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クロードが十歳の誕生日を迎えた日から、父は己の知をすべて教え込むかのように、魔法の実技を中心として指導するようになった。
その時間は、決まって夜。
クロードの世界において魔術師はその数が減少に向かっているため、民間人に魔術師は滅多におらず、才あれば国が保護する決まりとなっている。ゆえに、都会ならば稀に見かけることがあるものの、地方で魔法を見かけることはない。
農業を生業とする村人達は、早寝早起きという生活をしているから、クロードは人目につかない夜に練習せねばならなかった。
家の中は、香ばしく甘い香りが充満する。
母が夕食後の甘味を作っているのだ。
そちらが気になり、調理する母の後ろ姿を横目で見つめるクロードに父が声を掛けた。
「クロード」
顔を向けた少年に、父は水晶玉を手渡す。
「今日は、異世界を覗ける魔法を完璧に扱えるようにしよう」
にっこりと、目尻に皺を刻む。
「うんっ!」
クロードは満面の笑みを浮かべた。
魔法が好きだった。どの学問よりもずっと。
魔法には、傷を癒す魔法から、眠りに誘う音の魔法、果ては人を殺す魔法や一国を滅ぼす破壊の魔法まで、様々なものがある。
クロードは魔法であれば選り好みをすることなく覚えた。
魔法を身につけることで、自分の世界が広がる、そう思った。破壊の魔法は役立つかわからないものの、クロードは父を親としてだけではなく、師として仰いでもいたから、彼が教えるならばきっといつか役立つのだろうと、信じて。
父は、クロードに”優しい魔法”だけ使えるよう生きてほしい、と願っていた。けれど――なぜか、彼は殺めるための魔法までを授けた。悲しそうに目を細めながら。
クロードは、父に悲しい顔をしてほしくなかった。なぜ、そんな表情を浮かべるのかもわからない。それでも、父が望むように、そのすべての魔法を頭に詰め込んだ。
「水晶玉を包み込むように、両手をかざしてごらん」
父の言葉の通り、クロードは行動する。
「次に、見たい異世界の情報を心の中で唱えながら、魔力を注ぐ」
「見たい異世界の、情報……?」
眉尻を下げる少年に、父は頷いた。
「僕の知る異世界の情報は、奥さんの世界だけだから、彼女の世界を覗こうか」
――命数二百七十五、太陽系惑星 地球、国 イギリス。
それが、母の世界の情報。
心の中で父に与えられた情報を唱えれば、それまで部屋の向こう側を逆さまに映していた水晶玉は、異世界を映し始める。
ぼんやりとした映像が、少しずつ鮮明になるにつれて、クロードは頬を染めてはしゃいだ。
「父さんっ! これ、母さんの故郷だよね! ぼくの誕生日の時に見せてくれたっ」
クロードの世界とは異なる世界。
クロードの世界は、飛行機や車、ビルは存在しない。魔法についての学問から哲学までは発達していたが、科学技術についてはどの国もが力を入れることはなかった。”科学技術”は魔法によって補われていたことがその理由の多くを占める。国の中枢にいる魔術師が権力を保ったままでいるためには、それが最適な環境であったから。
ゆえに、これまで”聖女”と呼ばれた女性は数名召喚されてきたが、気象や薬学に詳しい者であった。干ばつ・水害に悩んだ時は気象に詳しい女性、疫病が流行った時は薬学・医学に詳しい女性が召喚条件に組み込まれ、呼ばれたのだ。
父は睫毛を伏せる。
「この魔法はね、召喚した聖女の世界がどんなところだったのか知るためのものなんだ」
悲しそうに瞳を陰らせる父に、クロードは首を傾げる。
「どうして、召喚したのに、知る必要があったの? 聖女さまに訊けばいいんじゃないの?」
息子の問いに、父は一度口を開いたが、再び閉じた。そんな父のかわりに答えたのは、母だ。
「――聖女から得た異世界の情報さえあれば、新たにその世界から召喚できるでしょ? 欲しい知識を持つ女性も、水晶一つで探し出せる。でも、召喚は百年に一人と決まっているから、もし聖女が役立たずだったら、殺して、同じ世界からまた呼べばいいってことじゃないかしら」
内容は殺伐としているのに、母は柔らかに微笑みながら焼きたての菓子をテーブルに置いた。それは、母が得意とする焼菓子で、小麦粉と牛乳、蜂蜜を混ぜてバターで焼いた”パンケーキ”。
「さぁ、パンケーキをつまみながら、水晶で世界旅行しましょう」
母は息子と夫の暗い気分を払拭させるように、唇に弧を描く。少女のように、好奇心に満ちた表情で。
異世界を覗く魔法を完璧に身につけて以来、クロードは度々母の故郷を覗き、それを娯楽とするようになる。
故郷をはじめとし、行ったことのある地球の様々な国を映す水晶玉を眺めながら、母はよく思い出を口にした。
彼女は、故郷で”大学院”という学府で農業に関する勉強をしていたという。
「色々な国に行ったわ。もちろん、勉強でね。アメリカは農地が広大で、飛行機……空飛ぶ鉄の乗り物で、上空から種を撒くの。日本は農地が小さいから、一つ一つを確実に育て上げるために工夫して食物を栽培するの。例えば、川の水の養分を使って」
――得た知識を、貧しい国で役立てるのが、私の夢だった。
そう懐かしそう笑う母に、クロードは口を噤んだ。
いつも楽しそうに笑う母。けれど、彼女は望んでこの世界に来たわけではないのだと、この時初めて悟った。
そして同じ頃――。
父は、クロードが眠りについてからなにかに没頭して研究を始めた。
それを知ったのは、夜中に用を足したくなって目覚めた時のこと。
小屋で暮らしていたため、寝台は一つしかなかった。その一つの寝台で、クロード、母、父の三人で眠っていたが、クロードの目が覚めた時、寝台に父の姿はない。
母を起こさないようそっと起きあがれば、小さな蜜蝋燭の灯火で本を読み、なにかを書き連ねる影があった。
眉間に皺を寄せ、思考を巡らす父は、どこか鬼気迫るものを感じさせた。
その父を見た数日後。
彼は、クロードに禁忌である召喚魔法を教える。
『いつか、君の役に立ちます様に』
慈しむように温かく、切ないほどに祈るような、そんな微笑を浮かべて。父は言ったのだ。
いつも父が口にしたこの言葉。自分の知のすべてを授けようとしたその行動。それらの意味を、身を以って知るのは、それからそう遠くない未来のこと。
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