1話目
以前、別の名前で登録していた時に投稿した作品です。見覚えがあるという方も、初めてだという方も、楽しんでいただけたなら嬉しい限りです。
その日はたまたま寝不足で、だからといってそれを言い訳にするつもりはないが、いつもよりも注意力散漫だったのは確かだ。水の入った桶を持って頭を上げた瞬間、後ろにいた人にぶつかってしまったのもそのせい。
「あっ」
ガシャン、と嫌な音が聞こえ、恐る恐る振り返る。同時に振り返ったその人物は呆気にとられた顔をしていた。
視線を足元に移動させると、砕けた陶器の姿。
「……すみません」
こうして、最低最悪の物語は始まったのである。
「弁償します」
割れてしまった皿の金額は目玉が飛び出る程高額で、何年かかれば弁償出来るのか途方もなかったが、そう言うしかなかった。けれど相手は怒る様子も見せず、ただじいっとこちらを見つめて黙ったまま。
「あの」
「お名前を教えていただけるかな」
「え? あ、ああ、アンリエッタです」
首を傾げ、素直にアンリエッタは答える。
「ではアン嬢だな。私はクレール・コスト。コスト家の三男だ」
コスト家と言えば下町でも有名な貴族である。シェルダル伯爵は王族との関わりが深く、重要な席には必ずと言っていい程召喚されるくらいだ。
その伯爵の息子だと、目の前の青年は言う。
(……貴族ね。嫌な人種と縁が出来てしまったなあ……)
アンリエッタは貴族や王族という人種があまり好きではない。戯れに下町にやって来る事はあれど、そこに住まう者達を下賎と称したり娼婦のまね事をしてみろと金を投げて寄越したり。嫌な印象を抱くには十分な振る舞いを見てきた。
「アン嬢。提案があるのだが」
「はあ、なんでしょうか?」
「実は叔母から見合いを薦められていてね。しかし私はその見合い相手とは結婚したくないのだ」
「はあ……?」
正直な所、目の前の男の世間話じみた悩み事などに興味はない。まったくない。見合いをするしないだの結婚がどうこうだの、アンリエッタにはどうでも良すぎる事だった。
「それで、君に恋人になって欲しいのだが」
「え」
それは聞き捨てならない。クレールの話を右から左に流しかけていたアンリエッタは顔色を変えた。
「ちょっと待ってください! 何で私が……」
「ここでは話しづらいね。私の屋敷にご案内しよう」
気障っぽい仕種で指を鳴らすと、どこに居たのかどこから現れたのかひとりの男性が現れた。
「クレール様、何用ですか?」
「このご令嬢を私の屋敷へ。直ちに馬車を用意してくれ」
「かしこまりました」
「かしこまらないでください。あの、勝手に話を進めないでくれませんか……」
抗議をしてもクレールは聞く耳持たず、ぷいとそっぽを向く。子供のようなその態度にアンリエッタは呆れ返って物も言えない。またひとつ貴族嫌いの原因が増えた。
そうしている内に馬車が到着し、無理矢理乗せられ貴族達が暮らす上流階級地区へと出発した。
「ようこそアン嬢、我が屋敷へ」
お前が無理矢理連れてきたんだろうと口まで出かかった言葉を飲み込み、アンリエッタは馬車を降りて招かれるままに屋敷の中へ入る。コスト家の屋敷は思っていた以上に大きく、敷地も広い。高価な物を見る機会が無かった為わからないだけかもしれないが、何気なく飾られている花瓶ひとつでさえ値打ち物なのかもしれない。
「こちらだ、アン嬢」
クレールはすたすたと廊下を進んで行く。見失わないように急ぎ足で追いかけながら、アンリエッタは頭痛を感じて溜め息をついた。
「ここはあまり使っていない部屋だし、ここならゆっくり話が出来る」
案内された部屋は使っていない部屋と言うだけあって、テーブルとソファが並べてあるだけだった。促されソファに腰を下ろすと、クレールも向かいのソファに座る。
「先程の続きだが」
「お皿の弁償の話ですよね」
「まあ待ちたまえ。それにも関係する話だ。ええと……どこまで話したかな」
端正な顔をしかめてクレールは記憶の箱を探る。アンリエッタはメイドが運んできた紅茶を飲みながら、夕食の献立を考えていた。
「そう、君に恋人になって欲しいと言ったな」
「お断りします」
間髪入れずに返すと、クレールは一瞬ぐっと言葉に詰まるが、すぐに気を取り直して咳ばらいをした。
「……何も本当に恋人になってくれと言っているのではない。見合いを断る口実の為に恋人を演じて欲しいのだ」
「……普通に断ったらいいじゃないですか」
「叔母はそれでは納得せん」
面倒くさい話だとアンリエッタは眉を寄せる。
「じゃあ大人しくお会いしたらどうですか」
「嫌だ。私はあの者と見合いなどしたくない」
「どんな理由でそんなに拒むんですか」
「見合い相手がとてつもなく不細工だからだ!」
きっぱりと言い切ったクレールの顔は真剣そのもので、アンリエッタは開いた口が塞がらない。不細工……容姿が気に入らないから見合いをしたくないと、子供以下の駄々をこねる大人など、そうそう居ない。
「その点君は美しい。下町に間違って咲いた清楚な百合の花のようだと、一目見てそう感じたよ」
「はあ……」
先程の発言が衝撃的過ぎて気の抜けた返事をするが、ハッと我に還り首を横に何度も振る。
「そんなのお受け出来ません。私には無理です」
「引き受けていただけたら皿の弁償代はチャラにしよう」
「え?」
「悪い話ではないと思うが」
アンリエッタの稼ぎでは生きている内に弁償し切るのは難しいだろう。それでもなんとか頑張って働いて金を用意しようと思ってはいたのだが。
しかし妹の事を考えると、自分のせいで苦労させるのは非常に心苦しい。アンリエッタが完済出来なければ妹が肩代わりしなければならなくなるのだ。
(お金で人を思い通りにしようなんて、やっぱり貴族なんて最低)
「……わかり、ました。やってみます」
屈辱に唇を噛み、膝の上で拳を握る。
「そうか! 良かった。では明日から馬車で迎えに行こう」
「は? え、明日からというのは……?」
上機嫌のクレールは胸を張ってにこやかに答えた。
「少しでも恋人らしく見える為に、見合いの日まで一緒にいていただく。作法も少し教えよう」
やっぱり受けなければ良かったというアンリエッタの後悔は、鼻歌混じりに紅茶を飲むクレールには最後まで気付いてはもらえなかった。