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仕事が終わると、ユキは寄り道をすることなく帰宅する。
身体的・精神的疲労感で早く休みたい、という気持ちが強いのだ。
ユキの住む家は結構な邸宅で、白い外壁の二階建て。庭には芝が敷かれ、花壇には色とりどりの花が咲く。
ユキは地球からこの世界に来た後、旧貴族の、今は魔術省所属魔術師のステファノス家に引き取られた。けれど、ユキは養い親の娘として、養子縁組されることなく、”スノー・ブルック”として戸籍に登録された。これは、異世界人にのみ許された権利である。
養い親である養父は地方赴任中、専業主婦の養母は彼についていったため家にはいない。従って、今、この邸に住むのは養い親の息子であるクロードと娘のロシェット、そしてユキだ。
「ただいま」
玄関扉を開け、靴を脱ぐ。きれい好きだが土いじりが好きな養母は、家の中が汚れないよう室内では室内履きを用意している。
自分用のそれへと履き替えたユキは、リビングへと向かった。
「ユキちゃん、おかえり」
ソファでくつろぎながら、スコーンを食べているのはロシェット。
「兄さんはまだ帰ってないよ」
血が繋がっておらず、養い親と親子関係とも言い難いユキを、彼女は”ユキちゃん”と呼び、クロードのことを”兄さん”と呼ぶ。それに対し、ユキはとくに違和感を抱かない。
「そっか。ロシェットは今日の夕飯、なにが食べたい?」
ロシェットの隣に座りユキが首を傾げれば、彼女は顔を輝かせた。ともすれば、柔らかなウェーブの銀髪を持つ美少女は、同性から見ても胸を打ち抜かれそうなほどに愛らしさを醸す。
「デミグラスソース的ななにかが食べたいっ」
「デミグラスソース的な、なにか……。例えば?」
「それはユキちゃんに任せる」
機嫌の良いロシェットをよそに、ユキは呻いた。
”デミグラスソース”はわかるが、”的ななにか”が難しい。それでも、とりあえず頷く。
「わかった。何か、ね」
苦笑すると、ロシェットは頬を赤らめて嬉しそうに、唇に弧を描いた。
ロシェットは国立学院高等部の魔術科二年に所属する。つまり、魔術科二年の担任教師 ベルの生徒だ。
家で表情豊かな美少女は、学校では無表情無関心らしい。ベルいわく、ハーレムを築くカノンから粉をかけられているそうだが、彼女が靡く様子もまたない。
一度、ロシェットがハーレム要員になったらと不安に思い、カノンをどう思うか尋ねたこともある。
彼女は仮面を貼りつけたように表情の色を無くし、こう言った。
「ああいう輩に関わりたくないから、知らない。興味ない」
一刀両断であった。
それでも食い下がってみれば、彼女は口角を皮肉気に上げて言う。
「ユキちゃん、そいつになにかされそうになったら、すぐに言ってね。わたしがじわじわ死に追い込んでやるから」
ロシェットは、魔術の素養があるだけでなく、魔力も相当のものだ。学校で最強と名高いカノンでも、簡単には彼女を倒すことはできないだろう。それに、カノンはフェミニストという噂だから、敵に容赦のないロシェットはそこにつけこむ可能性も高い。いや、むしろ、彼女は最強ではなくとも、頭が良い。肉体的にいたぶるのではなく、精神的・社会的にいたぶるつもりなのかもしれない。
背筋が凍る思いをしたユキは、以来彼女にカノンの話題を振ることはしなかった。
既に時刻は午後七時。
ユキは夕飯づくりに取り掛かることにした。
メニューはロシェットの希望通り、デミグラスソース的ななにか。悩んだ末に決めたメニューは、煮込みハンバーグ。デミグラスソースは家で作れなくはないものの、手間がかかる。そのため、この国では料理店特製デミグラスソースの缶詰が出回っている。
(確か、ストックがあったはず)
食品棚を漁ると、買い置きが三つほど見つかった。
(あとはハンバーグを作るだけね)
必要となる食材、調味料、器具を用意し、キッチンに立った。
ユキは、ステファノス家の料理当番を担う。主に朝食、昼食の弁当、夕食を作り、他の家事、例えば掃除はクロードとロシェットが手伝ってくれるし、週に一度掃除婦が来る。洗濯に関しては、ロシェットも年頃となってからは自分でやるようになり、クロードはもともと自分の分は自分で洗っていた。
それは、養母がいた頃から変わらない。養い親が地方へ行くまでは、養母とユキが料理を作っていたのだ。
そしてそれを望んだのは、他ならないユキだった。
彼女は、”娘”となることを拒んだ。決して、養い親やクロード、ロシェットを拒絶したわけではない。ただ、”小川 雪”という名と縁を、捨てることができなかった。
少しの後ろめたさ。邸にいてもいいのだと、許容される証のようなものが欲しかった。
そんなユキの心に勘付いたであろう養母が、ユキの望みに頷いてくれたのだ。
ハンバーグをデミグラスソースで煮込む。最後の仕上げとしてかける生クリームも用意した。季節は秋だから、きのこをたっぷり加えて煮込んだそれは、完成間近。
香りが充満するキッチン。
皿を食器棚から出そうとユキが思考していると、穏やかな声が降ってきた。
「ただいま、ユキ」
声で、背後の気配が誰のものかすぐにわかる。
「おかえりなさい、クロードさん」
振り返れば、クロードが優しく微笑み、歩み寄って鍋の中身を覗く。
「今日は煮込みハンバーグか」
「ロシェットのリクエストなの」
そうか、と頷いたクロードは、言葉をつぐ。
「あとどれくらいで完成する?」
お腹がすいているのだろうか。ユキは内心首を傾げつつ、「あと十分くらい」と答えた。
「ロシェット」
――突如、クロードは踵を返し、ロシェットの名を呼びながらリビングへと顔を覗かせる。
目を瞬くユキ。
目の前にロシェットが現れたのは、数十秒後。
「なに? 兄さん」
それまでソファでくつろいでいたであろう少女に、クロードはハンバーグを煮込んでいる鍋を指差した。
「あと十分、鍋の様子を見ていてくれないか」
「え」とユキはクロードを見上げる。
そんな彼女を見下ろした彼は、ユキの頭をポンと叩くように撫でた。
「今日も、胃を痛めたんだろう? 焦がさないように鍋を見るだけなら、ロシェットでもできる」
な? と視線を送られたロシェットは、口をへの字に歪めた。
「できます! できますとも! ああもう兄さんもユキちゃんもあっち行ったあっち行った」
少女の拗ねて追い払うように手を振る様に、ユキとクロードは苦笑しながらキッチンから追い出されるのだった。
リビングのソファに、二人並んで座る。
上半身を捩って向かい合えば、今では見慣たクロードの顔が近くにあった。
二十五歳のユキより三歳ほど年上の青年。亜麻色の髪と灰色の瞳、日本人とは異なる目鼻立ち。”イケメン”というよりも、きれい、という表現がぴったりな顔立ちをしている。現在は座っているが、立ち姿は姿勢よく、均整のとれた体と過ぎない長身。
彼は、国立学院高等部魔術科を卒業後、魔術省所属の医療魔術師として働いている。
学生の頃はそれこそカノンのようにハーレムを築いたかと思いきや、ユキの記憶にある若い頃の彼は、学校が終わるとすぐに家に帰り、ユキやロシェットに付き合ってくれた。恋人がいたのかはわからないが、クロードの容姿からは少々もったいない青春時代のように思う。
クロードは睫毛を伏せ、手のひらをユキの鳩尾に置く。
場所が場所だったため、思春期過ぎてからはこの行為に恥ずかしさを覚えることもあった。しかし、普通科一年を担任として受け持つようになって半年、胃痛には勝てず、今では慣れてしまった。
それでも、クロードが至近距離にいることは緊張してしまうから、目を閉じる。すると、感覚が研ぎ澄まされ、胃の辺りが治癒されていくのがよくわかった。
(――あたたかい)
ぬるま湯に浸るような、いつまでもたゆたっていたい、そんな心地よさ。
昼間確かに痛んだ胃は、帰宅時には大分良くなっていたけれど、わずかな痛みを訴えていた。
その痛みが緩和されていく。
ほぅ、と吐息を零す。
「ありがとう、クロードさん」
小さく呟いた。
クロードの吐息の気配の後、ふわりと頭に大きな手の重み。それは、ゆっくり、髪を梳くように撫でる。
子どもをあやすような手つきに、ユキは笑ってしまった。
「くすぐったかったか?」
「ううん、なんでもない」
頭にある手を失いたくなくて、首を振らずに返答する。
「……クロードさん、私、がんばる」
決意を秘めた言葉ではない。――もう少しだけ、もう少しだけ、がんばろう。そう限界を先延ばしにしてきただけの言葉。
「がんばれ、ユキ」
それでも、クロードのこの言葉に、いつだって勇気づけられた。
泣きたくなるような、感動とは異なる、心が温かくなる感覚に、ユキは眉尻を下げながらもくしゃりと笑んで見せる。
彼の優しさに、いつだって依存してしまう自分を感じながら、「ありがとう」と心の中で感謝した。
「兄さん、ユキちゃん、十分経ったよ」
そうして、少女の言葉に、ユキの癒しの時間は終わった。
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