(4)
流れてくる涙を拭い、何度も深呼吸を繰り返した後、智也はようやくしっかりと前を向いた。このままぼんやりと嘆いていても仕方がない、と思考を切り替えることが今の精一杯だ。このわけのわからない世界にも救済措置はある。
「カミサマに会ったら、願いを叶えてくれるんだね」
「えぇ、一応そういうルールになっているわ。だからあんたもわたしも、地球に帰りたいなら魂の欠片を集めなければならない」
「あの……マリアさんの魂の欠片をもう一度見せてもらえる?」
智也がそう問いかけると、マリアは嫌な顔をすることもなく、当然のようにまた服に指を引っ掛けて烙印が見せてくれた。赤い「1」という数字と、黒い「21」という数字が絡まり合うように押されている。これがタトゥーならばとてもおしゃれに見えただろうが、今の智也にはその烙印がとても恐ろしいものに見えてしまった。押し黙った智也に、不審な顔をしたマリアが烙印が見えないように服を引き上げる。
「魂の欠片の、赤と黒の違いは?」
「黒は替えのきく魂の欠片で代替と呼ばれている。赤は一度失えばと二度と手に入らない特別な魂の欠片、意識と呼ばれている。総じて魂の欠片というのよ」
「じゃあ、罪人と呼ばれるゲームの参加者は、2種類の魂の欠片を集めなければカミサマには会えないということ……なんだね」
「えぇ、そうよ」
「じゃあ、あの黒い生き物は……」
「あれは強奪者。わたしたちが集める魂の欠片を狙って現れる。あいつに魂の欠片を奪われると二度と取り返せないわ。それと、あんたがさっきから気になってる大きな鎌は、強奪者や他の犯罪者とやりあうときに使う武器。これはそれぞれに合ったものを支給される、あんたもね。罪人ならばどこかにあるはずよ、烙印も、武器も」
伸びてきたマリアの細く長い爪が鳩尾に刺さる。その衣類越しのわずかな痛みが今この現状が現実のものであるとありありわからせてくれた。不安と混乱の最中で、智也はわずかに得た情報を必死に頭の中で整理していた。そうして脳内にこびりついているように響く、受け入れろ、という意識。全てを受け入れて身をゆだねることがどれだけ楽であり、また危険なことかわかりながらもどこかで、こうなってしまったのなら仕方ないのではないか、という思考が横切っていく。
ただ、智也の中でどうしても引っかかっていることがあった。ここに呼ばれる者が全員、何らかの罪を犯しているということだ。人のことを詮索するつもりはないが、マリアもまた何かの罪を犯したのだろうか。そして、智也も。
「他に質問は?」
そう唐突に問いかけられ、智也は空を見ていた視線をマリアへと合わせた。マリアは退屈そうに指先を動かして遊んでいる。髪と同じ色のまつ毛を伏せていて、先ほどまで智也を見つめていた蒼眼は影を帯びて見えなくなっていた。
「今はとりあえず、整理したい……」
「そう。……普通ならこういう説明はカミサマの側近がすると思うんだけど、あんた本当に何も聞いてないの?」
「僕は普通に朝が来たのだと思って起きたから……」
智也の回答にマリアの伏せられていた目がまっすぐ智也を見つめた。その目はらんらんと輝き、面白いおもちゃを見つけた子供のようだ。ふーん、と唸ったマリアの声には先ほどと違ってどこか弾みがある。マリアはそのままテーブルへ両肘をついて少し身を乗り出すと、智也の顔をまじまじと見つめた。
「そこなのよね。おかしい、普通じゃないのよ。どうしてあんただけ、こんな場所にいて、どうして何の説明もなく目を覚ましたのか……。まあ、いいわ。仕方ないから一緒にいてあげる。ここまで来たらね、わたしもそこまで詳しくこの世界のこと知ってる訳じゃないけれど……カミサマになんて興味もないし」
カミサマ、という単語を口に出した瞬間、マリアの表情は再び覆う影へと呑まれていった。その様子に少し眉をひそめる。彼女が口にするカミサマという単語にはおよそ敬意と取れるものが一切こもっていない。それが智也には不思議で仕方なかった。
神様というものは普通、敬意を払うものではなかっただろうか。
特にマリアは名前や、金色の髪、スレンダーなボディ、自由奔放な雰囲気から勝手にアメリカ出身だと思い込んでいた。仮にそうでなくとも、日本のように無宗教者が多数いる国は珍しく、そして何らかの宗教を信仰しているのであれば、神様というものは大事にされるものではなかっただろうか。無論宗教という問題は複雑で繊細なものだ。無神論者の智也には、おおよそ理解の及ばぬところではあるのかもしれない。
「マリアは、カミサマが嫌いなのかい?」
「は? なに、いきなり」
気になれば口に出てしまう。問いかけた瞬間に明らかに不機嫌な視線を寄越したマリアにびくりと身体を縮ませ、問いかけたことを軽く後悔する。
「いや……なんか、そう感じたから」
「そうね、カミサマは嫌い。神様も、カミサマも信じてない」
言葉を濁した智也に構わず、マリアが遠い目で呟いた。まるで、どこか違う世界を見ているような目。蒼く氷のように透き通った綺麗な目はどんどんと濁っていくように見えた。隠していたどす黒いものが内側から滲み出て目を覆っていく。その変わり様にぞくりと背筋が粟立った。表情は一切変わっていないにもかかわらず、ただ眼だけが変わり、それが空気を伝って空間は異様な雰囲気に支配された。
小さく「ごめん」と声をかけると、マリアの目が智也を捉えた。
「なんであんたが謝ってんの……」
小さく苦笑浮かべたマリアに、もう先ほどまでの濁った目の色はなかった。かといって先ほど見せた子供のような目の輝きは失われてしまっていたが。
「聞いちゃいけなかったのかと、思って」
「別にそんなんじゃないわよ。それより、頭の整理はついた? まだすることが残ってる。夜になるまでに町に戻りたいんだけど」
苛立ちを少し見せながらマリアは立ち上がり、まだ座ったままの智也を見下ろした。せかすような視線にはじかれたように立ち上がる。
「うん……たぶん大丈夫。ここに来るのは地球で罪を犯した者。罪人は自分の身体にある烙印と同じ数の魂の欠片を集めなくちゃならなくて、それを狙うのは強奪者と他の罪人たち。それから守るために武器が与えられる。全部集めたらカミサマに会えて」
「罪を許されて願いを一つ叶えてくれる」
言おうとした言葉をマリアが引き継ぐように答えた。こうして口に出してみると本当にただのゲームルールのように思える。本当にこの家の向こうに魂の欠片だとか、カミサマだとか、存在しているのかすら怪しいところだ。マリアの空想なのではないか、ドッキリを仕掛けられているのではないか、と今状況の整理を手伝ってくれた人間に対して失礼なことを考えてしまう。
だが、ここで閉じこもって考えていても仕方ない。ここはひとまずそういうものという把握をしておけば充分だろう。受け入れるのだ、そう教えられたように。
「飲み込み早くて助かるわ。なら、とりあえずあんたが目を覚ました場所に行くわよ」
「どうして……?」
「あんたが罪人なら体のどこかに烙印があって、目覚めた場所に武器があるはずだから。早く案内して」
「わかった……」
急かすようなマリアの言葉に小さく頷いて、智也は再び階段を上っていった。