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もう、随分身体に馴染んだ制服。
編入学当初は少し緩かったのに、今は袖や裾が余ることはない。下ろし立ての服特有の臭いも、しばらくして消えた。
学校から帰ったクロードはリビングのソファに腰かけ、鞄から折りたたまれた紙を取り出す。
「おにいちゃん、それなぁに?」
四歳になったロシェットが、こてんと小首を傾げる。拍子に、彼女の腰まである銀の髪が揺れた。
クロードは紙を広げて幼い義妹に見せる。
「進路志望を記入する紙……って言ってわかるかな?」
疑問符を頭上に浮かべ目を瞬くロシェットに、クロードは苦笑を零した。
「ロシェットにはまだ難しいわ」
そう言いながら、台所から現れたのは義母。手には菓子の乗った皿を持つ。
焼きたての甘く芳ばしい香りを放つのは、等分に切ってあるドライフルーツのバターケーキだった。
義母はテーブルにミルクティーとバターケーキを置き、自らもソファに腰を下ろす。
そうして、クロードの手にある用紙を覗きこんだ。
「もうそんな時期なのね。クロードはどうしたいのかしら?」
なんでも包み込むような声音で義母は問う。表情も、声と同じ温和なもの。
それに、クロードは睫毛を伏せる。
きっと、義母はどんな夢を語ったとして、否定することはないだろう。異世界渡りをしてから共に過ごした時間で、そうわかる。
けれど――家族であるのに、本当の家族ではない。クロードにとっては、血縁のみが実の両親との繋がりなのだ。血の繋がりのみが家族の要件とは思ってはいないが、心のどこかで、今の幸せや家族をそのまま受け入れてしまえば、実両親との繋がりが絶える気がする。
だから、一線引いてしまう。できる限り迷惑をかけたくないと願う。
ふと思うのは、ずっとクロードの心を支えてくれた少女。彼女は実母が自分を愛していなくとも、必死に愛を求め、尽くす。その気持ちが、クロードにはわからないでもなかった。
クロードにとって、実両親は無条件で愛してくれる存在であり、クロードにとってもそうだった。ゆえに、自分が彼女と同じ立場になったなら、同じようにするか、もしくは心では愛情を渇望しながら反発するようになったかもしれない。
ユキは尽くすことを選んだけれど。
不意に、考える。自分は実両親になにができただろう、と。
ともすれば、後悔ばかりが溢れた。
与えてもらうばかりだった。愛情をちゃんと示せていたのかも怪しい。あんなに愛してくれたのに。
健気な少女を見つめる度、胸が切なくなった。彼女には自分と同じ後悔をしないで欲しい。
そう願って、彼女と直接逢うことができなかったとしても、彼女の苦痛を取り除く術を見つけたいと思った。
――たとえ、少女に逢えなかったとしても。
水晶玉の少女は、いつからか胃を痛めるようになった。それは、彼女にとって辛いことがある時ばかりで、心の痛みが胃の痛みとなってあらわれたのではないかと、クロードは推測する。
それでも、彼女はその痛みを誰にも話さない。話す相手が、いないのかもしれない。
彼女を支えられるような自分になりたいと、願うようになった。
その願いを胸に、クロードは義母の目を真摯に見つめる。
「……国立学院高等部に、進学したいと思っています」
もとは、両親からの勧めだった。進路選択が迫りクロードが迷っている時、両親はいくつかの選択肢を例えてくれたのだ。
『夢があるのなら、叶えたらいい。でも、もしまだ悩んでいるのなら――』
国立学院高等部は公務員を養成する機関であるが、他に夢が見つかってから辞めることもできるし、少なくとも悩む時間の猶予になる。そう言って。
今のクロードに、明確な夢はない。ただ漠然と、医療従事者になりたいと願うだけ。
迷っていた。
両親に、魔法が使えることを話すかどうか。
現在、クロードは公休日に義父からこの世界の魔法を教わっている。才があるかもしれない――と言った父は、クロードが望めば二つ返事で教えることを了承した。
そして、クロードはおおよそこの世界の魔法について、実践の意味で把握することができた。
でも、自分が魔力を有していることを、話すことはできない。信頼はしても、警戒はまだ完全に解くことはできないから。
壁を、壊すことができない。相手が幼いロシェットだとしても。
それに両親は気づいているのか、いないのかわからない。
心を隠すように、渡された皿のバターケーキを一口含む。
表面がさくさくとしたケーキは、中がしっとりと甘い。広がった甘みに心が落ち着き、強張りそうだった心を緩める。
クロードが今いる世界には迷い人が多いため、ユキの世界の料理も多く存在していた。中には、異世界の料理人見習いであった者が迷い人となった例もあり、そういった人は料理人の道をひた走ることも少なくない。実母の母国 イギリスの料理、フィッシュ&チップスも店で食べられる。
このバターケーキも、その異世界の料理人がこの世界に持ち込んだ菓子の一つであった。
小さな共通点に、心が温かくなる。
義母は表情を和らげたクロードに、「そう、何科がいいかしらね?」と優しく目を細めた。
そんな日々を送っているうちに、ユキは十二歳となった。
数年前、ユキと彼女の母がまだ仲よかった頃と同じ日、思い起こせば彼女は笑顔でこの日を迎えていた。
クロードの昔と同じように、誕生日のため――自分のために用意されたケーキ。それに蝋燭を歳の数だけ立て、祝う日であったのだ。
だが、今年の彼女の誕生日は、家に彼女以外誰もいないようだった。従って、ケーキも蝋燭も用意はない。ユキは自分でケーキを作ることも、購入することもしていない。
彼女は自身の誕生日も忘れたように、いつもと同じく料理をする。
肩より伸びた黒髪を後ろで束ね、淡々と野菜を刻む。
伏せられた目は、寂しそうに見えた。
水晶玉越しに、クロードは切なく笑む。
「ユキ、誕生日おめでとう」
この声が届くことはないけれど。彼女が生まれたことを喜ぶ人間がここにいるのだと、届いてほしかった。
ユキの作った料理は、カレー。
一緒に彼女の作った料理を食べられたら、どんなに幸せだろう。
そう夢みた。
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