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ある脇役の選択  作者: 梅雨子
彼女の知らないエピローグ
27/53

3の(2)

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 夜が明けきらぬ時刻、窓ごしの景色は朝靄によって遠くまで見渡すことはできない。

 窓に歩み寄り空を見上げれば、靄の向こうにわずかな星の輝きと地平へと向かって宵闇色から黄み含んだ光の色へと段々色彩が変わっていく様が見て取れる。

「クロード、そろそろ行こうか」

 いつもと同じ、父の声音。

 しかし窓際に立つクロードが背後の父を見上げると、緊張を孕んだ表情がそこにあった。

 父は、村を出る準備を終え、いまかいまかとこの時を待っていた。

 クロード一家は森の中の小屋に住んでおり、一歩出た夜の森は野獣が多くて危険だからだ。

 父、母、クロードの手には、軽く背負う分の荷物のみ。荷物は家族三人分だが、必要な物は毎度滞在先で購入していたため、食料や水、魔法の本などの最低限の物しか持ち歩いていない。

 クロードはちらりと、馴染み深いテーブルに視線を落とす。

 そこには、『ありがとう』と記されている。

 クロードの世界は紙が存在しているものの、識字率は十割というわけではない。クロードのいる村では、街に出てより稼ぐ若者が多いため、文字などを街で覚えた年老いて働けなくなった者が村に帰ってきた際に文字や算術を教え、それが代々続いたことから収穫物を対価に小さな学び舎で教わることができる。

 だが、クロードが転々としてきた様々な村では、文字が読めないこともおかしなことではなかった。ゆえに、街の看板には文字ではなく、絵でなんの店かわかるよう描かれている。

 そういったことから、紙は街や富裕層にとって必需品なのであって、必要ではない村でまで容易に手に入れることはできない。

 従って、脆く白い石で、テーブルに感謝の気持ちを記したのである。小屋の物は借り物ではあるが、水で簡単に落ちるから、さほど支障はないだろう。

 クロードは睫毛を伏せる。

 ――村が、大好きだった。

 これまで長居したことがなかったから、クロードには友達と呼べる程の存在はいなかった。この村で、生まれて初めてできたのだ。

 そして、穏やかな村人と、長閑な自然が好きだった。

 ずっといたいと思ったのは、初めてのこと。

 ――けれど、両親に事情があるのは幼い彼にもわかっている。

 魔術師と魔法の才を持たない者は公式に結婚ができない。素養を持たない者と恋に落ちた魔術師の多くは、魔術師同士で結婚しながら愛人として恋人を陰に隠す。しかし、父はそうしなかった。父は魔法が使え、母は魔法が使えない。つまり、非合法の夫婦ということ。

 その夫婦が役人に見つかったらどうなるのか、クロードは知らない。捕らえられ引き離されるのか、それとも殺されるのか。

 ゆえに、クロードはいつか離されてしまうかもしれない両親と、瞬く間のわずかな時間でも多く共に在りたかった。

 それでも、しゅん、と寂しくなる。これまで街や村を離れる時、こんなに物悲しく、喪失感を抱くことはなかったのに。

 俯くクロードの頭を、父は優しく撫でた。

「すまない、クロード」

 申し訳なさそうな声に、クロードは慌てて首を横に振る。父を責めたいわけではないから。

「ううん。父さん、母さん、行こう」

 必死に笑みを取り繕って見せたけれど、父の表情は曇ったままだった。




 父が様子を窺いながら、扉を開く。

 少しだけ晴れた靄。

 父は首を回らし、頷く。

「誰もいない。行こうか」

 安堵した表情を見せ、クロードの手を引く。クロードの反対側の手は、母と繋がれていた。

 数歩外に出て、最後に母が扉を静かに閉める。

 そして、十歩ほど森へと進んだ時。

 突然足を止めた父に、クロードは踏鞴たたらを踏んだ。

「父さん?」

「……旦那さん」

 首を傾げるクロード。訝るように父を見つめた母の、クロードの手を握るそれの力が、ぎゅっと強まった。

「母さん?」

 クロードは、なぜか不安に襲われた。

 いつもはふんわりと和やかな両親の、緊迫した空気。喧嘩すらも見た事がない二人の、鬼気迫る表情。

 直後、二人の表情の理由をクロードは知る。


 日の出と共に靄は消え、クロードは己がどのような状況に陥っているのかようやく理解し、瞠目した。

 父と母の首に突きつけられた刃。

 気配は全くなかったが、黒い衣で身を纏った者らに取り囲まれている。人数は目測でも十数人。内一人には、よく見ればサーシャがいた。

 彼女は村に来た時と同じ姿で、嗤う。

 そこでようやく、サーシャが敵だったことをクロードは察した。

 クロードが習いたての魔法を用いたとして、父と一緒にならば現状が打破できるだろうか――と考えたが、気配を感じさせない彼らは明らかに手練だとわかる。

 クロードに刃が宛てられたわけではないのに、冷や汗が背筋を伝った。膝を屈したくなどほどの圧力に、なんとか必死に耐える。

 重たい沈黙を破ったのは、黒い集団の輪を分けて現れた、純白の長衣を着る人物。歳は六十前後の、白が交じる銀の口髭と顎鬚を蓄えた男だった。目尻に皺を刻みながら、理知的な色を覗かせる翠色の瞳。その存在だけで、これまで以上の圧倒的な威圧感を抱かせた。

 上質な衣を靡かせながら、初老の男が口を開く。彼の声は、深く、重みのある澄んだ声だった。

「久しいな、ルシオ」

 その言葉に、父は目を細めて答える。

「お久しぶりです……大神官様」

 父の発言に驚いたクロードは、両親を振り仰いだ後、目の前の初老の男を凝視した。

 大神官はクロードを一瞥し、再び父へと視線を戻す。その男から、父は隙を見つけようとするかのごとく、視線を外すことはない。

「……貴方がいらっしゃるとは、思いませんでした」

「お前達は大罪人ゆえな。それに、次期大神官と謳われた大神官補佐が本気になれば、包囲すら突破できるかもしれん」

 ――大神官補佐 ルシオ。

 それが、クロードの父の正体。

 呼吸も忘れるように驚くクロードを他所に、大神官は次に母へと視線を送った。

「聖女 サラ様もお久しゅう。ご機嫌麗しいようでなによりです」

 口尻を上げた大神官だが、決してその目は笑っていない。

 母は肩を竦めて、困ったように笑む。

「ええ、気分は最悪ですが、体調はすこぶる良いです。大神官様も、お変わりなく。あと、私は聖女ではありません。陛下と婚姻した憶えはなく、ルシオの妻ですから」

 ――聖女 サラ。

 続く母の正体に、クロードは言葉を失うばかりだ。

 確か、と思い起こす。

 ”聖女”とは、皇帝と結婚した異世界から召喚された神子に対し使用される称号。

 と、いうことは、母は皇帝との婚姻を拒み、父と夫婦になったということだ。魔術師と魔法の素養を持たない者ゆえに追われる身になっただけではない。両親は、皇帝に逆らったことにより、罪人になったということ。

 心に広がる不安。拍子に、意図せず両親と繋いだ手をきつく握っていた。

 息子の不安定な心に気づいたのか、両親もクロードと繋ぐ手に力を込める。

 そうして少しだけ心強くなったクロードが思ったのは、”なんとしてでも家族三人で、この危機を突破しなければ”ということ。

 クロードは自身の魔力を発動させようと、集中する。

 しかし父がやんわりと息子の手を引くことで、集中を途切れさせた。咄嗟に見上げたクロードの視線の先には、悲しく笑んで首を振る父の姿。

 クロードは唇を噛みながら、(どうして)と懇願するように父の瞳を見つめた。

 その二人のやりとりを遮ったのは、街娘の格好をしたサーシャだ。

 彼女は軽快な足取りで大神官と父の前に立ち、にんまりと唇に弧を描く。その唇に人差し指をあて、「残念」と言った。表情は歳相応の少女らしいものなのに、その口調は随分大人びている。

 反応したのは両親。眉宇を顰めた険しい顔には、苦味が帯びる。

「ルシオ様とサラ様のご子息に魔法の素養があることは、既にこちらも把握しております」

 サーシャの言葉をついだのは、大神官だった。

「どうして、と言いたげな顔だな。――お前達の居場所を突き止めた段階で、張っていたのだ。お前は知らないだろうが、陛下・宰相・大神官・当事者しか知らない組織があってな。それが、今お前達を取り囲んでいる者らだ」

 そこまで口にすると、大神官の瞳に鋭い光が過ぎる。

「――抵抗はするな。この者らは特別に組織されている。偵察・暗殺を行う裏の功労者であり、魔法の素養は神官を凌ぐ。一人では大神官補佐であるルシオに力及ばなくとも、この人数ならば勝機はある。私もいるからな。それに――村人を犠牲にしたくはないだろう?」

 ぎり、と父が奥歯を鳴らす。そして吐かれたのは、地を這うような声。

「……人質、ということですか。大神官が、とんだ悪役を演じるようになったものですね」

「それを言うならば、敬虔な大神官補佐だったお前が大罪人になるとは、誰もが驚愕したことを伝えておこう」

 張り詰めた空気。わずかにでも動けば、張り巡らされた糸によって血を流すことになりそうな雰囲気。が、それも父の溜息で終わりを告げる。

 父は、母へと顔を向けた。眉尻を下げた、儚い笑み。

 母も、泣くように笑んだ。

「私は、ルシオと――旦那さんと夫婦になったことも、過ごした日々も、クロードを産んだことも、全てが幸せで。後悔したことなんて、一度もないわ。今も、これからも」

 そうして、首につきつけられた刃に怯む事なく、母は上体を傾けて父の肩に頭を委ねた。

 父も母を抱きしめるように、空いた片手で母の亜麻色の髪を撫でる。

「僕も、一度だって後悔したことはないよ。君と出逢ったことも、すべてを捨てたことも、罪を犯したことも。君とクロードと共にいられるなら、幸せなんだ。ありがとう、サラ――僕の奥さん」

 すると、両親は膝を折り、二人でクロードを抱きしめる。両親に刃を向ける黒衣の者らは、二人に反抗の意思がないと知ってか、刃で彼らの首を追うことはなく、背中へと突きつけた。

「……父さん? 母さん?」

 クロードは、なぜか胸苦しいほどの強烈な不安感に囚われる。

「君を愛しているよ、クロード。幸せをありがとう」

「あなたを産めて、私はとても幸せよ。ありがとう、クロード」

 両親の、穏やかで柔らかな声が、まるで別れの言葉のようで。

「父さん、母さん?」

 なぜか迫り上がってくる涙で、声が震える。別れを予感しているかのような涙に、不安が渦巻く。その涙と不安を否定したくて、必死に呑み込んだ。

「村の人達を、巻き込むわけにはいかないからね」

 父の言葉を合図に、両親は再び立ち上がった。

 不安が、おぞましさが、胸にとぐろを巻く。否定したいのに、父の言葉がクロードの嫌な予感こそ近い未来なのだと肯定する。

「ごめんね、クロード」

 両親の、儚い笑み。

 それが、クロードが最後に見た、両親の笑みとなった。



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