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夜、クロードはリビングで寛ぐ。
部屋でだれるべきなのだろうが、近頃のユキはロシェットの家庭教師をしているために、同居していてもいつ会えるかわからない。ならば、リビングで待機していればいい、と思ったのだ。
クロードは国立学院高等部を卒業し、魔術省に就職を果たした。狭き門のそこであったものの、そう労せずして入省することができたのは――クロードが異世界の魔法を使えたからである。
この頃のクロードは、もう全てを知っていた。旧貴族であり、魔術省の魔術師である義父に引き取られた本当の理由。本人が願えば、迷い人は独自の戸籍を与えられることもあるのだが、魔術省に現れる迷い人は総じて魔術の才があるため、監視のために国の魔術師の養子となることがほとんどなのだ。
つまり、魔術省に現れたクロードも例に洩れず、監視の意味でステファノス家の養子とされた。
さらに、義父にクロードの世界の魔法が知られたがゆえに、やはり監視と利用の意味をもって魔術省入りが初めから内定していた。
それでも、クロードは同僚と同じく新人に他ならない。よって、憶えることは多く、また慣れぬ仕事ゆえに疲れ果てて帰宅する日々が続く。
そんな中での癒しは、ユキの存在だった。
柔らかく笑んで、「おかえりなさい」と出迎える彼女に、いつだって心が解された。
――今は、ロシェットにとられてしまっているけれど。
まるで子ども染みた独占欲であることは理解している。それでも、共に過ごせる夜が、ロシェットの家庭教師として費やされてしまう。不満がない訳がない。
クロードがそうしてソファで独り、目を瞑ってしばらく経った時。
身体が僅かに右に傾いだ。誰かが隣に腰を下ろしたらしい。
察して目を開いたクロードが、右の気配へと顔を向けると、そこにはユキが座っていた。
嬉しさに弾んだ心を押し隠す。
ユキもクロードへと振り向き、和やかに目を細めた。
「お疲れ様、クロードさん」
ここ最近、ぐったりした姿ばかりユキに見せていることを情けなく思いながら、クロードは苦笑を滲ませる。心配し、労ってくれるユキの心に、自分が占める部分があることに喜びながら。少なくとも、気に留めるくらいには、ユキの心に自分の存在はあるらしい。
「ユキも、お疲れ様。ロシェットの家庭教師は終わったのかい?」
「うん」と肯いたユキが、数秒だけ視線を彷徨わせた。
「ユキ?」
首を傾げるクロードに、ユキは照れたように眉尻を下げる。
「あの、ね……例えば。例えば、ね? 私が……学校の先生になりたいって言ったら、どう思う?」
クロードは目を丸くする。
ユキは基本、自己主張を見せることは滅多にないのだ。いつだって、彼女の行動には”誰か”の存在が伴っていた。
それを危惧し始めたのは、いつだっただろうか。他人を重視し、自分を軽んじる彼女。受身型なのに、頑なな心。
彼女は争うことをしない。意見が対立した時は、最終的にいつも相手に譲る。それが世渡りの意味で良いのか悪いのかはわからない。だが、彼女が自分の意見を通さないのは、自信のなさの表れにも思えた。
彼女は、そも、素の自分が愛されないことを前提にしている。そして相手は、本当のユキを受け入れないと思っている。それは突き詰めれば、相手に心を許していない証でもあった。
――こんなに傍にいるのに。
クロードが胸苦しさに襲われたのは、一度や二度のことではない。共に過ごした五年間、いつだって切なさと共存していた。
そんなユキの、将来の夢。それは、少しの希望にも感じる。
彼女の心に、触れた気がした。
ゆえに、クロードは顔を綻ばせ、言葉を紡ぐ。
「僕は、ユキを応援するよ」
その言葉に、頬を染めてはにかむユキをとても愛おしいと思った。
夕食時、ユキは家族の前で、教師を目指したいこと、高等部卒業後、教員となるために進学したいことを伝えた。
テーブルの下で、彼女の拳は震えていた。自分の意思を示すことは、彼女にとって非常に勇気のいることなのだ。
クロードはその姿を視界の端でおさめながら、家族の反応を窺う。
ユキの手を握ることもできない自分が歯がゆい。けれど、義兄という立場で、しかも自分の領域に踏み入られることを怯えるユキに、むやみやたらと肌に触れることはできない。
だからこそ、精神面で支えようと思う。
義両親は、眉を上げ、目を丸くしている。ロシェットは、目を瞬く。時間が止まったかのようだった。
それから数拍後、ようやっと家族が驚きを胸におさめる。
一番に開口したのは、ロシェット。彼女は珍しく花が綻ぶように笑い、言う。
「ユキちゃんならできるよ。わかりやすくて、とっても素敵なわたしの先生だもん」
絶対の自信がそこにはあった。ユキから常日頃、家庭教師をしてもらっているからこその自信だろう。
それに続いて、義両親も首肯する。
「ユキならいい教師になれるな」
「ロシェットちゃんも成績上がったしね。もちろん応援するわ」
嬉しそうに、ユキの背中を押した。
ユキは安堵するように、表情を緩める。「ありがとう」と何度も口にし、感動して泣くように笑んだ。
ただ、クロードだけが、僅かに目を瞠る。
疑問が、脳裏に過ぎった。その疑問は、初め違和感といった曖昧なものだったが、少しずつ輪郭が浮かぶ。
明るい、和気藹々とした食卓。ユキの進路を祝って。
クロードは口を閉ざした。
彼は、ユキが教師を目指すことを応援している。彼女が決めたことなのだ。それは、別に教師でなくとも、ユキが決めたことならばなんでも応援しようと思っている。本当は家族もそう思っているのだろう。
けれど。
――あの言葉では、もしかしたら、ユキはいつか追い詰められるとも限らない。
”教師”となることの背中を押してくれた人達の期待を裏切ってしまうと。分岐点がいつか来たとして、他の道は塞がれてしまうのではないだろうか。
可能性は、いくつも残しておくべきだとクロードは考えた。
この時点で、義両親の言葉の意図が確かな意味で伝わるよう、なんらかの補足をすればよかったかもしれない。
でも、クロードはそれをしなかった。
――ユキは、自分の心が他人と触れることを恐れている。
それは、相手がクロードであっても。
彼女が家族を大切に想っていることは接していて肌で感じるし、彼女自身そう示してくれる。だが、本当の心を見せることはまた別なのだ。
クロードは、ユキを愛おしく想う。甘やかしたい、守りたいという甘露な気持ちと、独占したい、同等のものを返してほしい、という隠された気持ちが表裏となっている。
ユキがクロードに向ける家族愛、クロードがユキに向ける恋情。二人の間には、確かな隔たりと、温度差がある。
――自分の気持ちは、家族愛ではないのだと、いつか気づいてほしかった。いつか……いつか、心を絡めとりたい。自分こそが、この世界と彼女を繋ぐ鎖になりたい。
だから。
クロードは微笑む。今は、すべての感情を胸の底に押しこめて。願いが表情に出ないよう、払拭させて。
「ユキが決めた道なら、応援するよ」
そう、答えた。教師でなくとも、ユキの決めたことならば、応援しようと。
――油断していたのだ。
この時は、まだ。
ユキが、クロードの元いた世界に召喚されるならば、命数が二十六まで時間はあると。それまでに数多の鎖で繋げばよいのだと。
他の可能性など考えもせず。
この時は、高を括っていた。
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