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「どうしてあんたを、産んでしまったのかしら……」
力なく、床にへたり込むように座る母。俯く彼女の顔は、髪がかかっているために表情を窺い知ることもできない。
ユキに対しては、怒るか、嘆くかのどちらかしか見せない人だった。
――どこで、間違えてしまったのだろう。
――どうしたら、よかったのだろう。
「……あんたなんて、産まなければよかった!」
蹲って泣く姿は、あまりに弱弱しく、哀愁が漂っていた。
自分の家を、ユキは家沿いの道路からぼぅっと眺める。
パジャマ姿の彼女は、裸足でじっと佇んでいた。
脳が麻痺してしまったのか、砂や小石が転がる道に立っていても、不思議と足の裏に痛みを感じなかった。
――目の前には、燃え盛る我が家。
深夜、星が瞬く。
その淡い光を邪魔するように、炎は激しく勢いづいた。
こじんまりとした家。あっという間に炎に包まれてしまった。
赤々しい、黒い煙を纏った炎が、ユキのすべてを呑み込んでいく――そんな気がした。
自分がいかにロクデナシか。
誰よりもわかっている。
だから、大切だと言われたかった。
認められたかった。
必要と、されたかった。
そうしたら、きっと。
傍にいることを許してくれる。
そう信じていたから。
*** *** ***
「ここ、試験に出ます」
普通科一年の教室。
黒板に書かれた、白い文字を赤丸で囲む。拍子に、チョークの粉がはらはらと落ちた。
ユキは教壇から降り、顔を上げて生徒を見渡す。試験間近ということもあってか、彼らの多くは真面目に授業を受けている。一部、睡眠中であったり、他所事をしている生徒もいるけれど。
両手を教卓につき、身を乗り出した。生徒の視線が集まったのを感じ取ってから、ユキは緊張を孕んだ声で告げる。
「みんな知っての通り、もうすぐ中間試験です。試験自体は年度初めに経験済みだと思います。あまり気負わず、がんばってください」
教卓の上に広げられた教科書を閉じた。
もうすぐ午前の授業が終わる時刻だ。終業のチャイムが鳴るだろう。
その報せを待っていると、生徒が一人、手を挙げた。
(質問かしら?)
ユキが生徒の名を呼べば、彼は不機嫌そうに発言する。
「先生、騎士科や魔術科は中間試験に演舞や対戦を行うって本当ですか?」
不満を滲ませた声音。
ユキは苦く笑んだ。
「ええ、そうです。騎士科はトーナメント戦と剣舞、魔術科は対戦と演舞です」
答えた瞬間、生徒たちはざわめき始める。
「普通科は筆記試験なのに、どうして騎士科と魔術科だけイベントなんだ?」
「なんか腑に落ちない」
「オレらもイベントがいい」
相次ぐ批難に、ユキは困惑した。
筆記試験よりも行事のような試験の方がいい。そう思う生徒がいることに不思議はない。
しかし、これは昨年や今年決められたことではなく、昔からの決まりだ。そも、騎士科や魔術科は騎士・魔術師になるための学科であるために実地試験を行う。では、主に文官となることを目標とする普通科に、実地試験など必要なのか。
これは、隣の芝生なのではないだろうか。
騎士科や魔術科の生徒からすれば、その実地試験によって評価が決まる。ひいては、公務員として王宮の騎士や魔術師に就職することができるのか、判断材料になる試験である。
軽い気持ちで騎士科や魔術科の生徒が挑むわけではない。
――不満ならば、騎士科や魔術科へ入学すればよかったではないか。
そんな負の感情が胸の内に去来する。
魔術科への入学は、魔法の素養がなければ不可能だが、騎士科であれば、鍛錬によってあるいは入学がかなうこともある。
国立学院”高等部”は、義務教育機関ではない。将来の公務員を育成することを目標とする機関であり、エリート養成学校とも巷では呼ばれる。
入学試験も難関で、倍率もすさまじい。中には、”国のために”と志を高く持ち、入学する生徒もいれば、親の言いなりとなって入学する生徒もいる。けれど、入学できず涙を呑む人が毎年数多くいるのだ。その人たちを、無下にしないで欲しい。
そう思うのは、傲慢だろうか。
ユキはキリ、と疼く胃に手をあて、深く息を吐き出した。
できる限り穏やかに、なだめようと言葉を紡ぐ。
「落ち着いてください。イベントと言っても、多数の怪我人が毎年出ます。楽しいばかりのものではないし、その結果で成績も決まります。だから、騎士科や魔術科の生徒にとっては……」
「でもやっぱり羨ましい」
「先生の力で校長先生に交渉してよ」
「もうさ、当日みんなでサボらねぇ? そしたら試験できないじゃん」
「あ、それいい!」
「それはっ」とユキは焦る。
だが、相次ぐ要望を収めることができない。
どうしたら納得してもらえるだろうか。この場を収められるだろうか。
自分の力不足が身に沁みる。この場を凌ぐことしか考えていない自分を自覚すれば、情けなさに、なけなしの教師としての矜持が更に喪失していった。
蟠りのような、小さな葛藤。
生徒達が、中間試験を拒む正当な、それこそ誰もが納得できる理由があれば上司に掛け合うこともできる。
しかし、彼らの言い分は、まるで子どものわがままだ。
例えば、生徒が集団で試験を欠席すれば、ユキは指導力不足と見なされ、教師人生は進退窮まるかもしれない。
でも、困るのはユキだけではない。
ここをどこだと思っているのか。”国立学院”だ。将来の公務員を育てるべくつくられた環境。
もしボイコットを実行すれば、成績表には、試験がそれによる中止であったこと、そして再試験について記述することになる。ユキの意思ではなく、学校の意思と尊厳、規律によって。
他学科や普通科の二・三年は同じ日に試験を行うというのに、一クラスのために、他の生徒を巻き添えにできない。例外は認められない。
それは大層、進学・就職の際に不利となるだろう。彼らがこの学校に入学した意味を、自らで潰すこととなるのだ。
そんなこともわからないのか、自覚はないのか、と怒りと呆れの混じった感情が渦巻き、気持ちを静めようと額を手のひらで覆う。
ひんやりとした、自分の手のひら。血の上りかけた頭が冷えて丁度良い。
こんな時、自分が彼らと同じ、学生だった頃を思い起こす。学校に不満はあったか、どのような感情を抱いていたのか。
ヒートアップしていく生徒達を説得するため、思考を巡らしていると、少女の通る声が響いた。
「じゃあ、みんなで試験が終わった後、打ち上げしない?」
鈴の音のような、かわいらしい声はリリィのもの。
彼女はパンッ、と手を叩き、提案した。「ね?」と小首を傾げる彼女に、「いいかも」という同意が続く。
「いいね、なにする?」
「こっちもスポーツとか」
「あえて頭脳戦もいいんじゃない?」
盛り上がり始める教室内。
ユキは、安堵しながら、リリィのカリスマ性を再認識する。
(……彼女の一声で……)
まさに、鶴の一声。
魔法のように人心を掴む魅力。
恐らく、同じ言葉をユキが言ったとしても、このような展開にはならなかっただろう。生徒達が納得したのは、リリィの言葉であったから。それくらい、リリィは生徒達から信頼を得ている、ということだ。
――きっと、彼女はたくさんの人から愛されてきたのだろう。
そう、思う。
愛されてきた人は、愛し方を知っている。そして、これからもたくさんの人を愛し、愛されるのだ。
その清らかさに、疎外感を抱いた。
――誰かの一番になれる存在。
(いいなぁ……)
ユキは、誰かの一番になりたいと思っているわけではなかった。何番目でもいい。だから、愛してほしい。
それは、恋愛の意味だけではない。人として、である。
羨望の眼差しは、リリィだけではなく、クラス全体へ向けて。
遠い世界が、目の前にある。
教師がいなければ纏まらないクラスよりも、いなくても団結力のあるクラスの方が望ましい。けれど――誰よりもクラスに馴染めていない自分を自覚する。
不意に、ダントンの言葉を思い出す。
『問題を回避したいと思うならば、心も身体も許さない。――それが、前提です』
それは、正解。
まだ、ユキは生徒たちから求められたいと願っている。一緒に笑えたらと、思っている。相互に受け入れあえたら、そんなに幸福なことはないだろうと、夢見ている。
だから、生徒のことで悩むし、困るのだ。それはきっと、ベルやヴァルトも同じ。
心に、生徒が占める部分がある。その部分は、現在隙間となって埋めるものを渇望している。
打ち上げの話で盛り上がる生徒たちとユキの間にある、分厚い壁。いつか、壊すことができるだろうか。それとも、ダントンの言う通りになってしまうのだろうか。
ユキは生徒を眺めながら、切なく目を細めた。
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