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――その日も、現れた大神官は食事を手にしていた。
流浪していた頃は、茶色の籾殻ごと挽いた粉で出来たパンを食べていたが、動物園に囚われてからは脱ぷされた粉で作られた白いパンしか出されない。
今日は木の実が練りこまれたパンと、野菜たっぷりのスープ、それに肉の燻製と卵を焼いたものにミルクという献立のようだ。
クロードはそれらを口に含み、黙々と咀嚼する。
味は、これまで食べたことのない風味や味わいがしておいしい。香辛料など、これまで滅多に口にできるものではなかった。
だが、味気なさも感じる。それは、一緒に食事をする相手がいないから。特に、憎しみすら抱く大神官の話をおかずに、おいしく食べられるはずもない。
適当になにか情報はないかと耳を傾けながら、最後のミルクを嚥下する。
そうしてお腹がいっぱいになると、自分に集中する大神官の視線が厭わしく思った。
寝台で食事を終えたクロードは、床に空の皿が乗った盆を置いてから、横目で視線の主を見やる。
やはり、と言えばいいのだろうか。大神官は白の交じる銀の睫毛で縁取られた目を細め、柔らかくクロードを見ている。
それがどうにもクロードを苛立たせ、鼻根部に皺を寄せた。
大神官はそんなクロードに苦笑すると、静かに囁く。まるで、懇願するように。
「……お前の両親の話を、聴かせてくれないか?」
クロードに返せたのは、困惑した口を一文字に引き結びつつも、眉根を寄せた表情。
これまで、大神官はただ勝手に一人で語るばかりだった。クロードが聞いているのかいないのか関係ないと言わんばかりに。それこそこの動物園についてや、いかに大神官補佐としての父が真面目な実力者であったかという、クロードにとってありがたい情報もあった。
だが、今日はなぜかクロードから情報を引き出そうとする。
「……どうして?」
答えられたのは、それだけ。
自分が両親に不利となる情報を渡すことは嫌だった。けれどそれ以上に――自分達家族を引き離した者に、幸せだった頃の記憶を少しでも話せば、汚され壊される気がしたのだ。
再び口を閉ざしたクロードに、大神官は睫毛を伏せ、長衣の内からなにかを取り出した。
――赤黒い斑のついた、手のひら大の丸い玉。
よく見れば、それは水晶玉らしい。
その水晶玉には、見覚えがあった。しかし、クロードの知っている物とは違う物かもしれない。クロードの知る、父の水晶玉は、透明で。異世界を映すほどに透き通っていたから。
「……お前が、持つべきだ」
大神官の言葉に、クロードは訝る。
渡された水晶玉の赤黒。触れてみれば、カリ、と小さく割れて剥がれた。
指についた赤を見下ろす。
――まさか、と思った。
動揺するように大きく目を見開いた少年に、大神官は容赦なく告げた。
「お前の両親の形見だ」
咄嗟に上げた顔は、驚愕に彩られる。
小刻みに震える身体。歯はかじかんだように噛みあわない。
なにより、言葉が出てこなかった。
――こんなもの、両親の形見という証拠とはいえない。水晶玉など、世界にいくらでもある。
そういい募りたいのに、両親の死を現実のものとして捉える自分がいた。
それは、記憶にある父は、どんなに放浪しても、片時もその水晶玉を手放したことはなかったからだ。その水晶玉の入れられた場所に、パンの一つや水筒の一つが替わりに入れられるのに、旅用の袋には必ず入っていたから。
『水晶玉は、見たものや人の念、魔術を記憶することができるんだ。だから、自分の水晶玉は心から信頼する人以外の手に渡してはならない。自分から手放してはならない。なにを考え、見て、どんな魔法を使ったのか知られてしまうかもしれないから。それに』
――いつかきっと、大切なものを守るために必要になるから。
父の言葉を思い出す。あれは、いつのことだっただろうか。確か、父から魔術の実技を教わり初めてすぐのこと。
つまり……だから、父は己の水晶玉を手放すとは考えられない。
では。この、赤のついた――乾いた血のついた水晶玉は誰も物だというのか。
――そんなこと、魔力を枷で封じられていても、水晶玉に触れればぼんやりとなにかを感じ取ることくらいできる。
『石は、不思議な物よ。私の世界には、”呪いの宝石”と呼ばれる石があったの。その宝石を持った者は、皆不幸になると言われた。魔法が存在しない、私の世界で』
母の言葉を思い出す。
母の言の通り、水晶玉に触れれば、魔法の使えない者でも石に残るなんらかの情報を得ることができる。それがはっきりとしない呪いであれ、念であれ。”なにか”が。
そして、クロードの顔は、少しずつ苦痛と悲痛に歪んでいく。
やがて、目からは幾筋もの涙が流れた。
胸に抱くように、両腕で包み込む。絹の服に血がつこうとかまわなかった。
「――父、さん……母さん……っ!」
前かがみになって蹲るように慟哭するクロードは、父と母の念を確かに感じ取った。それは念というよりも、最期に父がかけた伝達の魔法だろう。
『愛おしい君に、幸あれ』
願うような、祈るような、胸の奥底から温まる念。
それは間違いなく、両親のもの。
両親の優しさ、温かさを感じると共に襲うのは、絶望。両親とはもう二度と会えない、失ってしまったという現実。
嵐のように胸が荒れ狂う、殺したいと願うほどの憎悪と怨恨、そして悲痛と哀求。
(――会いたい、会いたい、会いたい!!)
死ねば、会えるだろうか。
だが、両親はクロードに生きるよう願った。その願いを、違えることなどできない。
両親の願いと、クロードの望みは相反するもの。だから、クロードは行き場のない感情を持て余した。
憎しみが、新たな憎しみを生む。すべての元凶は大神官や、この国なのだと矛先が向けられる。
しばらく悲しみで打ちひしがれていた少年の震えは、いつしか怨恨と憎悪の震えに変わる。共に、クロードの心に歪みが生じはじめた。
「……クロード」
慰めるような、蕭やかな嗄れた声。
それも、今のクロードにはなんの慰撫にもなりはしなかった。
『……お前の両親の話を、聴かせてくれないか?』
今日、余談とばかりにそう言った、初老の男の言葉が蘇る。
そうして一気に膨れ上がった悪感情に、クロードは静かに顔を上げた。
少年の表情に、大神官は目を瞠る。暗く、どこか歪つなそれは、少年が捕らわれた時も、両親と別れた時も、この動物園に監禁されてからも目にしたことがないもの。その様からは、少年の心が闇に堕ち、形を変えたように見えた。
「クロー……」
「お前がっ! お前が殺したくせに!!」
突如、クロードは大神官に跳びかかる。首に両手をかけ、圧迫した。
少年の力は、病み上がりのために微々たるもので、かつ太い大神官の首を絞めつけるには少しばかり小さい。それでも、術を知る者ならば、人を殺めるのに無理な話ではない。――きっと、少年はその術を知らないだろうが。
気道を遮られ、大神官の顔色は紅潮する。苦しそうに顰められる顔は、けれどどこか受け入れるような色が見え隠れした。
首を絞めるクロードの手を外そうと、もがくこともしない。それが少年にとっては不可解だったが、今はそんなことどうでもよかった。
激昂する少年を、目を細めた大神官は見つめる。
――これまでクロードは、一度だけ怒りを顕わにしたものの、その時以外は遠くを眺めるようにぼんやりとしていた。大神官がなにを語ろうと、興味を示すことはなく、話を聞いているのか否かもわからない。
大神官は寂しいながら、仕方がないと思っていたし、それでいいとも思っていた。
だがそれは。これまで、クロードが大神官の話に付き合っていたのは、無視していたからで、思考力が低下していたからに他ならない。しかし、感情と思考力を取り戻した今、クロードの胸には確かな負の感情が棲みついている。
動物園の番人の足音が近づいてくる。神官と騎士の二人分。
その音に気をとられることなく、クロードは怒鳴った。
「なんで……なんで殺した!」
そして、少年の身体は無理矢理番人二人に引き剥がされた。両腕を後ろに回され、それぞれ片腕を神官と騎士に取り押さえられる。
そんな中で、大神官は首をおさえて咽せ、呼吸を整えてから答えた。
「――罪人だからだ。この世界の、大罪を犯した。皇帝の妻となるべき娘と大神官補佐の駆け落ち……非魔術師と魔術師の婚姻―― 一を許せば十どころか、すべてを許さねばならなくなる。そして一つの罪の例外を認めれば、他の罪の例外を認めないという線引きは矛盾する。ともすれば、秩序は崩壊するだろう。それを知り得てなお反した者を裁くことこそ、師たる私の役目だ」
「だったら! だったら、ぼくは大罪人の子供だっていうのか!? ぼくは父さんも母さんも悪いとは思わない。だってその掟は、始祖が、権力者が、国が、世界が押しつけたものなのに!!」
叫ぶクロードを咎めることなく、大神官は少年から目を逸らさずに言う。
「……まだ、お前のために死んでやるわけにはいかぬ」
その言葉に顔を蒼くしたのは、クロードの腕を捕らえる番人達だ。「大神官様っ」と声を発した彼らに、大神官は「戯言だ」と軽く流した。
安堵を見せた番人を他所に、目の前で睨めつけてくる少年と、大神官はただただ相対する。
やがて、少しの沈黙の後、大神官は囁いた。
「憎しみが生きる糧になるならば、それでよい。お前は――生きろ」
そう、悲しく微笑んで。
その笑みに、クロードはなぜか最後に見た両親の、儚い微笑を思い出した。
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