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ある脇役の選択  作者: 梅雨子
ある脇役の選択
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 この世界で二番目の記憶は――ベッドの上で、目を覚ました時のこと。

 なぜか、その時の記憶はひどく曖昧な形でユキの中に眠る。

 それでも、確かに憶えていることもあった。


 まだ十二歳の、戸惑うユキの手を握り、微笑んでくれたのは養父母だった。

「こんにちは。言葉はわかる?」

 ずっと日本で暮らしていたユキにとって珍しい、紫の瞳をした目がおっとりと細められた。その瞳の持ち主は、淡い色味の髪を後ろへと撫でつけた、西洋人風の中年男性。知らない人だ。

 枕に頭を沈めながら、ユキはこくりと小さく頷いた。枕のふかふかとした心地と、太陽の匂いを今でも憶えている。

「庭に倒れていたから、家の中に運んだの。詳しくは後で話すけれど、まずは元気になりましょうね」

 ユキの肩から落ちかけていた布団を掛けなおし、銀の癖毛を揺らして中年女性は笑みを浮かべた。そっと手の甲でユキの頬を撫でる手は、とても温かかった。

 幼い、女性と髪色が同じ幼女が、ユキの頭を撫でる。笑うことのない幼女だったが、その小さな手でユキを慰めようとしていることはわかった。

「ロシェット、お姉さん今は疲れているから、ゆっくりさせてあげよう?」

(……この声)

 ――家が炎に包まれて。臓器が引っ張られる感覚がして。雪の中に寝転がって。そして。

 その時に聞いた、心の蟠りがすべて溶けてしまいそうな、そんな声。

 視界に入った、穏やかに表情を緩める少年。幼女と同じように、ユキの頭を慈しむように撫でた。


 ――ひどく、記憶が曖昧で。

 ――時系列がはっきりしなくて。


 凄絶に、一瞬時も忘れるほど魅惑的な、嬉しそうな笑みを、見た。それは、この時か。それともこれより前か、後か。はたまた夢なのか。

 それすら判然としないまま。

 けれど、いつまでも心の片隅に残り続ける。




***   ***   ***




 リビングに朝日が差し込む。

 ばたばたと慌しい朝であるが、準備が終われば家を出る時間までのんびりできる。

 従って、クロード・ユキ・ロシェットは各々の時間を過ごしていた。

 クロードはソファに座り、新聞を広げている。

 皆での朝食を終え、後片付けも済んだユキは、彼にそろそろと近づいた。

 やましいことがあるわけではないのに、緊張が孕む。それは、甘えている自分を自覚しているがゆえの恥ずかしさからである。

 背後から忍び寄ったにも拘わらず、「どうした?」とクロードは首を回らす。

 上目遣いの灰色の瞳にとらえられ、ユキは視線を彷徨わせながら静々とクロードの前に畏まった。

 現在進行形で目を泳がせ、やがて上目で見上げる。

 今は、随分クロードの視点よりも低い位置にユキの頭があるため、彼は新聞を折りたたんで見下ろしていた。

「あの、ね」

「うん?」

 首を傾げるクロード。

 ユキは内心願う。

 ――どうか、今日が乗り切れるように。

「あの、『がんばれ』って、言ってほしいの」

 ――がんばるために、必要な言葉。

 ユキ自身、限界に達していると察している。

 でも、教師を辞めることができないのだ。

 きっかけが、ないから。

『あんたなんかいらない』と、まだ、言われていない。

 だから、縋ってしまう。まだ、生徒と相互理解できるのではないかと。がんばれるのではないかと。そうしている内に、歩み寄る勇気が――生まれるのではないかと。

 欲しい言葉を幾度となく貰いながら、限界を先延ばしにしてきた。

 それは、ユキが家族の生活費の足しを必要としたからだし、また教師として生徒の役に立ちたいと思ったから。

(がんばれ、私)

 自分で自分に声援を送る。

 すると、温かい手のひらが両頬を包んだ。その力によって、ユキの顔は上向く。

 視線の先には、クロードの顔が間近にあった。

 ユキは驚きに目を瞠る。

 そんな彼女の視界に入ってきた灰色の瞳は、いつもより深い色味を帯びていた。

 彼は、相好を和らげ、言葉を紡ぐ。

「がんばれ、ユキ」

 いつもは感じない艶冶な響き。

 ユキはどう反応したらいいのかわからなかった。

「……う、ん」

 戸惑いながら、喉の奥で詰まる言葉をなんとか吐き出した。




 その二人のやりとりを、窓辺から紫の瞳の少女が横目で見つめる。

 彼女、ロシェットはクロードの視線が向けられる前に、窓へと向き直り、サッとカーテンを引いた。

 ――兄に、問いたい疑問がある。

 それは、ユキがいる前では決して訊けないこと。なにかもはっきりと掴めていないこと。

 ――けれど、きっと。多分。大切なこと。

 それを言葉にするための、胸の内にある違和感は、まだ曖昧な形のまま。




***   ***   ***




 通学路は、国立学院高等部の制服を着た学生で溢れる。

 珍しく、ロシェットと登校したユキは、いつもより心強く感じた。

 気遣わしげな、そっとユキの様子を窺うロシェットの視線。八つほど離れている少女にまで心配させているのだと、苦笑を零してしまった。

 脇に街路樹の並ぶ、石畳の通学路。並木を抜ければ、すぐ校門だ。

「先生、おはようございます」

 駆け抜けざまに、生徒が挨拶する。

「おはようっ!」

 走る後ろ姿へ聞こえるようにと、慌てて返事した。

 そうして、嬉しそうに頬を緩めるユキに、ロシェットは安堵の息を吐く。

(大丈夫。まだ、私は大丈夫)

 自分に暗示をかける様に、心内で唱えた。




(がんばれ、私)

 それは既に、まじない言葉となっている。

 ホームルームの教卓前で、視線を集めることにすら汗が滲む。

 いつからか、視線を恐れるようになっていた。

 もともと、ユキは人前に立つことが得意ではなかった。目立つことも苦手だったから、学生時代、生徒会や学級委員長に立候補することもない。

 生徒同士がこそこそと耳打ちすれば、もしや自分のことを言われているのではないか、と心が反応する。

 ――以前にも増して、随分臆病になったものだ、と自嘲した。

 人間不信もここまでくれば、そのうち生活に支障も出よう。

 他人事のように思いながら、出席簿を広げ、生徒の名を呼んだ。



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