名も無き騎士
血を流したような赤い花が一面に咲き誇る。鮮やかな紅の花弁がふわりと風にたゆたい、赤い雨を降らせた。
その中に、風の中に溶けてしまいそうな白金の長い髪をたなびかせながら、水色のドレスを着た少女が佇んでいた。
だが、少女の顔だけがよく見えない。明らかに、こちらを向いているのに。
はらはらと、温い雫が頬を伝って、初めて自分が涙を流しているのだと知った。
何故、私は泣いているのだ。
滲んだ視界が彼女の顔をかき消し、見ることができない。
涙は泉のように湧き、
言葉にならない慟哭が響くのみ。
何故だ。
ああ。済まない。許してくれ。
――――――――――
ぬるま湯に浸かっていた意識が、ゆるゆると浮かび上がり水面に顔を出した。
どれだけ眠っていたのだろうか。随分と懐かしい夢を見ていた気がする。酷く哀しく、狂おしい夢だ。だが、その中身はおぼろげで、明確には思い出せない。
「……此処は……?」
酷く体が怠い。どうやら冷たい砂利の上に長い時間横たわっていたようだ。辺りを見渡すと、一面に薄く靄がかかっていて、空は今にも泣きだしそうな曇り空だ。直ぐ目の前にはその曇り空を鏡映しにしたような陰鬱な色の河が流れていた。対岸は真っ白な霧の中に隠れていて、どのくらい川幅があるのかすらわからない。
私は何をしていた?それを思い出そうとしても、深い霧の中に迷い込んだように思考が迷走する。
「私は、誰なんだ?」
体を起こせば、ガシャリと重い金属の擦れ合う音が響いた。手のひらを見る。分厚く、使い込まれた革手袋に、傷だらけの手甲。身体を触れば硬い鋼の感触しかしない。
「鎧…?」
重い体を引きずり、そばにあった水たまりを覗く。そこには、鎧兜姿の騎士が映っていた。恐る恐る顔を覆う兜を脱ぐ。現れたその顔は、短く刈られた金髪に、冬の晴天のような蒼い眼。所々生えた無精髭が男らしい精悍な印象を与える。自分の顔だというのに見知らぬ者のようにしか感じない。
「私は、騎士なのか?」
見れば鎧の至る所に傷やへこみが目立っていた。艶やかだったであろう銀の鎧は、煤や傷にまみれ見る影もない。
よろよろと立ち上がり、河の方を見る。鉛色の河はかなり流れが速く、このまま入ればひとたまりもなさそうだ。試しに手を入れてみたが、凍える程に冷たい。
「どこかに、船はないのだろうか。」
周りには人家、いや、人の姿すらない。川の流れる音と、頬を撫でる冷たい風が否応なしに孤独感を煽る。
鈍色のグリーブに守られた脚で、砂利を踏みしめながら歩き出す。
何故だか前も来たような気がしてならなかった。
「おおい。おおい。」
どこかで、声が聞こえた。嗄れた老人の声だ。
とりあえず、声の方へ向かって歩き出す。敵かもしれなかったが、こんな陰鬱な場所で一人きりだと気が狂ってしまいそうだ。
しばらく歩けば、小さな渡し船が見えた。傍には粗末な身なりの小柄な老人がこちらに向かって手を振っている。
「ようやく来たか。遅かったな。このまま行っちまおうかと思ったぞ。」
老人は真っ白な長い髪と髭に覆われて、目も口も分からない。こちらの方を向いているのだから見えているのだろうが。
渡し舟は今にも朽ちて沈みそうな木舟だ。舳先には真鍮のランタンが釣り下がっている。
「……そなたが、船頭か?」
老人はそれに答えずに、いかにも面倒臭そうに溜息をついた。
「あんた、記憶がないのか。マンドレイクの涙を使ったな。あれはほぼ全ての傷を癒すが、頭がイカれちまう。記憶だけで済んでよかったな。」
装備は預かってるぞ。と言うと老人は小舟に積まれていた剣と盾を指した。
マンドレイクの涙?何のことだ?この老人こそ頭がおかしいのではないのか?
男は何が何だか分からず、困惑するだけだった。
「あんたの装備は此処にある。確かめてくれ。」
「……ああ。」
無造作に船底に転がされていた剣と盾を手に取る。刀身は何の変哲もない鋼の直剣だ。柄に巻いている布はボロボロだったが、握ってみれば何年も使い込んでいるかのように不思議と手に馴染んだ。
左手で盾を持つ。黒銀の八角形の盾の真ん中には、漆黒の石が埋め込まれており、それを守るかのように炎を纏った二匹の黒い馬が描かれていた。
ずっしりとした盾と剣、尚且つ鎧を纏っているのに、己の身体はその重さに負けることなく、滑らかに動く。相当鍛えられた剣士だったのだろうか。
「渡し賃は1オボロスだ。」
有無を言わさぬ口調に、男は戸惑った。金などもっているのだろうか。
まごついている男をよそに、老人はさっさと男の左腰に付けていた小さな革袋をひったくって中から歪んだ銅貨を一枚取り出すと、男に無造作に投げ渡した。
呆気にとられながら老人を見やる。
「乗るのか、乗らんのか。乗るなら早くしろ。」
老人はさっさと櫂を手にして舟を出す準備をしている。男は老人の無礼な態度に憤ることも無く、素直に従った。何故だかこの河を渡らなければならないと感じたのだ。
狭い船の真ん中に腰を下ろすと、ぎしりと船体を軋ませながら老人が船を出した。灰色の川辺が遠ざかり、霧の中に消えようとしていた。
「この船は何処へ行くんだ?」
「モボスの門だ。正確にはその手前の灰の河原だが。」
老人がぶっきらぼうに告げる。だが、そんな場所は聞いたことはない。いや、知っていたのかもしれないが、今の状態では同じことだ。
困惑したように老人を見ていると、根負けしたのか、肩を竦めた。
「対岸に着いたら、シビールという修道女に会え。どうすればいいか教えてくれる。」
シビール。明確な目的ができた。彼女に会えば何かわかるのかもしれない。
それきり、老人は口を開くことも無く、無言で舟を漕ぎ続けた。男も舳先に垂れたランタンのぼんやりとした灯りを黙って見つめていた。
――― どうして。
夢に見た、真っ赤な花の絨毯の中に佇んでいた少女は誰だったのか。
何故、そんなに哀しげな声で私を呼ぶのだ。
対岸は、何もない川辺と打って変わって、灰色の小山が見渡す限り、畝を作るかのように隆起していた。灰色の空と河と山は、見るものを不安にさせるような、異様な雰囲気を醸し出していた。
「着いたぞ。この道をまっすぐに行け。そうすればシビールの居る≪茨の修道院≫だ。」
船を降りると、老人は何も言わずに舟を出した。ぎいぎいと霧の中へ消えていく小舟を見送ると、男は歩き出した。
曲がりくねる道をひたすら歩き続ける。山の至る所に生えている朽ち果てた木々が墓標のように見えた。
「なんと暗い場所だ。こんな所がこの世にあるものなのか。」
普通、森の中なら少しは緑や赤、黄色などの色があってもよいはずなのに、目に映るもの全てが灰色と黒と、白しかない。不気味なほどに、色がないのだ。
その景色を薄ら寒い思いで見ながら、立ち枯れた木々の間を黙々と歩き続ける。
ふと、気になって立ち止まった。
「……鳥の声すらしないとは。」
生き物の気配すらしないのだ。しん、と静まり返る枯れた森の中、耳をすますが、己の鎧がガチャリと鳴る音以外何の音も声もしない。
「此処は、地獄か。」
「いいえ。ここはリムブスの森。」
ぎくりと男が動きを止め、声の方へ顔を向けた。その先には、いつの間に現れたのか、全身をすっぽり覆う灰色のローブを着た子供が佇んでいた。子供だと思ったのは、男の腰にも満たない背丈だったからだ。
「石の道を行きますか。それとも棘の道を行きますか?」
ローブ姿の子供は、高い声でそう言った。子供特有のその声は、何だかクリームに砂を入れたようにざらざらと耳障りに聞こえ、男は眉をしかめた。
子供の後ろには枯れた藪が鬱蒼としていて、とても通れそうにない。だが、その子供の左右には、分かれ道が伸びている。
男は目の前の子供に向かって問いかけた。
「【茨の修道院】にはどちらの道を行けばいいのだ?」
子供は俯いたまま、両手を広げてからかうように身体をゆすった。
「どちらでも。道は全てつながっている。どちらを選ぶか貴方次第。」
何が楽しいのか、この灰色の景色にはそぐわぬ声音でくすくすと笑いながら歌いあげると、子供は両手をパタパタと振った。
「さあ、どちら?」
男は黙り込んだ。棘の道と、石の道。どう考えても棘の道の方が険しそうだ。
「……石の道を。」
そういうと、子供は左の道を指さした。
「行けばもう戻れない。後悔しない?」
「……ああ。」
ムッとしながら男が返事をすると、子供はひひひ、と不気味に笑った。
「それじゃあ、進め。もうこちらは進めない。」
棘の道の入り口から明らかに風音ではない、何かが大量に這い回る気配がして、男は振り返った。
「なんと……。」
その入り口は、茨の蔦に光すら入らぬほどにびっしりと塞がれており、その向こうへ進むことは出来なくなっていた。
「そなた、一体……?」
そこで、男は違和感に気づいた。子供のローブが風にたなびいたのだが、全く動く気配すら感じない。意を決して、男はフードに手を掛けた。
「なんだ、これは!?」
ローブの中にあったのは、朽ちた切り株だった。折れた枝が左右についており、丁度、人が両手を上げたようにも見える。
言いしれぬ不気味さを無理矢理押し殺し、男は石の道を進み始めた。