2話目
(本当に来た……)
下町にはそぐわないような、馬が四頭で馬鹿でかいキャビンの立派な馬車。アンリエッタはこれを昨日も見ている。
バタンと扉が開き、中から現れたのもやはり。
「おはよう、アン嬢」
「おはようございますクレールさん。もう少し目立たないような馬車では来られなかったんですか?」
「十分忍んだつもりだが」
「……」
逆に彼の価値観で目立つ馬車とはどんな物なのだろうと若干興味はあったが。
「馬は一頭、キャビンも二人が座れるくらいのスペースがあれば十分です」
そもそも馬車が走る事も少ない下町で、しかもアンリエッタの家の前に止まるとなれば最低限そのくらいにしてもらわないと周りがうるさい。
「そ、そうか……? では明日からそうしよう」
「お願いします。あ、あとこんなに早くから来てもらっても私は行けませんよ?」
「何?」
「午前中と夜は仕事が入っているので。午後の僅かな時間しか体は空きません」
昨日も同じ事を言ったはずだが、浮かれたクレールの耳には届かなかったらしい。初めて言われたみたいに驚いた顔をしていた。
「働いているのか」
「当然です、生活の為ですから」
「私は働かない」
「そうでしょうね」
冷めた目でクレールを一瞥し、アンリエッタは歩き出す。
「では君の職場に、君を休ませてくれるよう掛け合おう」
「お金の力でですか?」
アンリエッタの言葉が図星だったらしく、クレールは口をつぐむ。住む世界が違うというだけでなく、彼は恐らく常識にも欠けているのだ。家を継ぐ責任もなく甘やかされて育ったのだろう。
「言いましたよね、生活の為に働いているって」
「休んでいる間のお金も君に払おう」
「そういう事を言ってるんじゃありません。なんでもかんでもお金で解決しようとする人、私は嫌いです」
ギッと睨み付け、思わずアンリエッタは感情的になる。これでクレールが怒り偽物恋人の話がなくなって皿の弁償代を地道に払う事になっても、アンリエッタは構わない。最初はそのつもりだったのだし、クレールの恋人を演じるよりはずっとマシな気がした。
「そ、そうか……。すまない、君を怒らせるつもりではなかったんだが。では午後に改めて迎えに来よう」
「……え」
「勿論馬車は小さい物に変えて」
ウインクをひとつ残してクレールは馬車に乗って行ってしまった。無礼だと怒りもせず、謝罪の言葉を口にして。それがどうにもアンリエッタには信じられず、馬車が走り去った方角をぽかんと眺めていた。
(……変な人)
少しだけクレールという人物に興味が湧く。
(一体どういう人なんだろう)
その答えを知りたいと思ってしまった事に溜め息をつき、アンリエッタは再び歩き出した。
言った通りに午後になってからクレールは出直してきた。馬車も小さく地味な物を選んで。
「乗りたまえ、アン嬢」
「……はあ、お邪魔します」
アンリエッタが座ると、クレールもその隣に座った。見計らったようにゆっくりと馬車は動き出す。
二人の間に会話は無く、無言のまま時間ばかりが過ぎた。アンリエッタはともかく昨日からひとりで勝手に喋っているクレールまでもが無言というのは引っ掛かる。アンリエッタは窓の外を見ながら疑問を口にした。
「喋らないんですか?」
「え!? あ、ああ、そうだな。えーと……」
反応が少しおかしいと顔をそちらに向ければ、驚いた表情のクレールと目が合った。慌てて彼は前を向く。その頬が微かに赤く染まっているように見え、アンリエッタは首を傾げた。
「どうかしました? 具合でも悪いのでは……」
「い、いや。大丈夫だ」
「でも先程から黙ったままでしたし」
「ぐ。……その、いや、ただ……近いなと、思って」
言っている事の意味がわからず、アンリエッタは視線で解説を求める。グサグサ刺さる視線にいたたまれなくなり、クレールは渋々口を開いた。
「ち、近いだろう、この距離は。あまり女性と近い位置で接した事がないのだ、私は」
「え。そうなんですか? ダンスとかされないんですか?」
「ダンスは得意だがあれは別だ!」
さりげなくダンス出来ますよアピールをされたが、そんな事も気にならない程アンリエッタは驚いていた。確かに少し動けば肩が触れるくらいの近さだが、クレールがそれを気にする人間だとはまったく思っていなかったからだ。むしろ女性にくっつく事を喜びそうだと勝手に思っていた。
「……緊張していたから喋れなかったんですか」
図星を示すように唇を尖らせるクレール。顔が先程よりも赤くなっていた。
「わ、悪いか?」
強がってみてもがちがちに固まった様子では逆効果だ。あまりにも子供っぽいその態度に、堪え切れずアンリエッタは笑い声をあげる。
「は、あはは、わ、悪くないです。ふふ……」
「わ、笑うな! どうして君は平気なんだ!」
「どうしてと言われても……ふ、あははは」
腹を抱えるアンリエッタに、苦い顔をするクレール。コスト家の屋敷に着くまでの間、笑い声はずっと続いた。
アンリエッタは普段あまり笑わない。そんな彼女を笑わせたのは彼女が嫌っている貴族のクレール。
その事実がクレールへの興味を更に深めていくのをアンリエッタは心の中で感じていた。




