4話目
夜の酒場は酷く喧しく、酒と煙草の臭いがきつい。けれど慣れてしまえば気にならなくなる。人が多く出入りする為に嵐のような忙しさだが、要領を覚えてしまえばそれなりに心にも余裕が持てる。
ただひとつどうしてもアンリエッタが慣れないのは、絡んで手を出してくる酔っ払いだった。
「っかー! お嬢ちゃん可愛いねえ!」
「俺の娘なんか俺に似ちまってさあ」
「お前に似てる子と比べたら可哀相だろう、なあお嬢ちゃん!」
すっかりぐでんぐでんに酔った中年の男達に腕を掴まれ引き止められ、アンリエッタはしかめっつらで困り果てていた。一応客は客。無下に扱うわけにもいかず、どうしたものかと手をこまねいていた。
いつもさりげなく助け舟を出してくれる同僚は運悪く休み。他の同僚達もそれぞれ手が離せないようで、アンリエッタが自力で切り抜けなければならない状況だった。
いい加減、彼等だけに構っているわけにもいかない。
「おっと、お嬢ちゃんは顔が可愛いだけじゃなくて体も色っぽいじゃないか」
そばにいた男がごつごつした手の平でアンリエッタの尻を撫でる。ぞわりと鳥肌が立ち、思わずその手を払いのけてしまった。途端に男は目つきを鋭く尖らせ、低い声で脅すように呟く。
「おいおい、お嬢ちゃん。俺達は客だぜ? 少し触るぐらい大目に見てもらわなきゃ男にモテねえよ?」
じりじりと距離を詰める男にアンリエッタが大声を出そうとした瞬間、ドンとテーブルが音を立てて振動した。突然目の前に現れたワインボトルとそれを置いた人物を、男達は交互に見比べる。
アンリエッタもその人物には見覚えがあった。
「え、く、クレールさん? 何で此処に……」
「私からの気持ちだ。飲んでくれたまえ。その代わり……」
どこからか出現したクレールはアンリエッタの腕を掴んでいた男の手を、びしりと叩いて外す。
「彼女は私がいただこう」
男達が呆気に取られている間に、素早くアンリエッタの肩を抱いてその場から離れる。端に見つけた誰もいない席まで歩くと、何も言わずにクレールはすとんと腰を下ろした。
「……クレールさん。私の職場、調べましたね? いや、もしかして尾行しました?」
「何の事だ。私は後学の為に客としてこの酒場に足を運んだだけだ」
「また無茶苦茶な……」
あからさまな言い訳に怒るどころか笑いが込み上げてくる。酔っ払いから解放された安心感も手伝って、アンリエッタは素直に笑顔を見せた。
「まあ、助かったのでいいですけど。ありがとうございました」
「あんな風に絡まれる事はよくあるのか?」
「あー、たまに。でもたいてい回避出来ますし、助けてくれる同僚もいますから。今日はちょっと運が悪かっただけで」
両手を胸の前で振り、大丈夫だとジェスチャーで伝える。クレールは疑わしげな目で見ていたが、それ以上は何も言わずにアンリエッタから視線を逸らした。
「コーヒーと、何か食べる物を」
「……は?」
「私は客だ。注文をしている」
むすっとしたその顔は馬車の中で見た時と同じで、ほんの少し紅潮していた。また笑いたくなるのを我慢し、アンリエッタはオーダー票を取り出す。
「パスタはお好きですか? あとチーズも」
「ああ」
「じゃあ作ってきます。コーヒーは別の子に運ばせますから」
厨房へ向かおうとするアンリエッタの袖が急に引っ張られた。
「ま、待ちたまえ。まさか君が作るのか?」
「そのつもりですけど……嫌なら別に」
「そうは言ってない! た、ただ……思いがけなかっただけで」
ぼそぼそと聞き逃しそうな程小さい声で呟かれる。
今日一日でアンリエッタが見つけた事は、クレールが意外と照れ屋で不器用で優しい所もあるという事。尊大な態度や常識外れな所はまだ好意を持てないが、それでもクレールの事をもっと知りたいと思った。
「た、楽しみにしている」
「はい」
昼間クレールが難しい顔をして何事か考えていたのはアンリエッタを心配しての事だったろうかとふいに思い至る。酒に酔った客が絡んだりはしないかと……。だから此処にやって来たのではないか。
(……そんなわけないか)
馬鹿馬鹿しいと一笑して、アンリエッタは厨房へと向かった。