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ある脇役の選択  作者: 梅雨子
ある脇役の選択
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 変わらぬ日常が続いた。

 一日一日は瞬く間に過ぎ、胃を痛めた日は多少あれど、それはクロードに癒してもらうことで翌日を無事迎える。

 思えば、中間試験間近ということもあっての平穏だったのだろう。平均点が悪ければ追試となり、それにも合格できなければ落第という可能性もあるのだ。

 その平穏な日々を、ユキは安穏と過ごしていた。


 だが、やがて中間試験当日をむかえ、三日間のそれも終了する。




 試験最終日、生徒のいない廊下を歩く。手には弁当を持って。

 普通科の生徒は午前の試験を終えれば、帰宅が許される。他方で、騎士科や魔術科は対戦・演舞といった実技試験の日程が組まれている。

 ゆえに、騎士科・魔術科に目当ての人物がいる生徒や娯楽として観戦する生徒は、昼食をとってから闘技場へ向かう。

 一年から三年の騎士科・魔術科の全生徒が年に三度集まる場所だけあって、闘技場は広い。実技試験が終わった者やこれから控える者のために、観戦席も設けられていた。

 しかし、教師であるユキには、昼食後、試験の採点が待っている。一度くらいは観戦してみたい、と思いはするがそこは仕事優先だ。今年も諦めるしかあるまい。

 採点は慣れるまで時間のかかる作業である。試験に時間制限がある分、早く回答しようと生徒達は文字の美醜問わず回答するため、汚い答案も数多い。なので、文字の判別に時間をとられることもある。

 そんなことから、平時の時間割りの方が、講義担当の教師からすれば楽な作業であった。

(騎士科と魔術科の先生は忙しいだろうし、ダントン先生も今日は忙しいだろうな)

 いつも保健室でダントン・ヴァルト・ベルの三人と共にご飯を食べているが、今日は誰もいないかもしれない。講義担当のヴァルトとベルも、今日は午後の準備に駆り出されるだろう。さらにダントンも、怪我人に備えている筈だ。

 大体予想しながら、それでも保健室への道のりを歩む。

 ちなみに、悩みや愚痴がない日も昼に保健室へ向かうのは、四人で過ごす時間が好きだから。

 ヴァルト・ベルに対しては同士のように思っているし、ダントンの、ユキらの悩みを見通している様が、心地よさを生み出している。それはきっと、ヴァルトやベルも同じ気持ちなのだろうと、ユキは思う。いつも、ユキ同様に二人も保健室へ集まるから。


 いつもの、資料室が並ぶ廊下。片側には裏庭と接する窓。

 太陽は真上にあるのか、日は差すことなく廊下はどこまでも陰っていた。

「センセ、こんにちは」

 不意に、後ろから声をかけられる。

 ユキは歩を止めた。聞き憶えのある声に、嫌な予感しかしない。

 華のあるテノールは、いつもどこか嘲笑まじり。

 恐る恐る振り返りながら、溜息を呑み込んだ。

 一歩一歩、距離を縮める人物はやはり、レスターその人だった。

 騎士科の生徒ならば、午後の対戦に備えて闘技場で今か今かと心の準備をしているだろうに、彼はそんなことどうでもいいとばかりに、やはり飄々としていた。

 彼は腰を屈め、視線をユキの高さにあわせて口角を上げる。

「センセ、返事は? 教師でしょ?」

 揶揄含むそれに、ユキはたじろぎながら苦虫を噛み潰した。

「こんにちは、レスター君」

 彼は、わざとらしく両眉を上げた。

「へぇ、俺の名前、知ってるんだ。誰かから訊いたんですか? センセはヴァルトセンセとも仲良さ気だし、その辺?」

(あー、もう)

 前髪をくしゃくしゃと掻きむしりたくなる。そんな気分だ。

 そもそも、ヴァルトからその情報を得たわけではないが、そうだったとしてなんだというのか。

 胃がただでも弱っているユキは、疼く患部に顔を歪めた。

「……なにか用?」

 低い声で問えば、レスターはさらに笑みを深めた。それは、面白がっているようにも、試しているようにも見える。

 ――なにを? それはわからない。

「今日は強気なんですね。前回はビクビクしてたのに」

 顎をひき、小馬鹿にするように半目でユキを見下ろすレスター。表情を消した彼だが、瞳の奥にはなにかしらの意図が感じられる。

 刹那、ユキは腕をとられ、抗おうと力を込めれば壁に追い込まれた。

 まるで合気道のように、自身の力をさほど使わず、ユキの力を利用しての華麗な身のこなし。さすがは騎士科の生徒というところだ。

 しかし、ユキにとっては感心している場合ではなかった。

 ドン、と壁にぶつかり鈍く痛む背中は、硬い感触が服越しに伝わる。

 ――今度は、前回のような轍を踏まない。

 気持ちを引き締め、睨めつけた。

 ユキを上から見下すその様。意図はどこにあるのか。

 見極めようと目を眇める。

 レスターは反応を楽しむように、首を傾げた。

「――どこまで知ってるんですか?」

「……あなたの噂を、少しだけ」

「注意しないんですか? ああ、俺に前回のことを言いふらされると困るから」

 くすくすと肩を揺らして、笑声を漏らす。

 そんなレスターに、ユキは彼のなにかに触れた気がした。

(……多分、彼は大人や恋愛感情に疑念を抱いている)

 そう感じたのは、彼の”別れさせ屋”という行動、それにユキへの発言。ユキを嘲笑っているようで、その実、注意してほしそうな言動。

 ふと、彼の家庭事情を知らないと思った。教科を受け持っていない学年の生徒だ。知らなくても不思議はない。

 けれど、彼の不信はどこから生まれ、どこに辿り着いたのか。

 その、瞳の奥に隠されているものがそこにある気がした。

 ――誰かが、そこに踏み込むことも、必要な時があるのだろう。

 しかし――今のユキに、そこまでの心の余裕があるかといえば難しい。精神と胃が、ぎりぎりのところにあるのだ。

 それでも、チャンスはこれが最後のような気がした。それは、レスターに限定せず、生徒に歩み寄るチャンス。

 ゆえに、視線を逸らさずにいたが――突如それは遮られる。


 ユキを押さえ込んでいたレスターの身体が、大きく傾いだ。

 彼はうまく体勢を整え、力を加えた人物へと対峙する。

「……ユングくん」

 ユキは目を丸くして、現れた少年の名を呟く。

 すると、ユングは掴んでいたレスターの腕を放した。

 ユキに駆け寄ってくるのは、ユングと共にいたリリィ。

「先生、大丈夫ですか?」

「ええ」

 労わる言葉に、ユキは眉尻を下げて笑んだ。

「でも、手首が赤くなってます」

 ユキの手をとり、手首の痕にそっと触れるリリィは、直後眦を吊り上げてレスターを見上げた。

「またあなたですか! 前も恋人を別れるように仕向けて! 今回は先生に乱暴!? そういう、人に迷惑をかけることはやめてくださいって言いましたよね!? 先輩後輩関係ありません。はっきりと言わせてもらいます。――女性を敵視することをやめろと言う権利は、私にはありません。それは、先輩の心の問題です。でも、だからといって女の子を傷つけていいわけじゃない」

 ユキは瞠目する。

 ――彼女は、リリィは、レスターの心に触れた。

 レスターへと視線をやれば、彼も驚いたという表情を浮かべている。どうやら彼は、大人や男ではなく、女というものに不信感を抱いていると見抜いたリリィに驚愕したのだろう。

 ユキ自身、彼がなにをそこまで蔑み、拒絶しているのかはわからなかった。大人や恋愛感情と推測したくらいだ。

(リリィさんは……人の心を見抜く力がある)

 それは、人の心を救うことも、できる可能性を有す。素晴らしい力。

 尊敬と羨望に、口元を綻ばせる。

 そんなユキを、レスターが呼ぶ。

「センセ」

「え?」と振り仰いだユキに、彼は告げた。

「あんた、立場が逆じゃない? 生徒に助けられて……センセって、なんのためにいるの?」

 ヒュッと、ユキの呼吸が一瞬止まった。

 極限まで見開かれた目。動揺に、口元を手でおさえた。

 今まで気づかなかったが、手にはじんわりと汗が滲んでいた。

「ひどいっ」

 嗤うレスターに、怒りを露わにしたリリィ。

 気遣わしげに「先生」と呼んだ、ユングの声。


 ――最後の、砦だった。

 必要とされていないと、言葉にされるまではしがみつこうと。

 限界を迎えても、クロードに治癒を願い、『がんばれ』をもらっていたのは、決定打がなかったから。

 ユキは、自分を嫌い、人から必要とされなくなることに怯えていた。

 必要とされることを望み――けれど、一方で自分に甘かった。

 ゆえに、他人のことを考えず自分のためだけに、教師であることにしがみついていたのだ。


 それを、輪郭のはっきりとした形として、実感した。言葉にされて、今更。

 これまで曖昧だったからこそ、見て見ぬふりをしてきたのに。

 思わず自嘲していた。

 ――あまりにも、自分が愚かしく感じた。

(ごめんね)

 誰に謝っているのかも、定かではなく。

 もしかしたら、今まで迷惑をかけた同僚に。もしかしたら、いつもユキを支えてくれたクロードやロシェットに。もしかしたら――接してきた、生徒達に。

 涙は、出ない。

 以前に涙を流したのは、クロードとロシェットの前でだけ。その二人にしか、涙を見せることは決して許していないから。

 でも――ユキの本音は、まだ誰にも秘されている。

「……先、生?」

 ピタリと嗤い止んだユキを、ユングが呼ぶ。

 俯いていたユキは、顔を上げた。

 怪訝そうに様子を窺う生徒たち三人。まるで不気味なものを見るような眼差し。

 それはそうだろうと、ユキは納得した。馬鹿にされて、嗤っていたのだ。反応としてはおかしいかもしれない。

 自覚しながら、ユキは微笑した。

「うん、ごめんね」

 囁けば、三人の生徒は眉間の皺を深める。

 心配そうに困惑しているのは、リリィだった。人の心を察する能力に長ける彼女は、違和感に気づいたのかもしれない。

 生徒達を、まるで別次元から眺めるように見やりながら、ユキはただ微笑んだ。

 ――もう、駄目かもしれない。

 どこか唐突に、そう、思った。



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