5の(3)
.
月日は流れる。
動物園の中では、いつでも温暖な気候が保たれているため、季節を把握することは難しかった。太陽の日差しの強弱だけが、動物園の住人にとって季節の物差しになりうるのだ。
紗幕越しの光から、恐らく今は冬の終わり頃だろうと察する。そう思い至れば、天気の悪い日は紗幕が開けられているわけだが、雪の日もあったと思い出す。
そんなことも曖昧にしか憶えていないほどに、クロードの精神は別の世界へ行きかけている。
水晶玉の少女は、あれから料理の腕が少しだけ上がった。もう穀物を炊くのに失敗しないし、刃物の使い方も怪我をしない程度にまで上達した。
それでも――彼女の母親が、ユキに目を向けることは二度とないけれど。
憐れな少女。誰かが守らなければ、雪のように融けていなくなってしまいそう。
もしそうなったら、クロードこそが生きていけない。
「ユキ……」
手の届かない少女の名を呼んで、クロードは痛みを堪えるように笑んだ。
その間も、クロードの日常は変わらない。
マルグリットが檻の向こう側にいて、クロードを一心に見つめている。
クロードが少女の名を知ってから、おおよそ半年。この半年間で、マルグリットの身体は随分大人びた丸さが際立ってきた。
形の良い少し大きな胸、くびれた腰、程よく出た臀部。男ならば一度は相手を願いたくなるだろう体つきである。
だが、その成長を、誰よりもマルグリット本人が嫌がった。彼女はどこか、大人の身体に成長することを拒んでいる節があった。
そんなマルグリットは、どんどん心をクロードに侵食されていくかの如く、少年に陶酔した様子を見せる。まるでクロードが水晶玉の少女を眺める眼差しに似ているが、クロードの瞳に宿るのが愛おしさと庇護であるのに対し、マルグリットは瞳に色欲と独占欲を宿していた。
熱の籠められた恍然とした眼差しは、クロードに嫌悪感を抱かせるのに十分だ。彼はぞくりと背筋を震わせると、眼差しの主へと視線を一切やらずに顔を顰める。
その小さな反応が、マルグリットには嬉しかった。
「クロード……私のクロード。私の肌に触れて良いのは、お前だけだ。私には、お前だけなのだ。そして、お前は私だけのもの」
洗脳するように、いつも彼女はこの言葉を口にした。
マルグリットのクロードへの執着は、いつしか異常なものへと変化していたのだ。
*** *** ***
偏執狂とも言えるマルグリットの様子を危惧していたのは、大神官である。
彼はマルグリットが去った後、クロードの檻にやってくると溜息を吐いた。
「……彼女も、憐れな娘なのだ」
それから、水晶玉を見つめるクロードに、今日も大神官は独りでに話す。
「マルグリット殿は、皇弟殿下に嫁ぐ予定であった。……彼女の叔父上にだ。彼女の美貌が、皇弟殿下の目にとまったがために。それも、今では破談になったが」
そうして、大神官は睫毛を伏せた。
「……お前に、話したいことがたくさんある」
その言葉を皮切りに、様々な情報をクロードに与えた。
大神官によれば、皇帝らがクロードを種馬にするのに必死な理由は、クロードの一族にあるらしい。
大神官、つまりクロードの祖父の家系は、大貴族であり、代々神官を輩出してきた。それこそ、初代神子の召喚から、クロードの母の召喚まですべてに立ち会ってきたのだ。
それは、大貴族出身の魔術師であるからではない。
クロードの一族には、複数いる始祖の一人の、強大な力を持つ魔術師の血が色濃く残っているからである。
その血をより濃いものとするため、クロードの一族は代々近親婚を繰り返してきた。クロードの亡き祖母は、大神官の姪だったという。
そうやって、大神官の代まで近親婚は続いてきた。
けれど、それに逆らったのがクロードの父 ルシオ。彼は、神子を妻とし、クロードを産んだ。初めて、一族に魔術師以外の血が混ざった。
それも、クロードが魔術師の血を受け継いだことで大問題には至らずに済んだが、そも一族は次代があまりに少ないどころか、子をつくることができる若者はルシオとクロードしか残されていなかった。
ゆえに、本来ならば両親と共に処刑される筈だったクロードは生かされ、種馬として扱われるに至ったのだ。外聞と秩序のため、大罪を犯したルシオは公開処刑されるに至ったが。
「我が一族の力があれば、一族の者一人と、大神官補佐二人ほどで異世界召喚の術は完成する。負担はあれど、命が奪われることはない。だが、そうでない場合、並みの魔術師数十人の命が必要となるだろう。私だけの力で召喚するならば、私の命を懸けねばならない」
どこまでも落ち着いた声音が、動物園に響く。
この言葉を聞いて、番人である騎士と魔術師は一体どう思うのだろう。思えば、これまでの大神官の言葉を、番人らは聞いてきた筈だ。クロードの感じた大神官の行動の矛盾を、彼らが抱き、皇帝らに密告していいものである。
だが、そんな様子はない。あれば、大神官は二度とここへは来られないだろうから。
クロードにとって、わからないことだらけだった。
考える事を放棄した頭で、しかし疑問だけはいつも頭の片隅に居座り続ける。
「マルグリット殿は、憐れな娘だ。――だが、私は彼女よりも、お前の方が大切なのだ」
毎度の、穏やかな眼差しが向けられ、クロードは居心地悪そうに大神官を見やった。
少しでも心を顕わにした少年に、大神官は優しく目を細める。
「お前の父が何の研究をしていたか――何を残していったか、知っているか?」
クロードは眉根を寄せた。
言われるまで、すっかり忘れていた……むしろ、心が壊れるほどに痛むから、故意に考えずにいた幸せだった頃の思い出。
そういえば、と思った。
クロード一家が捕らわれた村にいた頃、父は家族が寝静まった深夜、なにかに没頭していた。それが大神官の言う研究なのであれば、クロードはその研究内容を知らない。そして、”研究”と言われて、それくらいしか思いあたることはない。
――父が、なんの研究をしていたのか。
訝しげに、クロードはただただ大神官を睨めつける。
大神官は口角を上げ、鋭い眼差しに答えた。
「――あと、少しだ」
クロードの世界は、もうじき春を迎える。春は、その世界で一年の始まりの季節。
つまり。
もう目前まで、クロードの、ひいてはクロードの国の国民の誕生日が迫っていた。
.




