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クロードは、ずっと少女を見つめていた。
昼夜問わずそうしていた結果、彼女の国の言語を少しだけ理解できるようになった。
水晶玉の中で、昼間、動物園よりも狭い部屋には少女と同じ年頃の子ども達が集まり、一人の大人がなにかを教えている。
それは、クロードの捕らわれた村の学び舎のよう。つまり、そこは少女にとって学び舎なのだろう。
子ども達や師であろう大人は、彼女をこう呼ぶ。
――ユキ。
それはきっと、少女の名前。
「……ゆ、き」
口にしてみると、なんだか嬉しくて、糖蜜を食べた時のように甘く感じ、顔がとろりと蕩けた。
もっと、もっと彼女の色々なことが知りたい。
ゆえに、今までよりももっとたくさん言語を覚えようと必死になる。
もともと、言語を覚えることは苦手ではない。法則さえ覚えてしまえば、あとは暗記するだけなのだ。
そして、更に知ることができた情報は、彼女の誕生日と思われる日付。
ユキの世界の数字と文化を、クロードは少しだけ知っていた。過去に、母が教えてくれたから。
母は書き留めたいことがあると、よく母国の言葉を使用していた。クロードにとっては、”英語”と呼ばれる文字よりも数字の方が暗号に見え、興味が湧いたために、強請って教えてもらった。
クロードの世界では、誕生日を生まれた日と定めることはせず、一年の始まる日に皆同時に年をとる。しかし、クロードの母は、クロードの誕生した日に必ずいつもより豪華な菓子を作ってもてなし、祝った。
母は言った。
『私の国の……私の行った事のある国では、自分の生まれた日を誕生日として祝うのよ。私はあなたを産んでとても幸せだから。幸せをくれた日を祝いたいの。蝋燭は、歳の分だけ立てるのよ』
母の行った事のある国――アメリカと日本。
その言葉を思い出し、クロードは水晶玉の向こうで菓子に蝋燭を立て、母子二人で楽しそうに祝う姿に、その日が彼女の誕生日であると察する。
更に蝋燭の本数から、ユキが八歳であることも。
彼女の控えめな笑顔が切なくて、いつしか心からの笑みを見たいと願っていた。
――初め、観察対象は誰でもよかったのに。”誰か”でなくとも、現実逃避できるのならば、異世界を巡るでもよかったのに。
しかし、次第に、なんとなく彼女が気になって、日に一度は少女を捜すようになった。それから、彼女から目を離すと、彼女のことが気になってたらまらなくなるようになった。
その少女から――心からの笑顔が遠ざかってしまったのは、最近のこと。
水晶玉の中の、異世界の少女に転機が訪れたのだ。
欠けた月の光が、動物園に降り注ぐ。
その光だけを頼りに、クロードは少女を眺める。
それまでも濃い化粧ではあったが、より派手になったユキの母。服装も、露出が以前より増えていた。
少女は母が帰るまでの時間、掃除をして過ごしていたが、母の変化をきっかけに料理の練習もこっそりするようになった。
とは言っても、クロードより幼い少女だ。しかも、彼女はクロードの世界ではそれこそ貴族の娘のように育てられてきたのか、火や刃物をあまり手にしたことはないらしい。
野菜を切る手は、危ういほどにたどたどしかった。
そんな少女は、卵を割る練習を始める。
殻にヒビを入れる際、力の加減が難しく、何度も失敗を繰り返す。それから、ようやっとヒビを程よくいれることに成功するが、今度は割って中身を容器へと出すのに失敗した。
殻の入ってしまった、黄身の崩れた生卵。
ユキは一生懸命殻を取り除いた。
――見ているクロードこそが、手を貸したくなってしまう姿。
クロードはもどかしさを覚える。
彼女の隣に自分がいたら、と思わずにはいられなかった。
ユキは、いつだって母の心を自分に向けてほしくて、母の助けになりたくて献身的に尽くす。けれど、その母は変わってしまった。
ユキの母は、いつしか深夜か明け方に帰ってくるようになり、その時は男を連れ込んだ。
その家に、少女の居場所はない。追いやられるように、ユキはいままで寝るために使用していた部屋から、寝具を別の部屋に運び、そこで眠ることを強いられた。
それでも、彼女が母親に文句を言うことはない。
次の日も、彼女は帰宅後に料理の練習をする。
ある日は、白い穀物を握った物を作る。それも、水の分量を間違えたのか、うまく形にならず、しかも彼女は熱い状態で触れてしまったために、手が真っ赤になっていた。
またある日は、刃物を扱う練習のためか、野菜を切り、手を切ってしまった。
(この枷がなくて。ぼくが異世界に行けて。ユキの隣にいられたら)
――どんな傷も、癒すことができるのに。
やるせない。応援しかできない自分に、不甲斐なさすら覚えた。
悲しくて、切なくて、痛ましいほどに愛らしい少女。
彼女の存在に、大神官との時間も、マルグリットとの時間も忘れることができた。
絶望を、忘れられる。負の感情が、静まる。ともすれば、両親の愛してくれた頃に、少しでも戻れる気がした。
「ユキ……」
――彼女を、心の底から愛しいと、思う。
*** *** ***
大神官は、少女だけを見つめる――少女しか目に入っていないクロードの頭を撫でる。
指の隙間をすり抜ける亜麻色の艶やかな髪は、彼の母の髪とよく似ていた。
クロードの灰色の瞳は、熱が宿っている。それだけで、彼が少女に心酔しているのだとわかる。
客観的に見れば、限度を超えたそれは異常にも映る。少年には、少女の存在が全てなのだ。
しかし、少女の存在があるからこそ、クロードはまだ完全に壊れずに済んでいるとも言える。彼女に執着し、依存する少年。喪失した感情は、いまや少女にのみ向けられる。
それは、穏やかな眼差しで以って。
大神官は、それで構わなかった。クロードが生を望んでさえくれるなら、それが希望でも憎悪でも、どちらでも良い。生きてくれさえすれば。――そうしたら、いつか幸せが彼に降り注ぐかもしれないから。
少女を映す水晶玉を眺めて微笑む少年に、大神官は淡く笑んだ。
「……あと少しだ。あと少し、待っておくれ」
クロードの心は、少女に囚われたまま。しかし、大神官は続けた。
「お前を、利用などさせんよ。――私の、唯一人の家族であり、孫なのだから」
少年にとって、大神官の告白は衝撃的なものである筈だった。
だが、聡い少年は、薄々察していた。大神官は、クロードにとってあまりに矛盾した行動をとってきたのだ。
両親を捕らえ、クロードを監禁したが、彼を救おうとする。ともすれば、父が大神官の元側近 大神官補佐であるために情があるのか、はたまたクロード自身が大神官となんらかの関係があるかがすぐに思い浮かぶ。
そこで過ぎったのが、サーシャの言葉であった。
『あんたは血筋だけはいい。大貴族で代々神官の家系の父親と聖女の母親の子だもん』
クロードの父は、この世界は近親婚が増えたために魔術師が減ったと言った。
それはつまり、魔術師同士は親族縁者である可能性が高いということ。
そうした思考を脳裏に描いていたから、クロードにとって驚愕する事実ではない。
――ただ、そんなことはどうでもよかった。
大神官の祈るような声。
「――どうか、お前の未来に、幸多からんことを」
それは、優しく包み込むような、温かい声音だった。
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