5の(3)
.
母が、男を連れて帰ってきた。
多分、新しい恋人。
そんな時、ユキはリビングに篭らなければならない。
リビングと廊下が繋がる扉は、常に開かれている。だから、ちらりと階段へと向かう母の恋人が見えた。
母の恋人の多くは、年上の――どこか父の面影がある男性。
父の顔は記憶としてはっきり覚えていない。ただ、一枚だけ、幼い自分とまだ若い頃の両親が写る写真が手元に残っている。それで確認したことがあるのだ。
やんちゃな少年のような、明るく笑う人だった。
目は、極端に垂れているわけではなく、目元を和ませると三日月を描く形。
ユキに似ていると、母は言う。父が唯一、ユキに残していったもの。
今回の、母の新しい恋人もやはり、どこか写真の父を想わせた。
二階の寝室へと消えて行った二人。
ユキは静かに、リビングの片隅に備えてある掛け布団をソファにかけた。これが、今日のユキのベッドだ。
静まり返った家の中。
眠っていたユキは、鼻につく臭いに、目覚める。
(……なんの、臭い?)
ぼーっとする頭は、まだ覚醒しきっていない。
気だるく半身を起こし、辺りを見回す。
時計を確認すれば、蛍光塗料の塗られた時計の針は、深夜三時を指していた。
(なんの、臭い?)
ケホッ、と咳をする。そういえば、肺が苦しいことに気づく。
瞬時に、夢の余韻から覚める。
(煙、だ)
目も沁み、涙が滲む。
どうして、と焦った。リビングを飛び出せば、廊下はリビング以上に煙が充満していた。
防災訓練を必死に思い出しながら、着ているパジャマの袖で口元を覆う。それでも、煙を吸ったせいか息が苦しい。きれいな空気が欲しいと思った。
潤む視界、煙によって前がはっきりと見えない。
原因はどこなのか。焦燥と混乱の中にありながら、必死に考える。
ユキのいたリビングではない。リビングよりも廊下の方が煙たかったということは、リビングと繋がるキッチンでもない。
ふと思いついたのは、二階の寝室。
ユキは階段を見上げる。
――深夜なのだから、電気のついていない階段は、真っ暗であるはずだ。
しかし、階段のさらに向こう――二階は、橙色の明かりに照らされている。そこで、今更ながら思い至った。
「火事、だ」
真っ白になった頭。無我夢中で玄関に向かって駆けた。
玄関扉を開けると、途端、新鮮な空気に包まれる。
完全に煙から抜け出したくて、家沿いの道路まで走った。
ようやっと、ユキは深呼吸する。
腰を曲げ、膝に両手をつきながら、肩で呼吸を繰り返す。 ゼェ、ゼェ、という呼吸を何度も繰れば、数分後、普通のリズムに戻った。
ユキは曲げていた腰を伸ばす。目の前には、彼女と母の小さな家。そこの二階は、橙色のような、赤々しい炎に包まれている。
ぼぅっと、ただただ眺めた。パジャマ姿に裸足だということも忘れて。
家の背景は、星の瞬く夜空。けれど、その淡い光は、炎の明かりに邪魔されている。
そういえば、と思う。
(お母さんが、いない)
首を回らし探すも、母の姿は道路になかった。新しい恋人の姿も。
――ユキがいらないから、放火して二人だけで逃げたのだろうか。
思いついた予想に、自分で自分の考えていることに寒気がする。確かに母はユキを邪魔だと思っていたが、人を殺すなどできない人だ。少なくとも、昔の母はそうであった。
考えた自分こそが、母を誰より信用していないのだと、どこか衝撃を受ける。
ユキは頭を振り、気持ちを切り替えた。
家に少しだけ近づいて、開け放たれたままの、玄関扉の隙間から中を覗く。
そこには、男物の靴が一組。
(……まだ、あの男の人は、家の中にいる?)
つまり、母が家の中に取り残されている可能性があるということ。
言葉を失った。必死に逃げてしまったが、母と男を見捨ててきてしまったかもしれない。
ごぅっという轟音がした。刹那、家は風の影響であっという間に炎に包まれていく。
「あ……」
小刻みに震え始める身体。
赤々しい、煙を纏った橙の炎が、ユキのすべてを呑み込んでいく――そんな気がした。
少しの間、愕然としていたユキは、そこでやっと(助けなくちゃ)という考えに到達する。
しかし、混乱した頭で思ったのは、”二人を助ける”ということ。誰かを呼びに行くこと、消防車を呼ぶこと、救急車を呼ぶことは、頭からすっかり抜けていた。
当時、十二歳のユキ。小さな身体で、大人二人どころか、一人救うこともできないだろう。
そのことに気づくことなく、ユキは必死に駆けて家との距離を縮める。
あと一歩で玄関、というところだった。
そこからの記憶は、ひどく曖昧なもの。
なにかに臓器を引っ張られるような感覚と。
視界が歪み、足場を失う感覚。
息もできない痛みに目を瞑る。
そうして気がついた時には、ひんやりとしたものに半身が包まれていた。
それは、ユキが異世界へ渡った最初の記憶。
*** *** ***
ユキは、大人になった今でも、自分のことが好きになれない。
それは、母を捨ててしまったことが大きい。
父に捨てられたことをきっかけに、変わってしまった母。その父と、突き詰めれば同じことをしてしまったのだ。
そんな自分を、どうして愛せるだろう。
それでも、自分で自分を拒絶することは、呼吸もままならないほどに苦しかった。救われたいと、思ってしまった。愛してほしいと、願ってしまった。
――求めてほしかった。
――認めてほしかった。
そうしたら、何番目だとしても、愛してもらえると信じていたから。
だから、教師になった。
ロシェットの家庭教師をして、教えることで喜んでもらえたから。必要としてもらえたと感じたから。嬉しかったから。
『あんたは生徒と壁を作ってた。だから、誰からも相談されたことないだろ? 心を開かないヤツに、心を開くヤツはいない。――結局、あんたは自分のことしか考えていないんだ』
ユングの声が、遠くで響く。
彼の言葉は、正しい。
ユキは求めるばかりだった。自分から心を開いていなかった。そんな自分に、相談してくれる生徒は一人もいなかった。
すべて――すべて自分のため。
気づいてしまうと、嗤いたくなる。
確かに、母を助けようと家に戻った。だが、手遅れだった。そして、結局助けることはできなかった。
救急車も、大人の誰かも、消防車も呼ばず。
自分だけが助かってしまった罪悪感。母は、ユキがいらないと言っていたのに。
こんなロクデナシの自分を、誰が愛することができるだろう。
――嗤いが、止まらない。
「ユキ」
柔らかい、耳に心地の良い声がした。
不意に顔を上げれば、そこにはクロードがいた。
目を瞬く。
「……クロード、さん?」
心を失った、感情のない呟き。
クロードは心配そうに眉根を寄せ、ユキを慰めるように微笑んだ。
「ユキ、おかえり」
その言葉に、ユキは視界で捉えた情報を理解した。
くすんだ白の天井、柔らかいなにかに寝る自分、そしてクロードの存在。今、クロード・ロシェットと共に住む家のリビングにいる。ソファに、横たわっているらしい。
いつの間に帰ったのだろうか。
首を傾げると、ロシェットが視界に現れた。
「リリィさんが、ユキちゃんの様子がおかしかったからって、呼びに来たの。教えられた教室にユキちゃんが倒れてて……兄さんを呼んで、三人で帰って来たんだよ」
泣きそうに顔を顰めながら、「目が覚めてよかった」と安堵の息を漏らす。
そんなロシェットの姿に、ユキまでも泣きたくなった。
唇を震わせ、嗚咽を堪えたが、涙はこめかみを伝って流れ落ちる。
喉の奥が、鈍く痛い。
クロードがユキの鳩尾に手をあて、いつものように治癒を始める。
二人の優しさに、胸が締め付けられる。歪みそうになる顔を、口を引き結ぶことで我慢した。
「ユキ、君が何も持っていなくても……君がいてくれるだけで、いいんだ」
――君が大切だから。
そう続けたクロードは、慈悲深いほどに穏やかな笑みを浮かべる。
その言葉に、どんなにユキが救われるのか、彼は知っているのだろうか。
涙が、幾筋も零れた。
.