(3)
少女の言った言葉の意味や行為が理解できないままに、ぼんやりと伸ばされた手を見ていると、彼女はそのまま智也が立ち上がるのを手伝ってくれた。ぶつけた時の痛みが身体に響く。身体を触り、怪我がないか確かめる。幸いにも智也がへたり込んでいた場所にまで大きなガラスの破片は飛んでいなかったようで、大きな怪我はなかった。ただ、細かいガラスの破片がまだ服などにについているかもしれないと恐る恐る確認する。その間、少女は物珍しそうに部屋の中を眺めていた。
「なんなの、ここ。……ねぇあんた、ここで何してたの」
「何って、ここは僕の家だけども……」
そう答えると一瞬呆気に取られたように智也を見つめた後に、声をあげて盛大に笑い始めた。ここまで人に大笑いされるようなことを何か言ったのだろうか、と怪訝な表情を思わず浮かべると、笑い続けていた少女は息を引きつらせながらもようやく笑いを収めた。
「笑ったりして悪かったわ。あんたがものすごい冗談を言うから。わたしはマリア。2年くらい前に罪人の箱庭へきたの。まあ、つまりはあんたの先輩ってわけ。あんた、名前は?」
「進藤智也。……罪人の箱庭って、何?」
「本当になにも知らないのね。まぁいいわ、面倒だけど説明してあげる。説明するのは慣れてるし……」
「説明……? ここは日本じゃないのか」
「まぁ、それも含めてね。とりあえず、何処か落ち着ける場所はないの」
「1階にリビングがある。案内するよ」
ひとまず会話の出来る、それも智也の置かれている状況を詳しく知ってるであろう人間に出会えたのだ。おまけに彼女はご丁寧に説明までしてくれるというのだからこれを逃す手はない。聞きなれない単語と、そしてファンタジーのような現象を目の前に、もはや待っていれば助けが来ると言っている場合ではないことは明白だ。もし騙されているのならば何処かでドッキリのネタばらしがあるだろう。
1階へ案内をしながらも背後に立ってついてくるマリアへ警戒していたものの、どこへ消したのか知らないが手にしていた大鎌は手元になかったため、次第に警戒心は解けていった。警戒心よりも勝る安心感。自分以外の人間に会えた喜び、そして何かわからない物体から助けられた安堵感。いつしか智也はマリアという少女に対してほぼ警戒心を持たなくなっていた。
1階へ降りて行くと階段を下りた先にあった木彫りの熊を手にとってマリアは珍しそうに眺めていた。それを放って目の前に設置されたリビングの椅子へ腰掛ければ、それに気づいたマリアはさも興味を失ったかのように熊を無造作に置くと、智也の向かい側へと座った。
「それで、罪人の箱庭って?」
「罪人の箱庭はカミサマが創造した、地球と並行して存在するカミの星。まあ、いわゆる異世界みたいなものと考えればいいわ」
面倒臭そうにしながらも丁寧に疑問に答えながら、マリアは目の前に座っている智也をじろじろ眺めている。その居心地の悪さに少し顔をしかめながらも、罪人の箱庭というものについての情報を聞き出すため、小さくため息をついて言葉を待った。
「罪人の箱庭に招かれるのは、地球で何らかの罪を犯した者だけ。ここに呼ばれる罪人は、あるゲームに参加しなきゃいけない」
「罪人……、ゲーム?」
「そ。カミサマが始めたくっだらない暇つぶしのゲームよ。わたしたち招かれた罪人には、体のどこかに烙印が刻まれている。わたしなら、鎖骨に……ほら」
服に指を引っ掛けたマリアがぐいっと鎖骨を見せる。
そこにはマリアの言うように烙印が痛々しく押し付けられていた。赤い烙印の数字は1、黒い数字は21、それらが見せつけるように彼女の白い肌で主張している。あまりの痛々しさに、顔を歪めてそっと目をそらせばマリアは再び服で鎖骨を覆い隠した。
「この数字と同じだけの魂の欠片を集めなければならない。魂の欠片って言うのはいろんな形をしてるわ。球状だったり、何かのものだったり、そもそも形ですらない……罪の意識だったり、痛みだったり。これが魂の欠片という定義みたいなものは存在しないの。このあやふやな魂の欠片というものを、この数字の数だけ集めることが、ゲームの目的よ」
「なんでそんなゲームを……」
「知らないわよ、そんなこと。それがこの世界のルールなんだから仕方ないでしょ。ぐだぐだ考察するのは後にしてくれない?」
苛立ちのこもったマリアの言葉に素直に謝罪を口にすると、それで機嫌を直したのかマリアは再び話し始めた。
「わたしたち罪人の最終目的はこの魂の欠片を全てを集めて、カミサマに会うこと。カミサマに会えば罪を清めて、願いを1つ叶えてくれるそうよ」
「え、ちょっと待って……じゃあ、ここは地球じゃないの? 日本でもないのか?」
思わず立ち上がって身を乗り出した。じわりと嫌な汗が出てくる。次のマリアの言葉を待つ時間が異様に長く感じ、智也は震え始めた身体を必死に押さえつけた。
「だからそう言ってるでしょ。こんな家があることにびっくりしてるわよ。こんなところでなにしてたのよ」
「だから……ここは僕の家で、朝起きたら……誰もいなくて」
「おかしいと思わなかったの?」
「おもったよ! でも、何かのドッキリとか、そういうものだと……思って、それで……」
「残念だったわね、生憎だけどこれが現実よ」
冷たく言い放ったマリアの言葉に、智也はは愕然と椅子へ崩れ落ちた。脱力しきった腕がぶらぶらと揺れている。目眩が起きて、吐き気がこみ上げてくる。
嘘だ、と自分に言い聞かせ、同時にならここはどこなんだという疑問が重なる。巡り巡っても答えは生まれず、結果的にたどり着くのはマリアの言った地球でも、日本でもない罪人の箱庭という世界であること、という答えだけだ。
そう考えると次々に不可思議だと思っていた点が浮かび上がって来る。窓の外を覗いた時、外は真っ暗で何も見えなかった。マリアが外から入って来た時も普通に歩いて入って来たのだ、普通ならばありえない。
ありえないことを、受け入れたくないことを自然と矛盾点として捉えず、それが当然であるかのように、智也の中で書き換えられていたのだ。受け入れる、という思考停止によって。
呆然と座っていた智也の手に水滴が落ちる。その時初めて智也は自分が泣いているのだと気がついた。
こんなことを信じろというなど、正気の沙汰じゃない。だが、今の智也にはこの事実を無理やりにでも受け入れるしか、思考を切り替える手立ては見つからなかった。