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優しさに心がほかほかと温かい。
今度、さりげなくお礼ができたらいいなぁ、と考えながら廊下を歩く。
ダントンの冷たい声は、今も脳裏に焼きついたまま。けれど、心が満たされた今ならば、何気なく、いつも通りダントンと接することができるかもしれない。
まだ、午後の授業中。
日暮れまであと如何ほどか。恐らく二時間はないだろう。
保健室までの廊下に実習室はないため、生徒はいない。
窓から射し込む、黄みを帯びた太陽の光を受けながら、ユキは廊下を進んだ。
そうして、保健室の扉の前に立つ。
扉の目線位置には、札が提げられている。この札は、養護教諭がどこにいるのか、といったことがわかるもの。
今の札は『闘技場』が提げられていた。
闘技場とは、戦闘訓練や魔法の練習に使われる場所のことだ。闘技場の壁には最強度の防護魔法が張られているため、魔法の授業があったとしても他の校舎に被害はない。
(騎士科か魔術科で怪我人が出たのかな……)
拍子抜けしたような、安堵したような、複雑な心境。
それでも、この気分を引きずりたくなくて、息を吐くことで気分を切りかえた。
消毒だけならば自分でできる。
そう思ったユキが扉の取っ手に触れた時。
「―――って!」
「――が―ん――ない――だ!」
途切れ途切れの、男の声。声色からして、恐らく二人分。
先客だろうか。病人の邪魔をしてはいけないと、ユキはそっと、音を忍ばせて扉を開ける。
(……あれ?)
隙間から保健室内を覗いたが、そこには誰もいなかった。
「ちょっ―待て!」
「頼む、――ないでくれっ」
今度は、なんとなく判別できる程度にまで会話が耳に届いた。
つまり、二人がいるのは隣室ということだろうか。
ユキは足音をできる限り立てないよう注意を払いながら、隣室――病人用の寝室――の扉を開いた。
「………………。え」
思わず声を出してしまったのは、あまりに予想しない事態が目の前にあったから。
ユキの声に、場の空気は凍りついた。
(え。え?)
目を点にしながら、呆気にとられるユキ。
そんなユキを――病人用の寝台で絡みあっていた、というと語弊があるかもしれないが、肌蹴させた涙目の男子生徒と、彼を押し倒したであろう、息が荒く体つきの良い男子生徒がこちらを振り返って凝視している。
二人の生徒はどちらもかなり筋肉質な身体をしているから、騎士科の生徒かもしれない。
(えぇと……組み敷かれている子が、もしかしてキャロルくん?)
まず頭に浮かんだのは、それだった。
本来ならば、彼らに”ここでなにをしているのか”問う場面だろう。
しかし真っ白になった頭は正常に動いてはくれない。
邪魔者は明らかにユキ。ゆえに、二人の視線に居た堪れなくなる。だが、学校という場で誤った行動をとったのは、目の前の二人だ。
身動きがとれないユキを他所に、肌蹴た男子生徒の上に乗っていた生徒が起き上がり、制服を整え始めた。
そして、何事もなかったかのようにベッドを降り、ユキへと向かってくる。
ユキは呆然と彼を視線で追っていた。
彼が、ユキとすれ違う。
刹那聞こえたのは、舌打ち。
(………………。え)
そのまま、男子生徒は保健室からも出て行ってしまった。
保健室での性行為未遂。教師として、生徒の名前とクラスを聞き出し、注意せねばならないところだ。
けれど、ユキは自分の理解を超えた予想外の出来事に、頭がついていかなかった。
唯一考えることができたのは、騎士科三年の担任教師 ヴァルトの嘆き。キャロルという生徒が逆ハーレムを築くという、あの話。
ベッドにいまだ残る男子生徒は、枕に顔を伏せて咽び泣いていた。相姦ではなく、強姦未遂ということらしい。
彼にとっても衝撃的な出来事であったに違いない。
半ば同情しながら考える。
今ここで様々なことを聞き出したとして、それはセカンドレイプになる恐れがある。彼が自ら話してくれるまで、待とう。
そう判断し、溜息を一つ零すに止めた。
とりあえず、今一番必要なことは、彼が泣きやんだ時に必要となる氷水の入った袋だろうか。
――ああ、最後の最後で急転落下。
今日も今日とて、胃の痛む日になった。
*** *** ***
今日は満月だと、彼女は知らない。風情を愉しむ暇もなく、日々は過ぎていくから。
結論からいえば、ユキは保健室で襲われた男子生徒の悩みを聴くこととなり、その後自分の仕事を処理したため、帰りは月が昇る時刻となった。
男子生徒は、やはり”キャロル”という名前の生徒であった。キャロルについては、相談の途中でダントンが帰ってきたことから、バトンタッチと相成り引き継いでもらった。キャロルも、異性の女性教師よりも、男性養護教諭の方が話しやすいと感じたようだ。
そうして帰ったユキは、すぐ、ソファで横たわった。
今、彼女は浅い眠りの中。
うなされることなく、けれど解顔することもない。
影が差す。
なんとなく気配を察したユキは、まどろみながら、目を開けようと思った。
しかし、瞼が重たい。目が、意思を持って開くことを拒んでいるかのよう。
うつらうつらと揺れる意識で捉えたのは、下ろした髪を掬われる感覚。ソファから流れた髪は、長さがセミロングであるために、少々重たい。その重みが、なくなった。誰かが、手にとったらしい。
数秒間持ち上げられた髪は、元の位置に戻され、ついで、頬をそっと撫でられる。繊細な硝子細工に触れるかのごとく、柔らかくそっと。
夢、だろうか。
それさえも曖昧だった。
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