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ある脇役の選択  作者: 梅雨子
ある脇役の選択
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7の(2)

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 カーン、カーン、と鐘の音が響く。

 校庭の端にある時計塔に設置された、大きな鐘の音だ。この鐘は、国立学院が創設された当初から、授業の開始や時刻を報じる鐘として在り続けた。

 朝のホームルームは、八時三十分に鳴る本鈴によって始まる。その五分前に予鈴という知らせがあるが、今鳴る鐘の音は時刻が八時となったことを告げるもの。

 ユキは読書を切り上げ、席を立つ。

 八時十五分から職員会議があるため、職員室へ早めに戻らねばならないのだ。

 数冊の本を手に、本棚へと向かう。本棚は壁に沿って設置されたものと、平行に幾つも並べられたものとがあり、ゆえに本棚辺りは入り口や閲覧場所から死角となる。

 明かりは窓から射す太陽光のみ。閲覧場所には大きな窓が作られているから、ある程度明るさが確保できるものの、本の置かれた場所は、それらを痛めないよう窓は少ない。

 そうして、本棚は塀のごとく陰をつくる。

 そんな、本棚と本棚の間の通路で、ユキは元あった場所へと本を戻していった。

 生徒の少ない早朝、司書はカウンターではなく、作業室に篭ることが多い。貸し出し本の返却具合の確認と、本の修理をそこで行っているのだ。部屋は作業室・図書館共に防音が施されているから、生徒が司書に用がある時は、作業室からカウンターに繋がる呼び鈴の紐を引くことで、呼び出すことになっている。


 ユキが本を戻している最中、扉が開く音がした。

 二人分の足音が近づいてくる。

 珍しい、とユキは思った。図書館の利用者は、昼休憩や授業後に多く集まる傾向にあるのだ。

 彼女は読書家ではないため、早朝から本を読む生徒の存在に感心した。

 ユキがいる場所とは違う、本棚の陰で足音は止まる。

 丁度、残り二冊の本を返却する本棚のすぐ傍。

 なんとはなしに、そこへと忍び寄った。物音を忍ばせたのは、図書館でのマナーだから。

 そうして距離を詰めれば、声が、聞こえた。男女の声。こそこそと、内緒話をするような。


「――これ、お礼」

「どうも。ご依頼、ありがとう」

「どういたしまして」


 なんの会話かはわからない。特に、聞き耳を立てるつもりもなかった。

 だから、それがどんな会話なのか、興味を抱いてすらいなかった。

 ――それが、いけなかったのかもしれない。

 男女のいる本棚の陰へと、一歩、踏み出す。

 刹那、ユキは目を丸くした。

 目の前の男子生徒は、斜め後ろ姿。彼は手にしている、可愛らしいピンク色の封筒から覗く数枚の札――お金――を数えているように見える。

 男子生徒の前に立つ女子生徒は、巻かれた長い髪を指に巻きつけながら、小首を傾げて彼を見つめる。男子生徒は騎士科の制服を着ており、隔てる彼の体格が鍛えられて大きいこともあってか、女子生徒はユキに気づいた気配はない。

 学校内での金銭のやりとり。

 先ほどの会話からするに、恐喝ではないだろう。では、なんだというのか。

(お礼と……依頼……?)

 ユキは動揺しながら、様子を見ようと再び本棚へと隠れようとする。が、どうやら男子生徒に存在が気づかれていたらしい。

「――もう見つかってるから、隠れなくていいよ」

 嗤いまじりの声音。

 ユキは渋い顔をして彼らの傍に立った。

「……事情を、訊いてもいいかしら?」

 渋面をつくりながら、問うた。

 学校内での金銭のやりとりは、基本的に禁止されている。多少、それこそ購買のパン一つ分くらいは、こっそり貸し借りをしている生徒もいるだろう。しかし、男子生徒の手にしている封筒の中身は、小金ではない。

 男子生徒は、無表情で値踏みするようにユキをつま先から頭の天辺まで見やった。

 ユキは、彼が先日リリィと裏庭にいた男子生徒であることを思い出す。飄々とした雰囲気と、形良い目を弧にして嘲笑する、騎士科の生徒。間違いない。

「お礼と、依頼――そんな言葉が聞こえたのだけど」

 ユキが言葉をつげば、男子生徒はくつくつと嗤った。

 彼は自然な仕草で、封筒をブレザーの内ポケットに仕舞う。

 それに眉根を寄せたユキが、抗議の声をあげようとした――その瞬間。


「っ!?」

 ドン、と本棚に押さえつけられる。体格には似合わぬ、素早い動きで以って。

 両手首は彼の両手に拘束され、本棚に縫いとめられた。

「レスター」

 女子生徒の困惑した声。

 レスターと呼ばれた生徒は、ユキに蔑みの眼差しを向けながら答える。

「ちょっと、釘を刺そうと思って。君はそこで見ていて」

 そう女子生徒へと、にっこり笑いかけた。

 本棚に追い詰められ、さらにレスターが前かがみになることで、ユキと彼の顔の距離は近くなる。

 彼の瞳は、深い藍色。それまで、生徒と教師という割り切った関係であったから気にしたことはなかったが、レスターは人目を惹く容貌をしていた。彫りの深い、ギリシャ神話に登場する美しい神を描いた絵画のようで、どこか近寄りがたい顔立ちなのに、飄々としながらも人懐こい雰囲気で人を惹きつける。

 だが、本当の彼に触れることは、ひどく困難なのだろう。

 そんな風にユキは思った。

 吐息がかかるほど近く顔を寄せたレスターは、見下すように目を細める。あまりの近さに、ユキは息を詰めた。

 ――彼は、馬鹿ではない。

 ここまで顔を近づけ、それを女子生徒に見せることで、不利になるのは教師であるユキの方だ。証言者は、彼の味方である女子生徒しかいないのだから。

 ユキは必死に上目で睨めつける。両脚の間に、レスターの片脚が割り込まれているため、逃げ出すこともできない。そも、彼は騎士科であり、男だ。力では適わない。さらに手も拘束され、顔をわずかにでも動かせば、彼と触れ兼ねないから余計に動きは慎重になる。

(……遊ばれているっ)

 悔しかった。女として、年上として、教師として。屈辱に唇を噛み締める。

 それを、面白そうに喉の奥で彼は嗤う。

「先生、震えてますよ?」

 レスターの言葉に、恥辱と情けなさで顔が紅潮した。

「放して」

 ユキの、怒りに満ちた低い声が響く。

 けれど、レスターがユキの言う事をきくことはなく、怯む様子もない。むしろ、彼はさらに目を細め、笑みを深める。

「口止めしたら、放してあげます」

 どこまでもユキを小馬鹿にした言い草。

 女子生徒の視線が、痛いほど突き刺さるのを感じる。そんな中、レスターはユキとの距離を縮めはじめ、唇を寄せた。

「いい加減に……っ」

 ユキが呻くように言えば、片方の手首の拘束が緩んだ。

 咄嗟にユキは力の緩んだ拘束を振り払い、顔を俯けて睨み上げながらレスターの頬を平手で打った。

 パーン、という小気味いい音が図書室に反芻する。

 レスターは、叩かれた衝撃のままに顔を横に向けた。目元は乱れた髪に隠されたため、表情はわからない。

 一方、反対側の手首と脚も解放されたことで、ユキは横にずれて彼との距離をとった。

 レスターを打った手のひらが、じんわりと痛い。人を叩いたのは、初めてのことだと思った。

 少しの罪悪感と、でもそうしなければならなかったという自己弁護が胸に渦巻く。

 それでもなにか言おうと、「あの……」と声をかけた時だった。

 彼の唇は、にやりと口角を上げる。

(え……?)

 そう思った瞬間、ユキは自分が生徒になにをしたのか察した。

(嵌められた!)

 口元を両手で抑える。動揺に、瞳が揺れた。

 レスターはユキへと顔を向けると、前髪を掻きあげた。今の彼は、まるで策士のような表情をしている。

「体罰、ですか?」

 疑問文なのに、ユキにはそう捉えられなかった。

 言葉を失う彼女を前に、レスターは待機していた女子生徒へと振り返り、「見てたよね?」と問う。女子生徒は、ユキを嘲笑うように頷いた。

(胃が……痛い……)

 また、疼き出す胃。ユキはそっと鳩尾に手をあてる。

「秘密に、できますよね?」

 レスターの問いかけ。

 ユキはどうしても頷きたくなかった。それでも、頷かなければ暴力を振るったと、その証人もいるのだと噂をたてられ、さらに上司に報告もいくだろう。

 悔しくてたまらない。嵌められた自分の愚かさ。こんなことで、たくさんのものを失ってしまうかもしれないという恐怖。それをレスターと女子生徒が握っているという屈辱。

 ――教師になる前、先生としての喜びを知った。でも、教師となってからは、その喜びからどんどん遠ざかっていった。

 ――家にいてもいいと許される、物質的な証が欲しかった。でも、それも失うかもしれないし、そもそも初めからユキの自己満足に過ぎなかった。

 ――全部、全部自分のため。ユングの言葉は正しい。

 睫毛を伏せる。

 毛を逆立て、それまで威嚇していた猫を飼いならしたかのように、レスターと女子生徒の目には映ったかもしれない。

 ずるずると、本棚に撓垂れ、へたり込む。

 ――ああ、胃が痛いと、思った。

 揺るぎない強さも決意もないから、付け込む隙を与えてしまうのだ。

 満足気に、ユキに一瞥をくれて去って行く二人の生徒。その後姿を横目で見送りながら、ユキは胃を抑えて蹲った。

 痛くて、追いかけられなかった。




(……吐きそう)

 ――なにを?

 胃のものかもしれないし、血かもしれない。それとも――もしかしたら、心を渦巻くものかもしれない。もう、よくわからない。

 涙も出てこない。

 細く呼吸を繰り返すことで、胃の痛みを和らげようと思った。

 そうして蹲っていると、影が差した。

 人の気配に、ユキはゆっくりと顔を上げる。

「……先生、大丈夫ですか?」

 いつの間に、図書館に入ってきたのだろうか。扉の音は聞こえなかった。痛みで、そちらにまで気がまわらなかったのかもしれない。

「ジャスパー、くん」

 現れた人物の名を呼べば、彼は苦笑してしゃがんだ。

「さっきの彼のことを、教えてあげます」

「知り合い……なの?」

 ユキの言葉に、ジャスパーは首を横に振った。

「いいえ。……彼は、陰で―― 一部の生徒の間では有名なんです」

「一部の生徒……」

「レスターは騎士科の生徒で……”別れさせ屋”と呼ばれています。依頼されれば、どんな方法を使ってでも対象の恋人を別れさせる。主に、寝取ることが多いみたいですが」

 ユキは眉宇を顰めた。

 そんなユキに、ジャスパーは歪めるように苦く微笑する。

「先生――本当は、言っちゃダメなんでしょうけど、一つだけ」

「ジャスパー、くん?」

 ユキは痛みに顔を歪めながら、首を捻る。

 目の前の男子生徒は、いつだって謎を秘めた生徒だが――彼は、なにかを知っている。なんとなく、ユキはそう感じていた。

 ジャスパーは、真っ直ぐユキを見つめて告げる。

「先生のポジションは、要注意です」

「え?」

 意味がわからない。ポジションとは、”教師”という立場のことだろうか。

 ユキの推測では、この世界は、地球と物語でつながっている。別に、地球で考えられた物語がこの世界で現実となっているわけではないだろう。実際に、この世界にある物語は、未来の地球を描いたものではなく、ユキが把握する現代日本の姿を描いたものばかりなのだ。

 ゆえに、地球にあった物語は、この世界について疎いユキや、ジャスパーをはじめとした地球人の参考となるだろう。

 ユキよりも、恐らく地球で読書家だったジャスパー。彼は、彼の知識から、ユキのポジションが危ういと忠告している――そうユキは判じた。

 地球でのフィクションが、現実としてなにもおかしくない世界。逆に地球が、この世界からすればフィクションでしかない世界。

 知れば知るほど、ユキは混乱するばかりだ。

 ああ、でも、それにしても――。

(胃が痛い……っ)

 額に脂汗が滲みはじめる。今日は、いつもより調子が悪いらしい。

 歯を食いしばって耐えていると、ジャスパーが心配そうに言った。

「保健室へ行きましょう」

 これから、職員会議がある。いや、もしかしたらもう始まっているかもしれない。ユキの脳裏で理性が告げる。

 しかし、立ち上がることも困難だった。


 そうして結局、ユキはジャスパーと、彼に呼ばれた司書に担がれ、保健室へと向かった。



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