8
.
この世界で二番目の記憶は――ベッドの上で、目を覚ました時のこと。
なぜか、その時の記憶はひどく曖昧な形でユキの中に眠る。
それでも、確かに憶えていることもあった。
まだ十二歳の、戸惑うユキの手を握り、微笑んでくれたのは養父母だった。
「こんにちは。言葉はわかる?」
ずっと日本で暮らしていたユキにとって珍しい、紫の瞳をした目がおっとりと細められた。その瞳の持ち主は、淡い色味の髪を後ろへと撫でつけた、西洋人風の中年男性。知らない人だ。
枕に頭を沈めながら、ユキはこくりと小さく頷いた。枕のふかふかとした心地と、太陽の匂いを今でも憶えている。
「庭に倒れていたから、家の中に運んだの。詳しくは後で話すけれど、まずは元気になりましょうね」
ユキの肩から落ちかけていた布団を掛けなおし、銀の癖毛を揺らして中年女性は笑みを浮かべた。そっと手の甲でユキの頬を撫でる手は、とても温かかった。
幼い、女性と髪色が同じ幼女が、ユキの頭を撫でる。笑うことのない幼女だったが、その小さな手でユキを慰めようとしていることはわかった。
「ロシェット、お姉さん今は疲れているから、ゆっくりさせてあげよう?」
(……この声)
――家が炎に包まれて。臓器が引っ張られる感覚がして。雪の中に寝転がって。そして。
その時に聞いた、心の蟠りがすべて溶けてしまいそうな、そんな声。
視界に入った、穏やかに表情を緩める少年。幼女と同じように、ユキの頭を慈しむように撫でた。
――ひどく、記憶が曖昧で。
――時系列がはっきりしなくて。
凄絶に、一瞬時も忘れるほど魅惑的な、嬉しそうな笑みを、見た。それは、この時か。それともこれより前か、後か。はたまた夢なのか。
それすら判然としないまま。
けれど、いつまでも心の片隅に残り続ける。
 
*** *** ***
 
リビングに朝日が差し込む。
ばたばたと慌しい朝であるが、準備が終われば家を出る時間までのんびりできる。
従って、クロード・ユキ・ロシェットは各々の時間を過ごしていた。
クロードはソファに座り、新聞を広げている。
皆での朝食を終え、後片付けも済んだユキは、彼にそろそろと近づいた。
やましいことがあるわけではないのに、緊張が孕む。それは、甘えている自分を自覚しているがゆえの恥ずかしさからである。
背後から忍び寄ったにも拘わらず、「どうした?」とクロードは首を回らす。
上目遣いの灰色の瞳にとらえられ、ユキは視線を彷徨わせながら静々とクロードの前に畏まった。
現在進行形で目を泳がせ、やがて上目で見上げる。
今は、随分クロードの視点よりも低い位置にユキの頭があるため、彼は新聞を折りたたんで見下ろしていた。
「あの、ね」
「うん?」
首を傾げるクロード。
ユキは内心願う。
――どうか、今日が乗り切れるように。
「あの、『がんばれ』って、言ってほしいの」
――がんばるために、必要な言葉。
ユキ自身、限界に達していると察している。
でも、教師を辞めることができないのだ。
きっかけが、ないから。
『あんたなんかいらない』と、まだ、言われていない。
だから、縋ってしまう。まだ、生徒と相互理解できるのではないかと。がんばれるのではないかと。そうしている内に、歩み寄る勇気が――生まれるのではないかと。
欲しい言葉を幾度となく貰いながら、限界を先延ばしにしてきた。
それは、ユキが家族の生活費の足しを必要としたからだし、また教師として生徒の役に立ちたいと思ったから。
(がんばれ、私)
自分で自分に声援を送る。
すると、温かい手のひらが両頬を包んだ。その力によって、ユキの顔は上向く。
視線の先には、クロードの顔が間近にあった。
ユキは驚きに目を瞠る。
そんな彼女の視界に入ってきた灰色の瞳は、いつもより深い色味を帯びていた。
彼は、相好を和らげ、言葉を紡ぐ。
「がんばれ、ユキ」
いつもは感じない艶冶な響き。
ユキはどう反応したらいいのかわからなかった。
「……う、ん」
戸惑いながら、喉の奥で詰まる言葉をなんとか吐き出した。
 
その二人のやりとりを、窓辺から紫の瞳の少女が横目で見つめる。
彼女、ロシェットはクロードの視線が向けられる前に、窓へと向き直り、サッとカーテンを引いた。
――兄に、問いたい疑問がある。
それは、ユキがいる前では決して訊けないこと。なにかもはっきりと掴めていないこと。
――けれど、きっと。多分。大切なこと。
それを言葉にするための、胸の内にある違和感は、まだ曖昧な形のまま。
 
*** *** ***
 
通学路は、国立学院高等部の制服を着た学生で溢れる。
珍しく、ロシェットと登校したユキは、いつもより心強く感じた。
気遣わしげな、そっとユキの様子を窺うロシェットの視線。八つほど離れている少女にまで心配させているのだと、苦笑を零してしまった。
脇に街路樹の並ぶ、石畳の通学路。並木を抜ければ、すぐ校門だ。
「先生、おはようございます」
駆け抜けざまに、生徒が挨拶する。
「おはようっ!」
走る後ろ姿へ聞こえるようにと、慌てて返事した。
そうして、嬉しそうに頬を緩めるユキに、ロシェットは安堵の息を吐く。
(大丈夫。まだ、私は大丈夫)
自分に暗示をかける様に、心内で唱えた。
 
(がんばれ、私)
それは既に、呪い言葉となっている。
ホームルームの教卓前で、視線を集めることにすら汗が滲む。
いつからか、視線を恐れるようになっていた。
もともと、ユキは人前に立つことが得意ではなかった。目立つことも苦手だったから、学生時代、生徒会や学級委員長に立候補することもない。
生徒同士がこそこそと耳打ちすれば、もしや自分のことを言われているのではないか、と心が反応する。
――以前にも増して、随分臆病になったものだ、と自嘲した。
人間不信もここまでくれば、そのうち生活に支障も出よう。
他人事のように思いながら、出席簿を広げ、生徒の名を呼んだ。
.
 




