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ある脇役の選択  作者: 梅雨子
ある脇役の選択
19/53

11の(2)

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「――今日の連絡は以上です」

 そう締め括り、ユキは開いていた名簿を閉じる。

 前方になにやら蠢く気配を感じ、顔を上げた。

 そこには、生徒が互いにアイコンタクトを送り合っている様が見て取れる。

 ユキは内心首を傾げつつ、次の時間割を思い浮かべた。

(次は、魔術科で歴史の授業か……)

 思いながら、名簿を手に歩み始めようとした時だった。

「あの、先生っ」

 呼びかけに、視線を向ける。目を瞬いて声の主を探した。

 どうやら、ユキを引きとめたのは、席を立ったリリィらしい。

「どうしたの? リリィさん」

 ユキの問いかけに、リリィは祈るように手を組みながら、発言する。気遣って窺うように、上目でユキを見つめながら。

「今日の授業後、クラスのみんなで遊びに行こうってことになったんです」

「そうなの」

 リリィを中心として団結するクラスに、ユキは頬を緩める。仲が良いのはいいことだ。ユキは学生時代、それなりに楽しい思い出があるけれど、もっとクラス全体で楽しめばよかったという悔いも少しだけあったから。

 目元を和ますユキに安堵の色を見せ、リリィは言葉をつぐ。

「試験後の予定だったんですけど、他の科のイベントを観戦したいコもいたから……。あの……」

 言葉が尻窄みになっていく。続く言葉を躊躇っているらしい。

 物怖じせず発言するいつものリリィを思えば、珍しい。ユキの異変に気づいているからだろうか。どこまで察しているかはわからない。それでも、少なくとも彼女はかつてユキが教室で倒れた際、リリィを呼んだ人物だから、ユキが体調を崩したことを知っている。

 ユキは新しい彼女の一面を眺め、言葉を待った。

 少し俯いたリリィは、視線を彷徨わせた後、ユキを懇願するように見つめた。

「先生も、一緒に行きませんか?」

 生徒からの、初めての誘い。

 驚きに、ユキは目を見開く。

 楽しそうだと、思う。これまで理想としていた関係を、築けるかもしれないと、思う。

 けれど。

 ユキは授業後、教頭に呼ばれている。内容は、受け持つ生徒に関する説教だ。

 自身が生徒ならば、サボったかもしれない。大体の内容は、朝、既に聴いているから。

 しかし、彼女は社会人である。それがどういった内容であれ、上司の意向を反故することはできなかった。

 眉尻を下げて笑む。

「……ごめんね、忙しくて」

 理由は言えないから、そう言い訳するのが精一杯。

 だが、所詮は断り文句の言い訳でしかない。生徒の誘いが甘美で、でもそこに苦味が帯びる。

「先生と、仲よくなるにはいい機会だと思うんだけど」

「そういや先生のこと、なんも知らないって……みんなで話しててさ」

「ね、行こう!?」

 生徒が相次いでリリィの援護をする。

 それが、嬉しい。嬉しいけれど。

 もしかしたら、他の日を提案することも、手だっただろう。しかし、ユキは自分の身体の限界を悟っている。せめて休日に休息をとらねば、持たない。

 今も、キリキリと痛む胃。

 もはや、なにがストレスでなにがそうではないのか――なにが胃痛の原因となるのかもわからなくなっていた。

 嬉しいことも、辛いことも、刺激があれば痛むのだ。それくらいに、弱っている。

 ――生徒とどう接したらいいのか。壁を完全に壊すべきか。さらなる強固な壁をつくるべきか。

 それに揺れ、希望を見出せそうな時、絶望を味わった時の心のぶれこそが、今の心の負担なのかもしれない。

 ――考える時間が欲しかった。

 自分がこれからどうするのか。教師を続けるのか、続けないのか。続けるならば、生徒とどう接していけば良いのか。

 痛みが強くなりつつも、平静を装う。

「ごめん、なさい」

 苦笑を保ったまま答えれば、口々に生徒は愚痴を零し始めた。

「……感じ悪」

「空気読めよ」

 それらに、ユキはなにも返すことができず、睫毛を伏せた。




***   ***   ***




 まだ、彼女以外誰も帰ってきていない家。

 夕日の赤が眩しくてカーテンを閉めたリビングで、ユキは一人、ソファに寝そべっていた。

 なにもする気が起きない。これからの自分のことを考えすぎて、頭がパンクしそうだった。

 ――疲れてしまった。

 だから、授業後、教頭から再び説教されてから、最低限の雑務を終えて帰宅した。

 眠気はない。ただ、疲労を感じるだけ。

(胃が痛いなぁ……)

 思って、膝を抱える。

 ロシェットは学校に残っているのか、まだ帰っていなかった。クロードもまだ仕事中なのか、家にはいない。

 本当に、自分一人。ひとりぼっち。

 ゆえにだらだらできた。

 他人には誰にも見せたことのない姿。孤独は嫌いなのに、今は一人であることが心を解放できる時間になっている不思議。

 ――なんて皮肉だろう。

 何も考えたくなくて、目を瞑る。

 そこには、真っ暗な世界があった。

 ――いっそ、すべて諦めてしまおうか。

 ぼんやり考える。

 どうせ、自分を受け入れてくれる存在なんてどこにもいやしないのだと。

 父も、母も、そうだった。

 今の家族は、誰も本当のユキを知らない。ユキだけが、知っている。ユキは、そう思っているのだ。

 捨てられることが怖くて、我侭や願いはすべて呑み込んできた。そんな生き方が、いつしか心の負担になっていた。自分でも、気がついたのは今年に入ってのことだったけれど。


 不意に、玄関扉の音がした。

 ユキは目をうっすらと開き、体勢を整えようと起き上がる。

(ロシェットかな?)

 リビングの出入り口を眺めていると、現れたのはクロードだった。

「ただいま、ユキ」

 目を丸くするユキに、彼は微笑む。

「おかえりなさい。……今日、早いんだね」

 いつもは、日が沈んでからの帰宅だ。それこそ、ユキの帰りと同じくらい。

 若干の戸惑いを見せれば、クロードはソファに座るユキの前に膝を折った。ユキの視線は、丁度クロードと同じくらい。

 真っ直ぐに見つめてくる瞳から目を逸らしたくて、でもそれはあまりに不自然だろうと、ユキは堪えクロードのそれを見つめ返した。

 ユキの、下ろしているために顔にかかる黒い髪を掻きあげるように、クロードは手を添える。それは、近頃よくするクロードの行動。

 ユキはただ、受け入れた。

「早いんだね、は僕の台詞。ユキ、なにかあった?」

 視線を外すことなく、ユキを見通そうとする灰色の双眸。

 今まで気づいたことはなかったが、灰色の瞳は無彩色であるためか透察するかのような瞳だ。それは、青ならば冷たいイメージで、緑だと優しいイメージで、という色の印象に囚われないからこそ。

 その色が、今のユキには恐ろしかった。

 ――見透かされたくない。

 心が弱った今ならば、ユキにとって知られたくない色々なことを暴かれる気がした。

 ゆえに、睫毛を伏せる、という行動をとってしまう。

 ――しまった、と思いながら、焦りを押し隠した。

「……いつもと、同じだよ」

「ユキ」

 クロードの低い声音は、荒げられたものではない。しかし、言い含めようとする色を帯びていたから、ユキは逃げ場を失った。

 それでも言いたくなくて、唇を噛む。

 頬を包む、クロードの温かい手のひら。吐息のかかるほどに近い、顔の距離。真摯に、見逃すことのないようにと向けられる眼差し。

 言葉を返せず、咄嗟に両腕でクロードを押しのけた。

「放してっ!」

 突然力を後方へと加えられ、クロードは一歩退いたが、それだけだった。

 行動してから気づいた、力任せにクロードを拒絶してしまったという自分の行い。(あ)とユキは動揺に顔を蒼白にさせて、見上げる。

 手は、自然と痛む鳩尾に添えていた。

「違うの」

 迫り上がってきたのは、焦燥。――行動の意味を誤解されたらどうしよう、という焦り。

 自分で考えを纏める前に、ユキは必死に言い募っていた。

「違うの。クロードさんを拒んだんじゃなくて。そうじゃなくてっ」

 頭の中が真っ白になっていく。混乱して、血が急速に巡る感覚に眩暈がする。

「ユキ、落ち着いて」

 クロードの言葉は、ユキに届かなかった。

 彼女はただ俯いて、必死に言った。それはまるで、泣きじゃくる子どものように。

「汚い私を、見てほしくないの」

 声を震わせながら、ユキはクロードの片手をとった。両手で縋るかのごとく握りしめる。

「今まで、いっぱいいっぱい弱いところを見せてきたけど……でも、本当の私は、もっともっと汚いの」

 そうして、ユキは泣くように笑みながら顔を持ち上げた。

「好きな人には、好きになってほしいから。きれいな自分を見てもらえたら、好きになってくれるんじゃないかって、浅ましくも期待してしまうの。汚い自分を見られたら、嫌われてしまうんじゃないかって……怖くて、怖くて怖くて、見られたくないの」

「ユキ」

 哀れむようなクロードの表情。眉尻の下がったそれの、慈悲深さ。囁く声も、いつものように優しい音。

 ――それが、なによりも惨めだった。可哀相だと思わないでほしかった。同情だけで傍にいるのなら、いつかきっと離れていってしまう。

「だから、お願い」

 ――強がらせて。

 続く言葉が、喉に絡まってうまく発音できなかった。


 ユキは一息吐く。

 それで、この会話は終わりだと思った。

 けれど。

「何度言っても、受け入れてくれないなら、何度でも言うよ」

(え)とユキが瞠目してしまったのは、目の前のクロードの微笑が、あまりにも凄絶だったから。一目で心奪われるほどの迫力と美しさ。きれい、という表現では物足りない、薄ら寒さすら覚えるほどのそれ。

 言葉を失っていると、クロードは続けた。

「僕は――僕だけ・・・は、なにがあろうとユキの味方だ。汚くてもきれいでも、ユキはユキだよ。ずっと傍にいる。絶対に、放さない」

 そう言って、握られた手を解き、放心気味のユキを抱きしめる。

 抱擁によって覚醒したユキは、脊髄反射のように反駁した。

 それはきっと、自己防衛だったのだろう。すべてを受け入れられたと思い、身を委ねてしまったら最後、ユキは完全に彼に依存してしまう。

 離れていかないでほしいけれど、偽りでユキの領域に踏み込むならば、牽制しなければ。そうしなければ、失ってしまった時、ユキはもう生きていけない。

 ――もし。もし、それでも受け入れてくれたならば。

 そんな風に、愚かにも少しだけ夢みて。

「……日本で、お父さんに、捨てられた私でも?」

「ああ」

 涙が、滲みはじめた。視界がぼやけ、ゆらゆらと揺れる。

「お母さんは、私を嫌いになったの」

「僕は好きだよ」

「でも……でもね、私も、お母さんを捨ててしまった……!」

 途端、涙が幾筋もユキの頬を伝った。

 懺悔するように、言い訳するように言葉を連ねる。

「お母さんは、私よりも恋人を大切にしたっ。私なんかいらないって! 私のことを、愛人を作っていなくなったお父さんに似ているって……どうして産んだんだろうって! いつも言ってた。……辛かった。毎日ご飯作って、お母さんの帰りを待って。でも、食べてくれたことは一度もなかった。捨てる時に、本当は、いつも泣いてた。一緒にご飯を食べるのが夢だったの。嫌われてたけど、もっと嫌われたくなくて、我侭も言わなかったつもりだったけど……いつも、私を見るお母さんの目は憎しみに染まってた」

 ユキを慰めるように、クロードは頭を撫でる。

 それが、心に沁みた。血が流れる傷ついた幹部を水洗いする時のように、痛くて仕方がなかった。

 涙が、止まらない。しゃくりあげる自分が、子どものようだと思った。

「いつも、お母さんの目から逃げ出したかった。お母さんのこと、好きじゃなくなる自分も嫌いだった。……お母さんには、恋人のことしか見えていないって、知ってたの。私は――そんなお母さんを」

 ユキの歪められていた表情が一変し、人形のように無表情になる。

「嗤ってたの。恋に狂った愚かな女だって。心の中では、滑稽に思ってたの」

 そうして、彼女は遠くを見つめながら淡々と話す。そうしなければ、心があの頃に戻ってしまい、言葉にすることもかなわなくなる。狂ったように泣き叫ぶばかりになってしまう。

 ――引いただろうか。

 そう思いながら、頭を撫で続けるクロードの手に安堵する自分がいた。つい、自嘲したくなった。

「でも、お母さんは、お父さんがいなくなって、しばらくは私を大切にしてくれた。貧乏でも、二人で笑って。夜遅くまで、総菜屋で働いて、がんばってくれた。私は――なにも返せなかった。お母さんにばかり負担させてしまった。お母さんが求めるものを、きっと私はなに一つ返していなかった。だから、捨てられたんだと、思う」

 目を瞑る。

 幸せだった頃の記憶は、最早ぼんやりとした霞の向こう側。それでも、確かにそこに幸せはあったのだ。雲を掴むように、いまでは手の届かないものになってしまったけれど。

 クロードの肩に頭を委ねる。

 拍子に、彼の匂いがした。

 嫌な匂いではない、自分とは違う匂いに、心が安らぐ。

「私は、みんなに求められたかったの。だから、みんなに取り入ろうと思ってたの。ご飯の当番をやりたがったのも、就職先を国立学院に決めたのも……なにかを返せなければ、また捨てられてしまうから」

「ユキ、僕は、捨てない」

 その言葉に満足したように、ユキは面を上げ、姿勢を正す。

 正面から、クロードを見据えた。

「……この世界に来る直前、私の家は火事になったの。私は、逃げてから、お母さんが家の中にいるかもしれないって気づいた。でも――救急車も、消防車も、人も、呼ぶことをしなかった。そして、気がついたらこの世界にいた。だから、もしあの時、お母さんがまだ家の中にいたとしたら――お母さんはきっと、助かっていない。誰かを呼んでいたら、私がこっちに来たとしても、助かっていたかもしれないのに。私は、たった一人の家族を、見捨ててしまった。――養子縁組を拒んだのは、お母さんとの唯一の繋がりとなった名字や名前を捨てることで、本当に自分がお母さんを捨てたんだって、自覚したくなかったから」

 はらりと、止まりかけていた涙が一筋、ユキの頬を伝う。

 クロードを見ているようで、焦点の合っていない焦げ茶の瞳。けれど、一度目を閉じ――再び開けられたそれは、クロードの心に少しでも拒絶が宿ったのか見定めようとするものだった。

 クロードは目を細める。

 困惑したように眉根を寄せるユキに、笑って見せた。

「がんばったね、ユキ」

 次いで、右手の親指で頬に残った涙の線を拭う。

 他方、呆気にとられたのはユキだった。彼女にどこまで見極める力があるか謎だが、彼女が見るに、クロードの瞳の奥に嫌悪といった感情は感じられなかった。不思議と、哀れみや同情すら。

 ただ、「お疲れ様」と言わんばかりに、穏やかに彼は笑んでいた。

「ユキ――もう、がんばらなくていいよ」

 その、たった一言に。

 ユキは目を見開いた。言葉が、なにも出てこない。

「僕は、ユキが将来の夢を決めた時、言ったね。『ユキが決めた道なら、応援するよ』って」

 こくりと頷くユキに、クロードは続けた。

「それはね、君が教師ではなくても、君が決めた道なら応援するって意味だったんだ」

 途端、ユキは顔を歪め、再び涙を零す。

 それでも、おどけるように、なんとか笑って見せる。

「……そんなこと言われたら、私、堕ちちゃうよ」

 ――クロードさんに。

 続く言葉は、呑み込む。

 こんなに甘い言葉を――ずっと欲しかった言葉を囁かれて、どうして堕ちずにいられよう。受け入れてくれただけで、ユキは簡単に堕ちそうだというのに。

 ユキにとって、ブレーキをかけるための発言だった。

 しかし、クロードはユキを再度抱きしめ、耳元で囁く。

「堕ちるなら、一緒に堕ちるよ」


 この時の、クロードが浮かべた笑みを、ユキが見る事はなかった。性別が女であったなら、傾国の微笑とも呼ぶべき、策士的で凄艶な微笑を。



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