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早朝、職員室では、三人の教師が教頭の机前に並ぶ。
面々は揃って顔色が悪く、どこかやつれていた。
「ヴァルト先生・ベル先生・ブルック先生、おたくの……」
名前が連ねられたのは、いつもの三人。彼らを助けようと、フォローに入る者はない。
話は、既に耳にタコができるのではないかと思うほどに、お馴染みの内容。それぞれ担任を受け持つクラスの、定番メンバーに関するトラブルについてだ。
ユキは、毎回主にリリィやユングについて注意を受ける。
ユキ自身、ユングが家庭の悩みを抱えていること、リリィは人の気持ちの機微を察する能力に長け、かつ人情に厚い性格からトラブルに巻き込まれやすいことは熟知していた。
しかし、ユキは教頭の発言に対し、生徒のフォローをすることはない。
――「ちゃんと躾てください」
――「いつもの問題児」
そう責めたてられ、悔しくても口を噤む。思えば、かつての自分も彼らをそう捉えていた。なにも知らずに。
それでも、教師側と生徒側では、視点が違う。教師側は、生徒が従順で学力が高いことを望む。もちろん、従順といっても、校則を反しない程度の自由は認められているし、限定的ななにかを強制することもない。
一方で、生徒側は、なにを望むのだろうか。
ユキ自身、それなりに学生時代を謳歌してきたつもりだが、所詮は”いい子ちゃん”と呼ばれるレベルのものだ。隠れて法や規則にひっかからない”悪いこと”をしたことも、ひっかかることもしたことはない。ゆえに、彼らの気持ちがわからない。
けれど――愛情に飢えている生徒の存在を肌で感じてきた。
溜息を呑み込み、睫毛を伏せる。
リリィとユングを守りたくとも、その力が自分にはなかった。権力も、武器になりうるフォローの言葉さえ。言葉が、見つからないのだ。
生徒にどんな事情があろうと、規則内でなければ学校側はそれなりの対応をせねばならない。そうでなければ、規則を守っている生徒はどうなるのか。例外を許せば、規則は意味を失い、風紀は乱れる。
それを、理解していた。
だから、ヴァルトもベルも、三人揃って反駁はしなかった。
教師は、例えるなら森を見なければならないし、木も見なければならない。それを、三人が怠ったという結果は確かなのだから。
やがて、教頭が額を手でおさえながら、溜息を吐く。
「職員会議が始まりますし、続きは授業後に」
そういって、ぞんざいに手を振り、解散の意を示した。
(……授業後、か)
項垂れながら、自分の席へ戻る。
ユキが椅子に座ると、隣席の教師が苦笑を零していた。こそこそと声を潜める。
「お疲れ様、ブルック先生」
「ありがとうございます」
同じ笑みで返したユキに、その教師は眉根を寄せた。
「先生……顔色が悪いですよ? 大丈夫ですか?」
目聡く指摘したその人は、心配そうに顔を歪めた。
ユキは自覚しながら心配かけまいと、きょとん、と小首を傾げて見せる。
「そうですか? 元気ですよ」
微笑めば、教師は安堵したようだった。
その教師の視線が逸れた後で。ユキは表情を変えず、そっと鳩尾に手をあてる。
(また……か)
もう、ここ最近胃痛は治っては痛くなりを繰り返し、その頻度は高くなっている。
一度罹ると再発しやすい病気があるが、それと同じようにユキの心への負担も耐性がつくのではなく、完治した筈が何度も繰り返すようになったらしい。
目の前に迫った限界に、苦く笑う。
(……まぁ、必要とされていないしね)
――生徒たちに。
手元にあるファイルに視線を落とす。
それは、普通科一年を受け持った際、生徒の名前を憶えようと夜なべして作ったファイル。顔の特徴と名前、自己紹介してもらった時にきいた趣味や特技について書かれている。
そして他にも、資料が挟まる。この書類は、最近になって用意したもの。
教師同士の情報網によって手に入れ調べた、生徒一人一人の家庭事情。
これによれば、リリィはカウンセリングを主にする医療魔術師を父に持つ娘。心を病んだ人を多く見てきた彼女は、感情の機微に聡くなった。おせっかいなところが災いし、踏み込み過ぎるところが玉に瑕だが。
また、ユングは伝統芸能一族の担い手とされ、例えば歌舞伎でいう梨園のような世界があるらしい。ゆえに、婚姻等は一族の理解がなければ難しく、ユング自身に将来の夢が他にあったとして、担い手がいなければ彼が強制的に継ぐことにも成り得る。今、彼は葛藤し、反発している時期なのだろう。
――そこまで調べたけれど。
結局、ユキには踏み込む勇気を持ち得ていなかった。ユングの悩みを分かち合うことができなかった。
もしかしたら――もしかしなくとも、きっと。表面化していないだけで、悩みを抱える生徒はたくさんいただろう。
――だが、なにもしてこなかった。
指の腹で、ファイルをなぞる。役に立てようと――生徒の役に立とうと、思っていた。
でも、物事は簡単ではない。
ユングに関しては、一族の意向とユングの心の問題がある。そこに、部外者であるユキが踏み込むことは、せめて彼の家族かユングの許可が必要だ。
『あなたには関係ない』
その一言で、ユキは介入が許されなくなるのだから。
従って、ユキが達した結論は、自分にできることは”相談にいつでも乗れる”と信号を送り、窓口を開くことだけだった。
――それも、今更ではあるが。
ユキの生徒はユングやリリィだけではない。他の、数十人という生徒のことを考えなければならなかった。マクロとミクロの視点、そして目立つ生徒ばかりを相手にすることは、贔屓でしかないという現実。
(……私には、きっと担いきれない)
生徒からの信頼もその家族からの信用もない。キャリアもない。……実力すらも。
不意に、ダントンの言葉が頭の中で木霊する。
『問題を回避したいと思うならば、心も身体も許さない。――それが、前提です』
――あと少し。
あと少しで、ユキは生徒に対して求めることを、諦められる気がした。
*** *** ***
ホームルームのため、教室へ向かう。
チャイムの時間が間近であるから、廊下に生徒はちらほらしかいなかった。
教室から漏れる喧騒の中、「先生」と声を掛けられる。
ユキは歩みを止め、背後を顧みた。
「ジャスパーくん」
目を瞬くのは、二年である彼が一年の教室がある廊下にいることを不思議に思ったから。
用があったのだろうか。
「どうしたの?」
問えば、彼はなにか言おうと口を開く。だがそれは、再び閉じられた。その目は、なにかを訴えながら。
「……ジャスパー、くん?」
名を呼ぶ。
彼は、いつだってユキの知らないことを知っていた。そして今この時も、ユキに話していないなにかを知っているのだろう。
ジャスパーがなにを言いかけたのか。
ユキが訝っていると、彼はくしゃりと顔を歪め、微笑んだ。
いつもは、目を三日月型に歪め、どこか余裕を漂わせる彼が見せた、その微笑。泣くのを堪えているような、それでも笑む矛盾。
ユキは理由がわからなくて、呆然と佇む。
「いえ、なんでもありません」
「なんでもないようには、見えない」
首を振る少年が気がかりだった。直感でしかないけれど、彼はなにかを伝えようとユキに会いに来た筈だ。そう確信していた。
ジャスパーは目を細める。
「……先生に、ずっと逢いたかったんです」
「どうして? 会った事、あったかな?」
「いいえ。でも――逢って、伝えなければならないことが、あったんです」
「伝えなければ、ならないこと?」
眉を顰めるユキをよそに、ジャスパーはくるりと踵を返した。
「……今はまだ、言えないんですけど。必ず、伝えます」
途中で脚を止め、彼は上体だけで振り返る。
「たまに、先生の顔が見たくなるんです。今日は、そんな日だったので。それでは」
軽く頭を下げ、今度こそ彼は去っていった。
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