3の(1)
.
寒色でありながら、どこか暖かみのある部屋は、その一室の主を表していた。
部屋には地球でいうところの、北欧家具や雑貨に似たそれらが備わっており、木目を大切にしたデザインに自然を感じる。
部屋の主 ロシェットは、机に向かい、眉間に皺を寄せていた。
彼女の隣には、ユキ。
広げられた教本とノートは、赤い文字や印が幾つもつけられている。
ユキは異世界人であるからこそ、迷い込んだ十二歳から必死にこの世界のこと、国のことを学んだ。なぜか、迷い込んでから言語や文字において困ったことはない。けれど、国の制度や位置といった在り方、常識はまるで無知だったからだ。
結果、平均から平均より若干上の学力を手に入れることができた。それは偏に、クロードが家庭教師を買って出てくれたからに他ならない。
そうして今度は、八つ年下のロシェットにユキが勉強を教えることとなった。
当時、ユキは十七歳。
なんとか国立学院高等部に補欠入学を果たし、留学による辞退者が出たことから、この学校への入学が叶った。しかし、彼女は将来を見据えていたわけではなく、当時既に医療魔術師を志すクロードに焦がれ、彼の在籍する学校を目指しただけである。
その頃、普通科二年の彼女は、目前まで迫った進路選択に人知れず悩んでいた。
――しかし。
九歳の少女は、必死に与えられた問題を解く。むっと眉根を寄せ、口をへの字にして、呻くように思考する。やがて、ハッと顔を上げたかと思うと、ノートに答えを綴った。
「……あってる? ユキちゃん」
おそるおそるといった風に、首を傾げる。少女は、不安そうな表情をしている。
ユキはノートを確認し、焦らすように横目でロシェットを見やった。
「……ユキ、ちゃん?」
少女の周りだけ、緊迫した空気が流れる。
直後、ユキは口元を緩ませて「正解」と赤ペンでチェックを打った。
その時の、ロシェットの顔。
蕾が花へと綻びる瞬間のような、輝かしいほどの笑み。
ユキは瞠目した。
――こんなに、喜んでもらえるのだと。
少女の「ありがとうっ」という明るい声が、心に響く。
――自分が、役に立てたのだと。
ユキは泣くように破顔した。
心が満たされる感覚に、幸せだと感じる。この幸せに、”もっと”と思った。
そうしてこの日をきっかけに、ユキは教師を目指すこととなったのである。
*** *** ***
朝、家の中は慌しい。
クロード、ロシェット、ユキの三人共に登校・出勤の準備をしているからだ。
そんな中でも、クロードはユキに毎朝する行為がある。
「ユキ、今日もがんばれ」
慈しむように目を細め、ユキの頭をポンポンと叩く。
頑張るために、ユキが望む言葉。彼は、それをいつもくれる。
彼女は過ぎるほど優しい彼に、微笑んだ。
*** *** ***
午前の授業は、魔術科一年での歴史科目。
そこでの講義は、ユキにとって比較的平和な授業だといえる。
それは、このクラスにはトラブルの中心に位置する生徒がいないから。
国立学院高等部において、主に竜巻の中心に位置する生徒は普通科一年のリリィ、魔術科二年のカノン、騎士科三年のキャロルである。巻き上げられるのは彼らの周囲にいる面々であり、”竜巻”のような生徒がなんらかの理由で欠席した日は和やかな春のような、ほのぼのとしたクラスであったと、担任教師らは体験談を語る。
確かにユキ自身、実感していることである。
魔法科一年のクラスには、カノンのハーレムに参加する女子生徒がいる。しかし彼女は、教室では只のかわいらしい優等生だった。
だから、毎週のこの曜日がユキは好きなのだ。
午後、ユキは職員室で試験の準備に取り掛かっていた。
季節は秋。
一年の内、半年を過ぎたこの時期になると、普通科では中間試験が行われる。試験自体は一年間に三度で、三度、というのは普通科のみである。他方、魔術科や騎士科の試験は一年に二度、年度初めと年度末に行われ、中間期は別の行事で盛り上がる。
魔法科は、魔法の実技を用いた対戦や演舞を、騎士科は模擬剣・槍を使用し戦うトーナメント戦、そして剣舞の行事だ。
体育祭や文化祭といった、全ての学科で取り組む全体行事のない学校であるから、普通科が一番ハレの機会が少ないといえよう。
それでも、教師にとって試験問題作りは楽な作業ではない。
ユキは教科書とにらめっこしながら、”使える”と思ったページに付箋を挟んだ。
集中して作業していると、コト、と傍でなにかが置かれる音に気づく。
顔を上げる。
「お疲れ様」
同僚のベルが、すぐ隣に立っていた。ユキの机には、記憶にない、茶の入ったカップ。ベルが茶を淹れてくれたようだ。
「ありがとうございます」
小さな優しさに嬉しく思い、礼を述べれば、彼女は照れを隠してカップの中身を啜りながら、自分の席へと戻っていく。
ベルの後ろ姿を眺めながら、霞む視界に、自分の目が疲れていることを知る。
時計へと視線をやった。
(一時間くらい経ったんだ……)
ずっと教科書の細かい文字ばかりを追っていた。疲れるわけだ。
休憩しようと、視線を上げ、運動とばかりに首を左右に曲げる。拍子に、コキ、という小気味良い音が鳴った。なんとなく凝っていた肩首が、少しだけ楽になった気がするのが不思議だ。
今度は目を休ませようと、瞑目するかわりに遠くを眺める。
そうしていると、客観的な立場で物事を見ている、そんな感覚に襲われる。
職員室は大所帯で、机は学科ごとの島に分かれる。教科部屋もそれぞれあるので、教師によってはそこで過ごすが、ユキは授業のない午後、職員室で過ごすことが多い。
静かな空気。けれど、耳を澄ませば小さな物音が聞こえる。一人一人の一挙一動が、音となって伝わってくる。
その、人の気配は――独りじゃないんだ、とユキに安心感を抱かせた。
ぼんやりとベルの淹れてくれた茶を飲む。
心が落ち着くと同時に、不意に、昼休みの出来事を思い出した。
それは、ユキ達よりも長い間、教師生活を送っているダントンが語った過去。
彼は、問題児を抱えたかつての担任達の話を口にした。
『逆ハーレムやハーレムを築く生徒は、昔からいました。やはり、性的な問題や私生活でトラブルに巻き込まれることもあった。当時の担任教師達も悩み、それぞれ解決策を講じました』
ダントンの知る、過去の教師達の策はユキ達の意表を突いていた。
――ある男性教師は、逆ハーレムを築いた女子生徒を自らに惚れこませた。彼は卒業まで絶対に手を出すことはなかった。
――ある女性教師は、完璧に天然でぶりっ子のフリをした。彼女はなにを目にしても「え、なんのこと?」「なになに気がつかなかったぁ」と言葉にし、なにを耳にしても「あれれ? 気のせいかな?」と幻聴だと主張した。
――ある男性教師は、性行為へと発展しそうな生徒を見つけ、注意した。しかし、生徒は学院に多額の金を寄付する、有力者の息子であった。彼は、教師を脅す。そして翌日、教師は校長に呼び出され、生徒を注意したことを咎められた。その在り方に現実を知った教師は、校長に言った。「では、私は今後一切、どういったことにも関わりません」その宣言に、校長は渋々頷く。それから、教師はプライベートと学校とで心を分割し、分別するようになった。学校では、なにを目撃しても注意しない。冷めた眼差しで流し見るのみ。それを教頭に怒られたが、彼は皮肉気に嗤い、「校長も承知です」と反駁した。
もちろん、ダントンの話の中には、策に溺れた例もあった。
―― 一人の女性教師は、ハーレムを築いた男子生徒を自分に惚れさせようとし、逆に自分が恋に落ち、学校を去って行った。
ダントンは、どこか温度のない声で囁く。
『問題を回避したいと思うならば、心も身体も許さない。――それが、前提です』
いつだって、その包容力で癒してくれるダントン。ふくよかな腹や垂れた目尻、雰囲気から、見守るように暖かな空気を生み出す、彼が。
睫毛を伏せて語った言葉は、冷酷に響いた。
それがとても印象的で。
ユキの頭の片隅から、離れることはなかった。
ガチャン、という音で、ユキは我に返る。
思考から現実へと引き戻され、慌てて音の気配を探す。
あれは、なにかが割れた音だった。割れ物といえば、先ほどベルが用意してくれたカップしか思いあたるものがない。
机を見回し、ついで床へと視線を落とせば、そこにはやはり取っ手のとれたカップがあった。
(あちゃー……)
カップ自体は学校の備品だ。給料からこの分は差っ引かれるかもしれない。
苦味に顔を渋らせて、椅子から立ち上がる。運良く中身を飲み干していたが、欠片が落ちていたら危ない。
(すぐ掃除しなくちゃ)
「大丈夫?」と、近くの席にいた教師が声を掛けられた。
ユキは「はい、ありがとうございます」と頷き、しゃがむ。
(取っ手以外は割れてない、か)
素手で割れた取っ手とカップを拾う。
瞬間、痛みが走った。
「……っ!」
拾ったそれらは、再び床へと落ちる。カチャン、と音を立て、更にヒビ割れてしまった。
「ブルック先生、掃除道具持って来ました――って、素手で拾っちゃ駄目ですよ。言わんこっちゃない、指から血が出てます」
背後から現れた人物は、先ほどユキを労わった教師。手には箒とちりとりを持っている。
「ありがとうございます」
ユキがそれらを受け取ろうと手を伸ばせば、相手は追い払うようにちりとりを振った。
「ここは私が片づけますから、ブルック先生は保健室へ行ってください」
「でも……いえ、すみません……」
顎で出入り口を指され、ユキはすごすごと退散を決める。相手の教師はものすごい威圧感を放っていたからだ。
「ありがとうございます」
礼を述べると、教師はにっこりと笑みで以って返答した。
.




