Episode00 no name -忘却-
「だれか……おねがい、だれか……」
絞り出した声は闇に溶けていった。思考が完全に停止してしまっている。どうすればいいのかも、何をすればいいのかも、はたまた一体何が起きたのかも、彼には一切わからなかった。
ただ茫然と目の前にあってはならないものがあることだけを理解していた。
唯一繋いでいた手が、ずるっと自分の手を滑り落ちて地面に落ちた。ぬるぬるした感触が気持ち悪い。ただ表情は固まってしまったのか、眉ひとつ動かない。声も出せない。
荒くなる息が彼から酸素を少しずつ奪っていく。
「たすけて……おねえちゃん」
しばらくそこに横たわる人間を見つめてから、彼が再び絞り出したのはどうしようもない救いの言葉だった。どれだけ求めても、助けは来ない。なぜなら彼をいつも守っていた姉は今そこで虚ろな目をして横たわっているのだから。
混乱していた頭がすっと冷えていくと同時に、激しい怒りと悲しみと苦しみに襲われた。
目から涙があふれ、口から絶叫が漏れる。ぶつけようのない怒りを己の頬に爪を立ててどうにか抑えようとするが、めくれる皮膚から血が滲むだけに終わった。
その時だ、どこからか暖かな風が彼の手を包んだ。明らかな意思を持った風はやがて人の形をとる。彼によく似た少年へと姿を変えたそれは、目の前に立つと怒りを鎮めるように彼の手を掴み、まっすぐに見つめた。
――智也……どうしたい?
「ぼくは……」
――お前の願いなら、なんだって俺が叶えてやる。願えよ、お前はどうしたい?
「ぼくは、わすれたい……。ぜんぶわすれたい」
――わかった。それがお前の願いなら。
強く風が吹いた。
ぎゅっと目を閉じて、そして開く。
目の前にあったものがなんだったのかも、何があったのかも、そして抱いていた感情さえもどこか遠くにかすんでいくように彼の記憶から消し去られていった。