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換気のために開け放たれていた窓を閉める。
秋も終盤となり、最後に部屋へと流れ込んできた風は冷たいものだった。
ロシェットは、ベッドに眠る彼女が冷えないよう、布団の外に出ていた手を中に納めた。
そうして、ベッドの横に備わる看病用の椅子に腰を下ろす。
現在、ロシェットがいるのは保健室隣の寝室である。
朝、胃を痛めたユキが保健室で寝ていると、普通科の生徒から呼び出され、教えられたのだ。
ロシェットがユキの家族であることは、大勢の在校生が知っている。校内でも”氷の美少女”として異名を持つ彼女ゆえに、噂の広まりは早い。二人が家族だと知られたきっかけは名簿の住所という単純な理由だった。
どのみちユキは全学科一年の地理・歴史の授業は受け持つものの、二年・三年は担当していないため支障はない。また、学校側も二人の関係を認識している。
黒髪の生徒が少し心配そうな素振りで、ロシェットに告げた。
彼は、ユキと面差しがどことなく似ている――そう、ロシェットは感じた。
性差や表情はまるで異なり、人相は確かに違うのに、不思議と既視感のようなものを抱いたのだ。
学校内で、基本的にロシェットは表情が極端に薄い。無表情に近いために”氷の美少女”と呼ばれる彼女であるが、ユキの所在を耳にした時は目の前の生徒を訝りの眼差しで見つめた。
きっと、目にしか表れていなかっただろう。
けれど、察した彼は、苦笑して彼女の目に答えた。
「朝の暇な時間で本を読もうと思ったんだ。で、図書館へ行ったらブルック先生が蹲っていたから、理由訊いて保健室へ連れて行った」
「……そうですか。ありがとうございます」
礼を述べたロシェットの目から、怪訝に思う色は消えない。
ロシェットは、警戒していた。
ユキが胃を痛める時は、彼女が精神的なショックを受けた時。つまり、なんらかの理由でユキはその状態に陥ったということなのだ。
そも、ユキは普段から学校になんらかの精神的な負担を抱えている。それについてユキは家で言葉にしないから、ロシェットは原因がわからない。それが、ひどくもどかしい。
だからこそ、彼の報告は、この男子生徒がなにかしたのではないか、と疑った。
しかし、彼にどのような意図があろうと、ユキが保健室にいるということは間違いないだろう。実習等のない午前、保健室には十中八九養護教諭がいる。そこにロシェットを呼び出して、なにかするとは考えにくい。
男子生徒から興味を失ったというように、ロシェットは頭を下げて教室を出た。
ロシェットが保健室に着いた時、養護教諭のダントンは口をへの字に歪めて肩を竦めた。
何故かと問えば、彼は溜息を吐く。
「授業に出る、と言ってきかなかったんだよ。無理しても、逆に迷惑かかるだけだときつく窘めたら、渋々頷いてくれたけれどね」
「すみません……ありがとうございます」
ロシェットはダントンに心から感謝した。
無理を、してほしくなかった。身体を大切にしてほしい。国立学院高等部の教師が辛いのなら、他の学校への勤務を検討すればいいし、教師であることが負担になるのなら、辞めてしまえばいい。本当は、そう思っているのだ。
ロシェットから見て、ユキはどこか儚さを纏う。
初めて逢ったのは、ロシェットが四歳の頃だった。なんとなく、今でも当時のユキを憶えている。
心を失ったような、壊れてしまいそうな雰囲気を放っていた。静謐な空気を纏う彼女は、それこそ物音立てずに、気がついた時には雪のごとく溶けてなくなってしまっているのではないか――そんな不安が過ぎったものだ。
硝子細工みたいな彼女は、ステファノス家で時を過ごすと共に、人間味を帯びるようになった。時折見え隠れする渇望さえ、ロシェットには彼女が人間らしさを取り戻そうとしているのだと感じた。
けれど――今のユキは、過去の壊れそうな彼女と人間らしい彼女の間で揺れているように見える。
「……彼女は、与えることもできず、しかし割り切ることもできずに、迷っているのだろうね」
「え?」
ロシェットは、自分よりも頭一つ分背の高いダントンを見上げた。
白髭を蓄え、包容力を感じさせる彼は、睫毛を伏せて続ける。
「多分、限界は既に超えている」
――なのに、どうして……。
続く言葉を、ダントンは濁した。家族であるロシェットに言えば、責められていると、きっと彼女は感じてしまうから。
ゆえに、不安で泣きそうなロシェットに、養護教諭らしく微笑んだ。「大丈夫だよ」と安心させるように。
「さて、じゃあブルック先生に会ってあげてくれるかな?」
温かい声に、ロシェットは安堵しながら、寝室の扉を開けた。
眠るユキは、人形のようだった。
特別秀でた容姿ではない。でも、優しそうな顔立ちをしている。だからこそ、負の感情をぶつけられやすい面もある。彼女に対してではない怒りや憎しみ、憤りさえも、受けてとめてくれそうな雰囲気を持つから。
黒い睫毛が少しだけ震えた。
もしかしたら、眠りながらも胃が痛むのかもしれない。
臓器や重傷に対する医療行為は、医療魔術師にしか認められていないため、ユキは治癒を受けたわけではないのだ。
ロシェットはユキを眺めながら、ダントンの言葉を想う。
『多分、限界は既に超えている』
なんとなくロシェットも気づいていたこと。家でクロードから治癒を施されることで耐えてきたユキを見て、無理をしていると気づかないほど愚かではない。
それでも。
ロシェットは、ユキに「がんばれ」と伝えてきた。兄と同じように。
――それは、ユキが望んでいた言葉だったから。
兄も、気づいていたからいつも「がんばれ」と言ってきたのだろう。
――でも。
ロシェットには、どうしてもわからないことがある。
兄は、どうして。
「どうして、『がんばれ』って言うの?」
ぽつりと、独り言。
兄は、確かに、ユキが「がんばれ」を欲しがっていると知っている。
――だけど。
(ユキちゃんを、あんなに溺愛する兄さんが、どうして『がんばれ』って言い続けるの?)
ユキと接するクロードを脳裏に描く。どう接し、触れ、囁いたか。どのような表情であったのか。
――身震いするほどの、絶対零度の冷たいものに触れてしまった……そんな気がした。
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