プロローグ
踊る阿呆に見る阿呆、呼び込む阿呆が三つ巴でpartyが始まるよ
強い光が瞼の裏にまで差し込んできたようで、こらえきれずに眉を寄せた。光は目を開けるのにあわせて太陽の形となり、そして私は朝がきたのを知った。景色はやがてピンク色の橋と黒く輝く海に姿を変え、眩しくつぶれた太陽がこの世の全てかのように目の前にあった。私の顔はだらしなく緩み、ヨダレが口から頬にかけて垂れているのが気持ち悪くて手で拭いた。髪の毛が数本キラキラと揺れ、その横を車内の埃が輝きながら左から右に浮いている。朝のきらめきに包まれ目に写る全てがスローモーションだった。
バスはなめらかになめらかに前進する。心地よい揺れに包まれて私はまだ夢見心地でいた。姿を現した朝日が鉄橋の向こうでチカチカとまたたく他は対向車も見えないこの道は、どこまでも地球をめぐるように感じられた。
「尾崎さん…、今何時?」
隣に座る尾崎さんは40歳くらいのおばさんで、ショートに切った髪から微かに香水の匂いがした。「もうすぐ8時よ。」と答えた彼女は、「まだかかるからもうしばらく寝ておきなさい。」とこちらを振り返って微笑む。
私は小さく返事をして体の向きを直し、座席に体を沈めた。まだ8時、出発してから30分も経ってなかったのね。もうひと眠りしよう。目を閉じてしばらく考え事をする、今日は名古屋まで行かなくちゃいけない、帰りは何時になるんだろう?明日の宿題間に合うかな、確か計算ドリルがあったはず…。それに今日は商店街で久しぶりに屋外のイベントだけど、寒かったらどうしよう。というかこんな休日の朝に誰か観に来てくれるのかな。ステージに立つとお客さんの様子はバッチリ見える。興味なさそうな目をしてるとどうしても焦ってしまう。焦っちゃダメなのはわかってるんだけど…。不安がひたひたと体に満ちてゆくのを感じなから、やがてまた眠りについた。
バス停に着いたのは9時過ぎで、降りたのは私達一行だけだった。同じポスターが何枚も何枚も大通りの店沿いに貼られている。今日は地元のお祭りの日なのだ。赤と青の文字が大きく踊るポスターは手作りらしさに溢れていて、それを横目にしながら私達十数人で通りを下ってゆくと今日のステージが姿を現してきた。そのステージを目にした私は、思わず後ろにいたあゆみとみなこの方向を振り返った。二人も私と同じ印象をそのステージに抱いたのが表情で分かった、別にもともと特別な期待をしていたわけじゃないんだけど、これはさすがになんかちょっと違うんじゃない?いかにも急いで組み立てたような造りで、予想以上にこじんまりとしてて、そして暗かった。
誰かの囁きが皆の耳に響く、「本当にあそこで踊るの?」それは引率の尾崎さんにも当然届いているはずで、でも尾崎さんは表情ひとつ変わらなかった。「今日はここの地元のお祭りということで、商店街の方々のご厚意でパフォーマンスをさせていただきます。みんな、『よろしくお願いします。』と『ありがとうございます。』は絶対に忘れないように。」と淡々と説明した。
商店街の人に挨拶をしたあと、皆でイベント設営の準備を手伝い、その後みなこ、あゆみ、私の三人は今日のステージ近くのスペースに机を置いて物販の支度をした。今日は私達スクール生の他にもよそのアイドルやパフォーマンスの人達も参加して、15分交替でステージを使う。私達三人は11時35分からと14時50分からの2回出番を貰った。出番がくるまではこうして物販をして、生写真やCDを売ることになっていた。
10時過ぎ。誰も来ない物販スペースの前で私達はやることも特別思いつかず、なんとなくおしゃべりを続けてはステージの方を眺めてた。今パフォーマンスをしているのはうちのスクールのグループで、ともみさんという手先が器用な中学生のお姉さんのお陰でとにかく衣装が凝っている。三人していつもそれを羨ましがっていた。その時私はふと良くない直感がして、念のため持ってきたカバンを探ってみたところ、悪い予感が見事的中し今日の衣装の黒い靴を家に忘れてきたのが発覚した。もちろん今から取りに帰る時間はない。慌てて尾崎さんの姿を探し、事情を説明して急遽別の靴を探して、結局近くの靴屋で買ったもので代わりに出演することとなったけど、机の上に揃った黒い靴は見れば見るほどあゆみ達のものと違うのが分かる。苛立つあゆみにも慰めてくれるみなこにもかける言葉が思いつかなかった。
11時15分。そろそろ直前の出演者のパフォーマンスが始まるので、35分から出演の三人はスタンバイして下さい、とスタッフのお姉さんが案内をした。ステージ近くの更衣室で三人で着替えていると、ステージの盛り上がりが耳に入ってくる。今パフォーマンスをしている「Che×rish」はうちのスクールでもトップクラスの人気で、20人以上の常連のファンが詰めかけているという。あゆみと二人で窓から様子を探ると、賑やかさが一目でわかった。でもあの人たちはChe×rishのファンで、私たちの出番になればいなくなってしまう。今日は会場が名古屋だから、お母さん達も遠くて観に来れない。私達は、私達だけの力で観てくれる人を呼ばなければいけない。重いものが心にのしかかって、言葉が出なかった。あゆみもみなこも黙りこくっている。私達三人は目に見えない圧力に息が詰まりそうになりながら、衣装に着替えて、ステージ裏で待機した。
そこは陽も差さず、冷たい風が身体のまわりを渦巻いて心細くさせる場所だった。緊張に弱いあゆみはお腹が痛いと言い出し、私はもはや半分諦めたような気分でいた、なんて場違いなところに来ちゃったんだろう、そもそもが身の程知らずなんだと自分に言い聞かせた。そう、私達は身の程知らず、“さくらディケイド”なんてアイドルグループ、誰も知るわけない。アウェイでもともとなんだから。
直前のグループのパフォーマンスが終わった。5分のブレイクが終われば私たちの出番がやって来る。三人して不安げな眼差しをしていたら、ステージから降りてきたパフォーマーの女の子に怪訝な顔をされた。心臓はとても早く打っているのに、どこかに置き忘れてしまったみたいに不思議と音がしなかった。
強い風が吹いたのはその時だった。風は私達のスカートを吹き抜け、あたり中にぶつかっては方向を変え、挙げ句に側にあった白い塗料の筒を真横に倒していった。飛び跳ねた塗料は一番近くにいた私の足元へと降りかかってくる。尾崎さんが買ったばかりの黒い靴はあっという間に白いまだら模様に染まった。私は驚き、そして焦り、そして失望に肩を落とす。もはや何もかもが手遅れだった。拭いたところで落ちやしないだろう塗料に、今さら新しい靴を買いになどいけないこの状況。向こうの道路を走って行くバスにのってこのまま家に帰ってしまいたかった。
ふと、みなこが動き出した。倒れた筒の前に広がる白い水溜まりへ歩いてゆく。水溜まりの中に足を踏み入れ、その場で何度も地面を踏みつける。みなこの靴が白く染まってゆく、つられてやってきたあゆみの靴も。見れば二人は私の方に向かって微笑んでいた。ゆるりと解けてゆく緊張に私も微笑み返し、水溜まりの中に踏み込んでいく。黒い靴は踏めば踏むほど白くなる。爽快な気分だった。誰かの鼻唄が肩の先で揺れている。これでいいんだ、楽しもう。良いか悪いなんて今はもうどうでも良くて、楽しむしか他に道はないの。
さあ次は桜ディケイドのステージです、陽気な司会者の声に私達はステージ横に整列した。暗転したステージへ続く短い階段の元に立ち顔を上げると、外の景色が視界の端に入り込んで来たけど、無理にでも見ないようにした。誰かがいればそれで大丈夫、何人来るかなんて関係ない。とにかくただただ楽しまなきゃ、考えたって仕方がないもの。周りを包む囁きが沈黙になって、そして遂に「チェリーブロッサムドリーム」のイントロが鳴る。ステージは花開くように明るさに包まれ、光が上方から私の顔を照らした。最後に深く深く息を吐く。両の掌を胸の上に当てれば、心臓の鼓動が身体の奥深くから伝わってきた。ドクン、ドクンと震えるように。
ステージが目を覚ます。