幕間
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仄暗い森の中。
空から降り注ぐ雨。時に恵みをもたらすそれは、今、逃げるようにぬかるんだ道を急ぐ彼女の体力を奪う。
もはや、身体は限界に達していた。肩で呼吸を繰り返し、力尽きそうな身体ゆえに視界が霞む。
決して大きくはない少女の身体。そんな少女が背負うのは、雨に濡れた男。
男はぐったりと少女に身を預け、目を瞑っている。よく見れば、首からは血が流れた痕が残り、男の純白の服と少女の服は跳ねた茶色と血の赤黒によって斑に色づく。
少女 サーシャは、背の男を背負い直した。
もう、背負う身体は冷たくなっている。彼は、死んでしまったのだ。命尽きたから、サーシャは森を突き進み続ける。
獣の声も聞こえない黒い森は、雨音しかしない。獣ですらも、今日は巣に篭っているらしい。
サーシャは絞り尽くすように魔法を駆使し、気配を探る。
(……まだ、追いつかれてない)
安堵しそうになる心を引き締め、歯を食いしばった。
油断は禁物だ。いつサーシャが追っ手に捕まるかわからない。捕まってもおかしくはない。背負う男――大神官は大罪人となってしまった。死んで尚、彼に手を貸すことは許されない。
けれど、サーシャは彼を背負い、ここまで駆けた。自身が罪人となっても構わなかった。
解けかかる、自分の気配を消す魔法を再びかけ直す。この魔法は、暗殺や諜報活動のため、過去に叩きこまれたもの。こんなところで、こんな時に役立つなど、思いもしなかった。
今のサーシャにとって、恐れるべきは、自分のいた組織である。彼らは、裏の仕事をすべて引き受けてきた存在で、気配を消すこと、人を追跡すること、暗殺することに長けている。ゆえに、サーシャの使える魔法を熟知し、同じ魔法が使え、思考回路も似た彼らがなによりもサーシャの邪魔になり得る存在だった。
――昨日までの味方は、今日の敵。
――しかし、裏切ったのは、サーシャに他ならない。
味方のいない孤独。悲鳴をあげる身体。
挫けそうになる心を叱咤して、サーシャは俯きそうになる顔を上げた。
(……あたしは絶対に、諦めない!)
涙が雨に混じって地面に落ちる。でも、泣いている場合ではない。足を止めている暇などない。
睨めつけるように、前を見据えた。
*** *** ***
――大神官は、決して善人ではなかった。
それは、サーシャ自身、よく知っている。彼は、時として残酷な裁断を下した。
だが、大神官を慕う者は少なくない。
大神官の部下といえる神官や、サーシャのいた裏の仕事をする組織に敬慕する者が特に多かった。
――大神官は、善人ではなかった。
けれど。
――大神官は、この国の慈悲だった。
サーシャは母を亡くした後、魔力の才を見込まれて国に引き取られた。
そこで裏の仕事を行うのに必要となる教育を施されたが、環境は劣悪なもの。施設や衛生面が悪かったのではない。人情など欠片もない、人の心すら有すことを許されない場所であったのだ。
同じ教育を受ける子どもと笑みを交わすこともなく、ただ人形のように、ひいては道具のように扱われ、様々な術を叩きこまれた。
中には、自殺をする子どももおり、幼くして彼らは自ら死を選んだ。
朝から晩まで人を殺す術から人の心を掴む術まで、色々なことを学んだ。魔法に関しては担当の神官から、暗殺に関しては専門の騎士から。
そうして夜、疲れ果てた心身で数人の狭い相部屋へ戻り、泥のように眠る日々。
友達など、いなかった。つくる時間がなかった。
その生活の中で、唯一の救いがあった。月に一度、大神官が施設を訪問する日だ。
大神官が教育現場から相部屋までを視察するため、そういった生活環境は改善される。また、大神官が訪れる日のみ、教育者らは優しかった。
大神官は、子ども達にとって神のような、救世主のような存在だった。
彼は、休憩時間になると、子ども達一人一人と面会を行う。それぞれに不便はないか、悩みはないか、などを根気よく訊くが、教育者からの叱責を恐れ、子ども達が答えられるわけもない。
それでも、大神官はいつも尋ねた。そして、彼は子ども達の親について、教えてくれた。
サーシャの母がいかに美しく、華麗な踊り子であったのかを教えてくれたのも大神官である。他の子どもも大神官から亡くなった親のことを教えてもらっていたのだと、教育を終え、組織の一員として組み込まれるようになってから、サーシャは仲間に聞いた。
大神官は、”個”を知り、見てくれていた。そのことが、とても嬉しかった。家族のいないサーシャにとって、大神官だけが家族のように接してくれたから。
サーシャは、自分が元神子と元大神官補佐を捜す役目を担うことになった理由を察している。恐らく、一番田舎娘らしい容姿をしているからだ。
サーシャの他、仲間には貴族令嬢のような娘や娼婦のような妖艶な娘までいるが、最も野暮ったいのはサーシャである。変装すれば、難なく村や町に融け込める。
本来ならば喜びがたい理由で捜索者に選ばれたわけだが、それでもサーシャは、大神官にこの役目を与えられたことが嬉しかった。選んでくれたことに、誇りすら感じた。
*** *** ***
サーシャは顔をくしゃりと歪める。
覚束ない足取りは、もう地面に倒れこみそうな身体を示しているかのよう。
彼女の赤い癖毛は乱れ、濡れて顔や身体に貼りつく。鬱陶しく感じながら、それでも髪を掻きあげる時間ももったいないと、彼女はひたすらに一歩一歩を確実に踏み出した。
彼女が目指すのは、彼らの墓は、森の奥深くにある花畑。元神子 サラと元大神官補佐 ルシオの墓である。
二人は大罪人として処刑されたが、大神官が部下に命じ、秘密裏に埋葬したのだ。
――だから、サーシャは二人の眠るそこに、大神官も葬りたかった。
きっと、それを大神官も望んでいると、思ったから。
大罪人だとしても、サーシャは大神官が大切だった。師であり、家族のような存在。時には神や救世主にもなった。
そう思っているのは、サーシャだけではないと、彼女は信じている。
*** *** ***
――クロードが嫌いだった。
大神官にとって、クロードは特別な存在なのだと、なんとなく気づいていたから。
サーシャを街へ向かわせたのは大神官。サーシャ以外にも、数人を潜り込ませた。
大神官のもとに入った情報は、ある街に出荷している寒村で近頃、野菜の収穫量が格段にあがっている、というもの。
大神官はその情報から、なにかしら察したらしい。
ゆえに、サーシャを街に派遣したのだ。
彼女自身は三ヶ月程街に潜入し、収穫量があがったという村の情報を集め続けた。そうして、村に現れた若い夫婦と子どもの情報を大神官に渡すと、その村に密偵数人を派遣した。
密偵らが村の若夫婦家族を約一週間張ることよって、クロード一家が元神子と元大神官補佐の家族だと明らかになった。
サーシャが村に入ったのは、村に馴染み、クロード一家の懐に入ることで生け捕りにするためだった。魔法でサーシャらが元大神官補佐に敵う筈もなく、その息子クロードも神官一族の血を引くならば対抗できない、という理由で、ならば油断させ、眠らせて捕獲すればよい、と考えたのだ。
大神官が初めから赴く予定ならば、その必要はなかっただろう。大神官の能力とルシオの能力はよくみて互角であろうし、数人の魔術師がいれば、才能あるクロードとて大人複数人の力には敵わない。
だが、大神官はクロード一家の情報を宰相にも、皇帝にも流すことはなかった。内々で対処するよう動いた。
――クロード一家が村を犠牲にすること覚悟でサーシャ達に牙を剥くならば、退きなさい。
大神官はそう命じた。
大神官は、宰相と皇帝がクロード一家を秘密裏に捜索していることを知っていた。その前に一家を捕らえようとした。さらに、宰相と皇帝が、クロードのみを種馬として生かそうと企てていたことも。
ゆえに、大神官は言ったのだ。
『クロードを利用する前に、壊されてしまっては困る』と。
だから、彼の身体や心が壊れる前に引け、と。
でも、本当は。
サーシャは悟っている。
大神官の言葉は、きっと本心ではない。
大神官は、潜入するサーシャの存在を示すことで、逃げてほしかったのではないだろうか。サーシャが村に現れれば、少なくともルシオが不審に思う可能性はある。それなりの対処をしてきただろう。その実、ルシオはサーシャが現れてすぐ、村を出るという選択をした。
しかし、結局は、ルシオが追っ手らの存在に気づくと同時に、宰相と皇帝の命によって、大神官自らがクロード一家の前に出向くこととなった。彼ならば、確実に捕らえられるからだ。
さらに、サーシャらとは別の部隊も、宰相の命によって派遣された。
そうして、クロード一家は捕らわれるに至ったのである。
*** *** ***
「サーシャ」
雨の紗幕に遮られていて、気づくことができなかった。
サーシャは驚き目を瞠って、目の前に突如現れた青年を見つめる。
「……イヴァ」
雨と涙と血と泥に塗れた彼女の顔。苦しげに、悲しげに、悲鳴と嗚咽を堪えるように歪められた、その顔。
(……もう、魔力をかなり消耗してるってことか)
青年の姿に、サーシャは自らにかけた気配を消す魔法があまりに弱くなっていることを知った。
大神官を背負い支えるための手に力を込め、イヴァを睨みつける。
イヴァは、サーシャの仲間であり、同僚だ。クロードを捕らえ、護送する際、馬車に同乗していた青年。
口数は少ないが、サーシャが信頼する仲間の一人だった。
過去形なのは、今のサーシャが裏切り者であるから。
彼の褐色の肌に、黒髪がはりつく。その様が艶やかで、青い瞳と陰のある表情も相俟って、妙に色っぽい。
目を細め、立ちはだかる青年は、いまや敵。
かつて、仲間として過ごした日々。境遇も、サーシャとよく似ていた。心から、信頼していた人。
――それでも。
サーシャは言葉を紡ぐ。
「イヴァ、そこを、退いて」
はっきりと、告げる。緊張と覚悟を秘めた声音は、低く響いた。
底をつく寸前の魔力を、文字通り命懸けで放つ準備をする。
――サーシャが死んでしまっては、元も子もない。
けれど、サーシャが生きている内に、敵に大神官の身体を渡すことは絶対にしたくない。それが例え、昨日までの仲間だとしても。
「イヴァ、そこを退いてっ! ……じゃなければ、殺すわ」
片手を大神官から離し、前方に掲げる。
間違いなく、今のサーシャはイヴァに勝てる力など残されていない。わかっていても、最期まで戦おうと誓った。――おざなりに埋葬される寸前だった、大神官の亡骸を攫った時に。
魔力を、掲げた手にこめようとした時。
イヴァが眉尻を下げて微笑む。
「サーシャ――俺も片棒を担ぐ」
刹那、サーシャは驚きに目を見開いた。
「……え」
呆気にとられるサーシャに、青年は続ける。
「他にも、協力者はたくさんいる」
途端、脱力するように頽れるサーシャの身体をイヴァは抱きとめた。
そうして。
大神官の死をきっかけに、帝国は分裂へ向かうこととなる。
これは、その分岐の時のこと。
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