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ある脇役の選択  作者: 梅雨子
ある脇役の選択
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 遠い記憶がある。

 現在居る世界とは違う世界。”日本”という国に住んでいた頃の、記憶。

 そこでの日常は、決して幸せとは言い難いものだった。


 住宅街の小さな二階建ての一軒家。部屋数は少なかったが、母とユキの二人暮らしだったため、不自由は感じなかった。

 父は、ユキが幼い頃にいなくなった。その時のことを、はっきり覚えていないけれど、成長と共に母の言動から父がどうしていなくなったのか察しがついた。

 もともと専業主婦だった母。背格好は、二十五歳となったユキとよく似ており、小柄だった。

 箸より重たい物を持った事がない、そんな華奢でか弱い雰囲気の彼女は、子どもを産んでなおも可愛らしさが抜けることはない。

 父と離婚してすぐ、母はパートに出た。総菜屋での勤務は、会社員の帰りを見計らって夜も営業するため、母の帰りはいつも若干遅かった。でも、残り物を夕飯にと貰ってくることができたから、母子家庭には悪い職場ではない。

 まだ若い女と、幼い女児の生活。

 主婦だった頃の母は、家事をしながらも手を美しく保っていた。しかし、働きに出るようになってから、彼女の手はどんどん荒れていった。

「ユキ、一緒にがんばろうね」

 儚く微笑む母は、散りゆく桜のように美しい。

 気丈に振るまい、娘に弱い姿を見せない人。それが、幸せだった頃の、記憶。




 ユキが小学校にあがり、出費が嵩み始めたことをきっかけに、母は転職した。

 高収入、という条件を重要視した結果、水商売を選択。同時に、ユキとはすれ違いの生活が始まる。

 深夜帰宅する母は、いつも酒臭く、化粧が濃い。

 見知らぬ女かと見間違えるほど、性の色香を纏った姿に、ユキは不安を抱いた。

 知らない人のようだった。母は、父のようにどこかへ行ってしまうのか。もしくは、どこかへ行ってしまったのか。

 そんな不安定な娘の気持ちに気づいたのか、たまに帰りを待ち、コップにいれた水を渡すユキに、母は昔と同じ優しい笑みを見せてくれた。

 この頃、ユキは母の負担を少しでも減らそうと、自分にできる範囲の家事を始めるようになる。

 自分が母を少しでも支えられるなら。そう、願って。

 けれど。

 彼女は一人で子を養い、家計を支えることに疲れてしまったのかもしれない。

 いつしか母の帰りは朝となり。時には男を連れて帰るようになった。

 金は男が余分にくれるのか、家計はかなり楽になる他方で、ユキは、夜、それまで母娘の寝室だった二階の部屋へは近づかないことを約束させられた。

 ゆえにそれから、一階のリビングに掛け布団を運び、ソファで眠るようになった。

 こじんまりとした家だったから、物音や足音は階下であれば聞こえてしまう。だから、母と男がなにをしているのか、性を知らなかったユキは詳細までわからなかったけれど、なんとなく見てはいけない、近寄ってはいけないことだとは悟っていた。


 そして、男ができてから、母はユキを邪魔者扱いするようになった。




 小学校高学年になると、簡単な料理ならば作ることができる。

 夕方、母が帰ってから食べられるように、ユキは料理を用意する。

 その日のメニューは、カレー。母の好きなジャガイモを、たっぷりと入れた。

 喜んでくれるだろうか。

 かすかに期待しながら、カレーを煮込む。

 台所と繋がるリビング、そこにあるテレビは消してあるため、カレーを煮詰める音だけが反響した。

 白い皿を二枚、食器棚から取り出し、テーブルに並べる。実際夕食を食べるのは、母がいようといまいと、夜になる。ならば、今炊飯を始めても問題ないだろう――そう思い、米入りの炊飯器をセットした。

 不意に顔をリビングの窓へ向ける。射し込む光は、夕日の茜色。

 それが、酷く物悲しい色に思えた。

 ユキは感傷的な気持ちを断ち切るように、踵を返す。台所に再び立つと、コンロの火を消し、鍋に蓋をした。

 その時、丁度玄関扉の音が聞こえた。開けて、閉める音。

 真っ直ぐにリビングへと向かってきた足音に首を回らせれば、母がいた。

 ユキは驚きに目を丸くする。

 いつも、帰りが遅いどころか、朝方に戻る母。久々に、夕方、顔を合わせることができた。

 ――もしかしたら。

 そんな考えがふっと頭に浮かぶ。

 視線を無意識にテーブルへと向けていた。白い皿が二枚並ぶ、そこに。

 いつも用意していた夕食。一度も手をつけられることはなかったけれど。

 窓辺に佇む母の横顔。長い、緩く巻かれた髪が頬にかかって、表情が読めない。

 ――ほんのかすかな期待を、していたのかもしれない。

 ユキは笑みをつくりながら、言葉を紡ぐ。

「おかえり、お母さん。カレー作ったの。……食べる?」

 心臓が、激しく鼓動を打つ。気がつけば、緊張のためか服の裾を強く握っていた。

 笑みは引き攣り、声が震えていることに、自分で気づく。家族と話しているだけなのに、おかしな話だと自嘲したくなった。

 途端、母はユキの存在を今知った、というかのごとく、勢いよく顔を上げる。拍子に、彼女のきれいに整えられた髪が乱れた。

 顔がこちらに向けられてもなお、逆光によって母の表情はわからない。だが、雰囲気が物語る。”お前が邪魔なのだ”と。

「あの男に似て、汚らわしい! その目で私を見ないでっ!!」

 耳を劈く金切り声。叫ぶ彼女はきっと、般若のように顔を歪めて怒っているか、泣いているのだろうと思う。

(男に、振られたのかもしれない)

 どこか他人事のように、心内で独り言。

 仕事がある日は男を連れて帰る母だが、仕事がない日は、男の家に入り浸ることが多くなった。今日、帰りが早かったということは、恐らく仕事は休みなのだろう。しかし、男を連れず、家に帰宅したということは、それくらいしか想像できない。

 ユキに対する罵詈雑言はいつものこと。だから、慣れてしまった。

 ――だけど。

 母は、汚物を見るように少女を蔑みの眼差しを見下ろしている。

 ――慣れてしまっても、痛みを感じないわけではない。

 心の痛みは、いつしか胃の痛みとなって現れるようになった。

(……胃が、痛い)

 堪えながら、ぼんやりと母を見上げる。

 その視線を拒絶するように、母が視線を逸らして蹲った。

 カレーの匂いの中で、母の嗚咽が響く。

「どうしてあんたを、産んでしまったのかしら……」

 母の嘆き。

 ユキは、母の愛情が既に自分にないと、悟っていた。自分の血肉は、半分父のものが混ざる。それは多分、母がユキを嫌忌している一因。

 母は、父がいなくなる前から言っていた。

『目がお父さんそっくりね。笑うと、三日月の形になるの』

 かつては、褒め言葉として。今は、軽蔑の言葉として。

 ユキは、自分を拒絶する母のことを理解できないわけではなかった。ユキ自身、父に”置いていかれた”のだとは思っておらず、”捨てられた”と捉えているから。

 父は、母とユキを捨て、他の女のもとへ行ってしまった。

 霞がかった記憶となってしまった古い思い出。父と母、ユキの三人が家族だった頃。幸せだったはずなのに、随分昔のことのようで、思い出すのもなかなかに難しい。その思い出自体、黒く塗りつぶされていく過程にあるようだった。

 しかし、”幸せだった”と思うのは、ユキであって、父ではない。

 父は、母とユキ、そして愛人を量りにかけ、後者を選んでしまった。つまり、ユキと母の存在は、彼の望む幸せではなかったに違いない。

「……あんたなんて、産まなければよかった!」

 母の言葉が、胸に突き刺さる。

(胃が、痛いなぁ……)

 そう思いながら、力なく床にへたり込む母を見つめた。

 ――産まれてきて、ごめんなさい。

 この言葉を伝えれば、母の気持ちは楽になるだろうか。

 自分がいなければ、母は幸せになれるだろうか。

 心の中で、問いかける。

 カレーの匂いがする。

 いつか、二人で食卓を囲みたいと、願っていた。きっと、叶うことはないけれど。



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