を耳にし、手元の携帯では彼女達のプロフィールを眺めていたため耳と目を奪われていた状態だったのだが、それが裏目に出て教室の外から近付いてくる物音に全く気付かずにいた。そのため突然扉が開いて男子達が数人現れた時は大層驚き、驚きのあまり机の上からずり落ちてしまう程だった。慌ててイヤホンを外すと、入ってきたのはハンドボールに参加していた奴らのようで、当然のごとく高井もその中に混じっていた。どうやらハンドボールの試合が終わったらしい。今しがたの俺の盛大なずっこけぷりは当然彼らも目撃していたに違いないのに、互いのお喋りを止めるでもなく俺に声を掛けるでもなく盛り上がりは続き、まるで俺の存在になんか気付いてないみたいだった。俺だって恥ずかしい格好だったから、勿論触れてくれないのは十分にありがたい話なんだけど。先程までの繊細な静けさは掃き散らされ、教室はあっという間に日常的な騒がしさに支配されてしまった。俺だって馬鹿じゃないからこの場にそぐわないのは誰かもわかってる。静かな場所が欲しいなら自分一人で探しにいけばいいのだ。彼らの視界に入らないよう無意味な逃げ腰で教室を去り、そうはいっても行くあてなんてまるで思いつかず、なんとか安住できる場所はないかと校舎内をうろつくはめになった。
高井の笑顔が蘇る。彫刻のような、絵画のような、まるで芸術品かのように整った見事な笑顔。あの笑顔に魅了されて人は彼の周りに集うのだろうか。高井と、あの取り巻き達。彼の人気にあやかりたいのか、彼のおこぼれが欲しいのか、それとも彼の天性のカリスマ性とやらを盗みとりたいのか。何にしても無駄だと思うのだが。だって彼は、違う国から来た人間なんだし。
高井康孝が転校してきたのは昨年の9月だった。教壇の横に立った青年はすらりとした長身で、首筋まで流れるような髪の毛と冴えた眼差し、服の上からでも分かる仕上がった筋肉はサッカーで鍛えられたという。クラス中が言葉を失い彼の姿に視線を奪われた。緊張していた彼は少し決まり悪そうな態度で照れ隠しをして、皆に向かい軽くお辞儀をした。
「…高井康孝です、8月までドイツのハンブルクにいました。生まれてからずっと向こうにいたんでこっちにはあんま馴れてないんですけど…よろしくお願いします。」
その少し不器用な挨拶、それだけでもう充分だった。その自己紹介が済んだ時から彼はクラスの、学年の、学校中の注目を一身に集める存在となっていた。
高井康孝は日本人とフランス人のクウォーターといい、なるほど確かに白い肌と少しホリの深い顔立ち、そして吸い込まれそうになる淡いブラウンの瞳は日本人離れしていた。教壇から降りて自分の席に着席してからも、そう例えば皆と肩を並べ授業を受けるだけのごく日常的な一コマですら、陽の光に透ける睫毛や首筋で軽く揺れる髪の先、そして少し気だるげに椅子にもたれる背中から気品としか言いようのないものが放たれていて、そこだけ世界が断絶されてしまったかのような疎外感すらあった。
この彗星の如く現れた新しいアイドルを放っておく人があろう筈もなく、高井の名はその日のうちに学校中に知れ渡った。どう調べあげたものだか、翌日には彼にまつわる事実とも都市伝説ともつかない噂がいくつも流布し、高井康孝はもはや一つの現象へと化けていた。彼の父親は海外の証券会社につとめる資産家で、高井は日本で生まれてすぐドイツに移住、この秋に母親と共に祖父母の住む日本に15年ぶりに帰国することとなった。ドイツでの彼は地元でも指折りの強豪サッカーチームで活躍し、レギュラーメンバーに抜擢される実績をもつ筋金入りのエリートであり、なのにどういう風の吹き回しかここ日本では人前でボールを蹴るのを徹底して拒み、その実力のほどを目にする機会は未だない。まあだけどそのミステリアスさが尚更良しとする女子も少なくはないので、つまるところサッカーの腕なんてアクセサリーの1つに過ぎないってわけだ。
高井がクラスの実権を掌握するまでに長い時間はかからなかった。冬休みが明けてすぐ音楽祭の準備が始まる。クラス代表の指揮者とピアノ伴奏者を選ぶことになり、経験者はいるのかという話になったところで期待を裏切らず彼が手を挙げた。そのままするすると指揮者に任命され、教壇の上にあがった高井からは既にカリスマのオーラのようなものがめらめらと放たれ、同い年のはずなのに永遠に越えられない柵の向こう側に行ってしまったような気分だった。
たとえば右手に楽譜を取り譜面を確認する姿、はたまた指揮棒を振りながらクラスメイトの一人一人に熱い視線を注ぐ姿、その挙動のいちいちに女子達は色めきだった。余所のクラスから高井を拝まんと覗きに来るのもしょっちゅうだった。男子達が敵意を剥き出してたのもはじめの頃だけで、なにしろ彼は黙っているとその凛々しい顔立ちの為に気難しい性格かと誤解されがちだが、話してみれば冗談もつくし思いやりもある、気さくで人情味ある人間だと分かったから。つまり端から勝負になる相手ではなかったのだ。例の“たっきー”というニックネームもこの頃に生まれた。俺は彼を取り巻く輪の中に混じることはなかったが、彼の様子をまるで一つの戯曲を鑑賞するかのように眺めていた。自分と比較する気にもならないその慕われぷりは、見てていっそせいせいした。
話を音楽祭に戻すと、俺達のクラスは決して順風満帆とはいかなかった。というのも、歌唱曲を「流浪の民」というソロパートが欠かせないものにしたのだが、その肝心のソロパートを任されていた合唱部の片山さんが練習開始早々喉を潰してしまい、ソロパートはおろかコンクールの参加すら不可能となったのだ。これは痛手だっだ。とりあえず急遽ソロパートを任せられる別の女子を見つけなければならなかったが、生憎そう都合よく実力者はいない。本番まで2週間を切ろうかという折、俺たちのクラスは歌唱曲の変更すらあり得る事態となったのだ。しかし、高井は歌唱曲を変更しなかった。その代わりに新たな歌い手を推薦してきたのだ。それが渡邊李奈だった。
それは誰もが面食らう人選だった。渡邊李奈は、言ってしまえば地味な少女だった、というより地味という印象すらない少女だった。よく見れば目鼻立ちは大分整っているのだが、自分に自信が持てなくていつもうつむき加減で、かつて彼女が笑った姿を目撃した人などいるのだろうか?昼休みになるとぼんやりと窓の外を眺めるその横顔があまりに繊細でそのままはらはらと壊れてしまいそうで、少し後ろの席の俺は数秒と視線を向けていられなかった。渡邊さんはそんな少女だった。
クラス中から疑問の声が上がり、渡邊さん自身も泣き出すんじゃないかというほどに狼狽え、強く拒否した、というか実際泣いていた。これじゃあまるで虐めてるみたいじゃないかと思ったがどうしようもない。高井は彼女の涙に心動かされる様子もなく頑として譲らない。その強い意思に、ならせめて試しにと彼女にソロパートを歌わせてみる場が与えられた。が、渡邊さんは意地でも歌いたがらない。周りの女子達がなだめすかしても効果がなかったところ、突然高井が彼女の前に立ち、ゆっくり膝をついて頭を下げた。ドイツ育ちがジャパニーズ土下座かよ。ざわつくクラスの中、彼女もようやく心を決めたようで、それなら分かったやってみるね、と承諾した。先程までの涙も声の震えもすっかり止んでいた。
彼女の歌声は、見事だった。先程までの弱気な態度はなんだったのかと思うほど完成された歌唱だった。あれほどまでに騒いでいた奴等も水を打ったように静まり、歌い終わった後の教室には静寂がおとずれた。渡邊さんは気まずそうに一礼し、その姿に高井が拍手すると、皆の拍手が続いた。もはや彼女の抜擢に文句のつけようなどなかった。
俺ももちろん拍手をして、手を叩きながら、なんかまるで運命みたいだな、と思った。最初からこうなるような運命。高井という鬼才によって定められた、渡邊さんの運命。ちなみに運命は往々にして悲劇に用いられるんだよな、なんてことまで考えてた。
浮遊霊かのようにあてもなく、俺は校舎をずっとうろついていた、一人きりになれる場所を求めて。体育祭という祭りは心を昂らせるメカニズムでもあるんだろうか。今日は右を見ても左を見ても陰も日向も人に出くわす。俺はただ何もない場所で何もせず音楽を聞いていたいだけなのに。やっとの思いで辿り着いた音楽室の横イスで組まれたバリケードの奥も、覗いてみたら男女二人が手を取り合いぴったりと密着してて、それも男の方に至ってはこの前廊下ですれ違いざま俺を睨みつけてきた奴だったりして、間が悪いったらありゃしないと運を恨みつつ音をたてぬよう慎重にその場を退散する始末だった。
音楽祭はもちろん大成功に終わった。俺ら1年1組は審査員賞に輝く成績をおさめ、壇上で賞状を受け取る高井の勇姿には勝利の鐘の音が轟いてた。成功の立役者となった渡邊さんはさながら高井に見いだされたシンデレラのようで、ほんの少し前まで誰にも気づかれることのなかった存在が、高井という魔法使い(むしろ王子様か)の手によって今では誰もが一目置く少女へと変貌を遂げていた。俺は、俺は言うなればカボチャの馬車といったところか。別に馬役でも大差ないが、つまりその他大勢ってところだ。
でも、カボチャにだって心はあるし、記憶はある。カボチャは王子さまの知らないシンデレラの姿を胸に留めている。シンデレラは、渡邊李奈はかつてフリフリの衣装を身に纏い、歌って踊っていた、CBDこと桜ディケイドの一員として。記録からも探ることのできない彼女の経歴は、静岡から土地を変えたこの千葉の高校では知っている人など他にいようはずもなく、同じ小学校というよしみがある俺だけが記憶していた。彼女自身はどうやら俺のことを覚えていないみたいで、(正直言えば俺も入学してしばらくは彼女を思い出せなかった、)この高校で再会してから約一年まともに会話らしい会話もなかったけど、それでも俺は彼女を見てきてた。昨日今日現れた王子なんかに易々とこの少女を譲るわけにはいかないくらいの気骨はあった。
本番前は体調不良かと心配になるほど思い詰めた顔をしていた渡邊さんは、しかしステージに立った瞬間落ち着き払った態度で、軽く微笑みすら浮かべていた。これがプロ根性ってやつか。出番が済むと俺らのクラスは一旦会場の入り口に集まる仕切りとなっていて、ゾロゾロと暗転したステージから降りて移動している最中、近くを歩く彼女の姿が目に入った。渡邊さんは再び本番前と同じく、いやむしろ本番前より酷く体調が悪いかのように、うつむいてふらつきながら歩いている。その様子を数メートル横から伺っていたら彼女は俺の視線に気が付き、青白い顔をこちらに向けてきた。ギクリとしたのもつかの間、俺の方に近寄ってきた彼女はもたれるように右腕を掴んできた。俺はもう冷静な顔をしながらパニック状態で、動揺を抑えるだけで精一杯だった。
「ごめんね、小林くん。なんだろう…今頃になって緊張してきちゃって…。うーん、あまり上手く出来なかったな、みんなに申し訳なくて…。」
謝る彼女の腕が震えている。改めて見ると、この人の肩はこんなにも小さく、折れそうなほど繊細な少女だったのかと目を見張る思いだった。
「でも、やって良かった!大勢の人の前で歌うのって凄く気持ちいいね。この機会をくれた高井くんには感謝しなくちゃ。」
そう言って渡邊さんは軽く微笑んだ。彼女の笑顔を、その時俺は初めて目にした。それはまるで全身の血が逆流し出したみたいな気分で、俺は知らずに力を込めて彼女の目を見つめ、そんなことないよ、渡邊さんは物凄く良く出来てた、最高だったよと力を込めて訴えた。本当はもっともっと伝えたいことはあったけれど、言葉になるようなものは何もなかった。
ホールの入り口に移動すると既にクラスメイトの大半が集まっていた。高井が指揮者として皆の前に立って挨拶をし、おまけに渡邊さんをやたらべた褒めして、その流れで彼女も挨拶することとなった。彼女は俺のすぐ隣でややこちらにもたれながら、それでもさっきまでのあの弱気はどこへやら、はにかみつつ丁寧に感謝を伝える。彼女の挨拶が拍手で迎えられる中、高井は俺の顔を見てニヤリと笑い、「なんだよ小林、渡邊さんとくっついちゃって羨ましいな!」とからかってきた。渡邊さんが慌てて手を離し、俺も急いで姿勢を直すとクラスメイト達から冷やかしが飛んで、どうしたら良いか頭が回らずただ決まり悪く笑うしかない俺の横で彼女は必死に弁明しようとして、その慌てぶりを更にからかわれた。その笑顔も、こんなにいきいきとした表情も全てはじめてのもので、彼女は今や新しい扉を開けて違う世界に飛び込んでいったのだと感じた。
よしっ、今日はこのまま打ち上げにいこうぜ!と高井が提案し、反対する者はいなかった。といっても俺はその流れに乗じて一人で先に帰ろうかなんて胸の内で考えてて、実際音楽祭が閉幕した後こっそりクラスメイトの輪の中から抜けようとしたのだが、そこで袖口を引っ張ってきたのが渡邊さんだった。「小林くんも一緒に行こうよ!」と屈託のない笑顔で誘われたら最早一人だけ帰るなんて選択肢は無く、そのまま皆で一旦教室に向かい、そこから7時に打ち上げ会場へ集合することとなった。クラスメイトの皆で打ち上げなんて人生初めてのことで落ち着かず、こんな日が来るとは予想だにしなかった驚きとくすぐったさで俺は結局開始ギリギリまで教室で粘ってしまった。クラスメイトのほとんどが打ち上げ会場に向かった後にやっと教室を出て、2月の冬空の下、自転車を引っ張りながら校門まで向かう。その時ふいに肩を叩かれ、振り返ればそこに自転車を押している高井が立っていた。
小林、お疲れさまっ!と破顔すると彼は右腕をグイと俺の肩に回しその端正な顔を近づけてくる。噂の透き通ったブラウンの瞳が数センチ前まで近づき、俺は思わず言葉を失った。「一ヶ月半、練習大変だったよな!一回も休まないでついてきてくれて本当ありがとう。」と指揮者としての当たり障りのない挨拶をしたあと俺の目を見て「さっきは茶化しちゃってごめんな、オレ、これまで小林とちゃんと話したことなかったけど、これからは友達になろうぜ。よろしく。」と握手を求めてきた。そのオープンなコミュニケーションに外人の気質を思いながら、俺も促されるがままに握手を交わした。
俺らの少し先から、渡邊さんが自転車を押しながらこちらに微笑んでいる。二人とも、打ち上げ始まっちゃうよ!と呼んでくる声に、今いくよ、と答えながら俺と高井はそれぞれの自転車を漕ぎ出した。閉まりかけた校門を抜けるとこの街の夜景が一望出来て、幾千もの灯りが群れのように集まっているのが見えた。顔を上げれば冬の夜空には星が天井いっぱいに瞬き、頬を差す冷たさの中に俺の吐息が白くたち昇った。その冷気を胸いっぱいに吸い込むと俺の身体の中にも小さな輝きが吸い込まれたようで、サドルに腰かけてペダルを漕ぐ足に力を入れ、長い並木道を滑るように駆け抜ける。輝きは俺の身体を飛び出し目の前を走る二人の背中にも躍りだし、これが世に言うときめきなんだと俺にも理解できた。渡邊さんのマフラーが尻尾のように跳ねながら揺れる。右に左に上に下に絶え間なく動き、いつまでも飽きることはなかった。
この日、打ち上げ会場で高井が渡邊さんに告白をし、はれて二人は恋人となったのだと、俺は後から知らされた。ほんの少し俺が席を外している間だったという、皆が見てる前で高井は彼女の名を呼び、好きです付き合ってくださいとストレートに愛を告げ、受け入れた彼女をきつく抱き締めた、その光景を俺は後から動画で目にすることとなった。ほんの少し、俺が席を外している間の出来事だった。
そして時は経った。この春のクラス替えで俺と高井は同じクラスに、渡邊さんは別のクラスに分かれた。彼女の笑顔も肩ももう随分と見ていない。あの音楽祭の夜のまま俺の記憶は凍りついてしまったようだ。今や春が終わりそろそろ夏が近づこうとしてる。何の重みもない夏だ。ただ延々と日が照りつけるだけの。
外の騒がしさはリレーで最高潮をむかえ、その後は波が引いたように穏やかになっていった。本日のプログラムが全て終わったのだ。応援にも出向かず、更には全員参加のバスケットボールもサボってしまった。かといって他になにかしていたというわけでもなくただ校舎内を徘徊していたのだから皆にあわせる顔もない。校庭に出ると夕暮れの太陽が地上と天空をくまなく照らし、そこに集まった生徒たち一人一人の顔に濃い輝きと影を落としていた。皆の笑顔が眩しい。彼らは今日一日をどうやって生きていたのだろう。なぜあんなにはしゃぐことがあるのだろう。もしかして、もしかしてだけど今日何もせず迫りくる退屈と格闘していたのはこの群衆の中で俺だけなのかもしれない。力ない風がくるぶしをくすぐる。ぼやけたアナウンスが、まもなく閉会式が始まります…全校生徒は校庭に集合してください…と呼びかけていた。
こうして日々は過ぎる。俺はいつまでもここに留まっている。そんなの知ったこっちゃないと人々の群れは絶えず形を変え、徐々に整列をなしてゆく。俺もそろそろあの列の中に加わらなければならない。人と目が合わないようにうつむきながら、石段を抜けて校庭の土を踏みしめた。2年1組の列を後方から割り込み、自分の所定位置につく。
この時俺は気付かずにいたのだが、高井はこの場にいなかった。渡邊さんも。二人は閉会式もそのあとのホームルームもそのまま参加することはなかった。そして体育祭は幕を閉じたのだった。
とりあえず今回はここまで投稿させていただきます。
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