エピローグ(2)
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退任式も閉幕し、壇上から下りたユキを待っていたのは、レスターとユング、それにリリィだった。
「辞めるんだ」
まるで、逃げるんだ、と。自分が勝ったとでも言うように、嘲笑するレスター。
ユキは優艶に笑みを返した。
「ええ。――本当に欲しかったものが、手に入ったの」
うっとりと、目元を和ます。
予想外の反応だったのか、怪訝そうにしたレスターは、へぇ、と嗤った。
「欲しかったものって、真実の愛、とか言わないですよね?」
その言葉に、ユキはつい、噴出してしまう。――真実の愛、とはなかなかくさい。
(その発想はなかったわ)
もしかしたら、彼こそが求めているのだろうか。
口元を手でおさえ、なんとか笑いを収めて返答する。苛立った風のレスターと、心配そうに二人を見守るユングとリリィが微笑ましくすら感じた。それは、心が満たされているからかもしれない。
「面白いこと言うのね。でも……そうね、言葉にするのは難しいけれど。多分――レスターくん、あなたが欲しくて、でも、まだ手に入っていないものだと思うわ」
見通すような、ユキの双眸。余裕のできた彼女は、弱さを見せない。
挑戦的に口角を上げれば、レスターは奥歯を食いしばって顔を歪めたようだった。それも、咄嗟に俯いたから、はっきりは見えなかったけれど。
そのまま向きを変え、彼は出口へと歩んで行った。
初めからこのように対応していればよかったのかもしれない、と今更悟る。
そうしてレスターの後姿をしばし眺めてから、残る二人の生徒へと視線をやった。
「あの、先生」
おずおずと、少年の声がユキを呼ぶ。”先生”と呼ばれるのも、これが最後だろうか。
そう思えば、心に染み入る。
「なに?」
首を捻る。
すると、リリィに背中を押されて一歩前に出たユングが、視線を逸らしながら言った。
「ごめんなさい」
それがなんのことか、ユキは察した。
先ほど壇上で話した、ユングに言われた言葉に対してだ。
「いいえ」と口にしようとして、止めた。彼はきっとそれでは気がすまないだろう。ならば、素直に受け取ろうと思った。
「どういたしまして」
穏やかに告げる。
ともすれば、顔を上げたユングは、あからさまに安堵の色を見せた。
「結婚、おめでとうございます」
ユングの腕につかまりながら、リリィが身を乗り出す。
ユングが謝ったのは、彼の罪悪感と、リリィの後押しあってのことだろうとユキは思う。凸凹の二人が、うまくかみ合っていていいコンビになっている。
なにやら、ユングの心が丸くなったと感じるが、リリィの影響かもしれない。彼の悩みが少しでも解決に向かっていることが、嬉しかった。
そうして、「ありがとう」と破顔した時――「ユキ」と呼ばれる声がした。
生徒の少なくなった会場の出入り口に立っていたのは、クロードだ。
「あ」とユキは呟く。
「うわぁ……カッコイイ人ですね。……先生の、知り合いですか?」
頬を染めながらクロードを驚きの表情で見つめるリリィに、ユキは頷く。
「婚約者なの」
「えっ!?」
驚愕するリリィとユング。
「邪魔してごめんなさい! じゃあ、わたしたちはこれで!」
慌てるようにユングの腕を引っ張って立ち去ろうとする二人。
ユキは笑ってしまった。
(あの二人が付き合ったら、ユングくんは尻に敷かれそう)
そんなことを想像してしまったから。
「ユキ、行こう」
そう優しく囁いて、差し伸べられた、ユキのものより大きな手。決してごつくはなく、器用そうなそれに、ユキは自分の手を重ねる。
自分だけに向けられた温和な甘い、嫣然とした微笑と、熱を帯びた灰色の瞳に、心拍数が上がる。
慣れることのないそれに頬を少しだけ紅潮させ、ふふ、と忍び笑いを漏らした。
ユキの手を引く温かい手に、幸せを感じながら。
*** *** ***
会場を去っていくクロードとユキの後ろ姿を見守る人影があった。
ジャスパーは、眉尻を下げて、口元を綻ばす。その表情は、どこか曇っているようにも見えるし、喜色を浮かべているようにも見える。
視線は一心にユキへと向けられて。
小さく小さく、誰にも聞こえない声で、独り言。
「あの人の、願いのままになったね。まぁでも、幸せならいいや。ね――異母姉さん」
それは、たった一人になってしまった血縁者への囁き。
伝えなければならない言葉を胸に秘め、ジャスパーは彼が許す、再びの逢瀬の時を待とうと思った。
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