悔恨の渓谷
ここに連なる山々には木も草も生えてはいない。険しいその道は、何人も立ち入ることを拒むかのように、荒々しい風が常に吹いている。
かつては断罪される咎人達の刑場への道であったため、悔恨の渓谷と名が付いた。今や通る者はおらず、死んだ咎人の嘆きが風と共に響いている。
巨大なモボスの門を抜けて暫くすると、険しい渓谷に出た。
進むべき道は細く、細かな石やひび割れが目立ちあまりいい状態ではない。ともすれば奈落の底に落ちてしまいそうなほどであった。
「人ひとり通れるかどうかだな……。」
恐々と道の端から下を覗く。底すら見えぬ暗闇が、こちらへ来いと手招いているようにも見える。
なるべく下を見ないようにして、ゼノは歩き出した。
渓底から吹きあがってくる強い強風は、岩肌に手をついていないとよろめいてしまいそうになる程だ。
「風が強いな……。」
担いでいる盾に風を受けないように体勢に気を付けながら歩き続ける。
太陽すら出ていない灰色の空は、時間の経過が全く分からない。
いい加減渓谷を出てもいいのではないだろうかと思ってきたが、一向に抜けられる気配はない。
ため息をついてまた歩き出す。
――おぉう。おぉう。
「……ん?」
今、微かに何かが鳴いているような声が聞こえた。低く、悲哀に満ちた慟哭が不気味に響く。
風の音だろう。そう結論付けようとしたが、今度はもっと近くで声が聞こえた。
深い渓谷の向こうを見れば、大きな蝙蝠の群れが不気味な羽根をはためかせている。だが、何かがおかしい。
「なんだあれは……。」
徐々に近づいてくる蝙蝠の大群をよくよく見れば、蝙蝠とは全く似ても似つかぬものであった。
灰色の薄い皮膜の翼こそ蝙蝠に似ていたが、その本体は小さな人間に似ていた。
干乾びた亡者の様な細い手足、灰色の肌、ぽっかりと空いた眼窩には虚ろな闇ばかりで何もない。その口から放たれる慟哭の如き声は聞く者をぞっとさせるほどであった。
その群れは、まっすぐゼノへ向かってくるではないか。
「っ!どこかに隠れる場所は……」
慌てて周りを見るが、そばには切り立つ断崖と底すら見えない渓谷しかない。
ゼノは意を決して走り出した。渓底からの強風がその体を押し上げるように吹き付ける。
ハアハアと息が上がり、心臓が爆発しそうなほどに鼓動を激しく打つ。
それでも、原始的な恐怖というものに支配されようとしている身体は、足を緩めることはなく狭い道を駆け抜ける。
「はあ!はあ!くそっ!」
走っても走っても横穴一つ見つからず、ゼノは忌々しそうに舌打ちした。
羽音はすぐ近くに迫っている。
――おおぉぉおおお。
亡者の叫びと言うのはこういうものなのだろうか。全身が総毛立つような不気味な声がすぐ近くで聞こえた。
ゼノは純粋な恐怖から剣を抜き、視線をそちらへ向けた。
蝙蝠の化け物は、ゼノのすぐ横をふらふらと飛んでいた。
ぽっかりと開いた眼窩には何も映してはいないが、明らかにゼノの方を向いている。
枯れ木のような腕が、ゼノに向かって伸びてきた。その手は何かに縋っているようにも見えるし、奈落の底に引きずり込もうとしているようにも見えた。
「寄るな!化け物!」
走りながら滅茶苦茶に剣を振り回す。子供が棒切れを振り回しているかのようであるが、ゼノにしてみれば文字通り必死であった。
その刃が運よく化け物の腕を薙いだ。枯れ木と同じくらいに細い腕は鋼の刃の前に簡単に断ち切られ、薄い被膜を張った羽根はいともたやすく斬り裂かれた。
ぞっとするような悲鳴を上げて化け物は奈落の底へ落ちていった。
「弱い…いや、脆い、のか……?」
走りながら化け物の方を見る。汗が目に入りひりひりと痛みを訴えるがそんなことはどうでもよかった。
攻撃力はさほどでもない。しかし、あの圧倒的な数は一人で倒し切るのは不可能だ。
「ここは突破するしかないか……!」
腹を決め、盾で体を覆うように掲げてゼノは細い道を一気に駆け抜ける。
――おおぅおおおぉおう。
耳元であの声が響く。脇を見れば、灰色の細い指がしっかと盾を掴んでいる。化け物の顔がすぐ近くに現れ、にい、と笑った気がした。ぞっとしてゼノは盾でそれを振り払う。
灰黒の群れが、ゼノのすぐ後ろに迫っていた。
剣で薙ぎ払い、盾で振り落としながら、ゼノは走り続ける。もういっそのこと、兜と鎧を脱ぎ捨ててしまいたかった。
その重さと激しい動きに腕が、脚が、心臓が、悲鳴を上げている。
もうだめだ。そう思った時だった。
――あの洞穴に走れ!
確かに、男の声でそう聞こえた。ぐねぐねとした山道の遥か先を見れば、ぽっかりと黒い穴が開いている。大きさはさほど大きくない。身をかがめて入るのがやっとであろうか。
悲鳴を上げる身体を無理やり動かし、ゼノは洞穴目指して走り続ける。
いきなり、鋭い痛みが右腕を貫いた。右腕に取りついた化け物が、肘の内側、鋼の板金に覆われていない場所にその歯を突き立てたのだ。
灰色の口から見えた黄色い乱杭歯は人間の物とよく似ていた。鎧の下に着こんでいる分厚い革の筒袖は貫通こそしなかったが、その顎の力は人の比ではない。
「離れろ!」
生理的なおぞましさを感じ、思い切り振り払う。だが、化け物はひらりと離れ、ゼノから付かず離れずの場所を飛び回る。
化け物共はまるでゼノが弱るのを楽しんでいるかのように、取りついては離れを繰り返していた。
更に呼吸が荒くなり、脚が縺れそうになる。
洞穴まで、あと少し。
ゼノは更に脚を動かす。たとえ心臓が破裂しようとも、あの化け物共に生きたまま貪り食われるのはごめんだった。
――おおおぉおおおお!
それは化け物の声だったか、ゼノ自身の声だったか。
洞穴まであと数歩まで来た時、がくんとゼノの身体が前に傾いだ。
「うわ!」
走るのに無我夢中で気づかなかったのだろうが、その足には化け物がしがみ付いていた。バランスを崩したゼノは、数歩たたらを踏んだ後、そのまま洞穴に吸い込まれていった。