7の(1)
.
インクと、古い紙の匂いがする一室は、しんと静まり返っていた。
まるで世界に独りだけ取り残されたかのような静寂と、太陽光がわずかに射し込むだけの薄暗さが支配する空間は、半球の屋根と天井まで届くほどに高い本棚、さらにそこを埋める本によって構成される。
国立学院高等部の図書館――校舎と独立した建物のそこは、貴重な資料の複製から俗な本まで、ありとあらゆるものが揃っていた。
本棚に囲まれた、閲覧用のテーブルに数冊の本を積み、椅子で読書に耽るのはユキ。
まだ早朝ということもあってか、生徒はそこにいなかった。
『この世界は、日本以上に、”事実は小説より奇なり”という場所に感じます。アニメやゲーム、マンガやライトノベルみたいといえばいいのか……。俺達の予想できないことが起こり得る世界です』
同じ地球の――日本出身のジャスパーから告げられた言葉を受け、ユキは自分がこれまでこの世界に違和感を抱かなかったことに、不思議だと思った。
十二歳の頃に異世界渡りをし、つまりは十三年前からこの世界にいる。思えば、人生の半分以上をこちらで過ごしてきた。
この世界へやってきたユキは、異世界を”異世界”としてしか捉えていなかった。
そこは、日本とは異なり、電気を用いない世界。けれど、文明は石油や石炭を用いない科学レベルで発展を遂げている。一部は、魔法によって補われていた。
移動する列車は、人が生み出す魔力によって動かされ、日本のいうところの”電話”は”伝話機”として、空気の振動を利用した魔法によって機能する。
魔法が、地球でいうところの電力の代替とされながら、しかし電気と魔法がイコールで結ばれることもない。そも魔法は、魔術の素養を持った者が自然の力を魔力へ変換させ操るもので、彼らが皆の生活の重要な部分を握る。自然の理に介入することができる存在、それが魔術師とされるのだ。
そのため、権力も偏りやすいからこそ、魔術省とは別に、官吏は魔力を持たない者で主に構成される。
また、時折、一国か、はたまたそれ以上をも破壊できるほどの大きな魔力の素養を持つ者が現れる。彼らには、魔力の利用を制限するため、特殊な腕輪の装着が義務付けられてきた。
そんな、地球とは異なる世界。ユキは、これまで相違点ばかりにしか、視線を合わせようとしなかった。
だが、考えてみれば、まったく違うというわけでもなかったのだ。そのことに気づかせたのは、ジャスパーの言葉。
食べ物や環境、生物の姿形は、まるで地球のよう。確かに、”スコッチエッグバーガー”は異世界渡りをした地球人、もしかしたらイギリス人や日本人が考案したメニューかもしれない。でも、地球との共通点として説明のつくことが、思えばあまりに多かった。
石油や石炭がこの世界で発見されてなお使用されないのは、魔術師の組合や魔術省による圧力もあるが、有限資源の利用を控えるためとされている。世界のバランスを人間によって破壊しないため、それが重要視されたのだ。
それ以外に、物理や数学といった、世界の理ともいえる分野は地球と同じである。
歴史や地理はやはり異なりはするものの、存在する民族や人種は非常に似ていた。
そのことに、ユキは学問を学ぶとともに気づいていいものだ。けれど、彼女は異世界を”異世界”として捉えたため、地球との繋がりを考えることすら放棄していた。
「……これって」
眉間に皺を寄せながら、呟く。声が反響した。
今、ユキが手にしている本は、この世界のSF小説。他、テーブルに積まれたものはSF以外にファンタジーも含まれる。
ページを繰る。そして、そこに書かれた物語に驚愕した。
「これ、私の知っている日本だ……」
ユキの言葉通り、その本には、まだ試作段階のロボットから、クローン技術や発電所、工場プラントまで様々な先進国の科学が登場する。
それが、この世界での”SF小説”なのだ。
さらに、他の本を広げた。
「こっちは、歴史」
”ファンタジー小説”に分類される本。その内の数冊を本棚から抜き取ってきたが、内容は中世ヨーロッパを舞台にした恋愛物語から、古代中国の後宮の物語、さらに日本の戦国時代の物語まで、多種多様な国の歴史が”ファンタジー”として分類され描かれている。
――ということは、だ。
(地球とこの世界は、物語で繋がっている……?)
どちらも現実で間違いない。今ユキがいる世界は確かに地球からして異世界であり、物語の中の世界ということはないし、夢の中ということもない。
地球では解明されていない異世界事情。それは、この世界でも同じ。
そして、クロードも違う世界から来たという。
地球からすれば、魔法のある世界は夢の世界かもしれない。決して、理想の世界ではないけれど、ないもので溢れているのだから。
他方で、異世界からすれば、地球もまた夢の世界なのだろう。
夢として妄想し、思い描き、物語として記す。世界同士は、そういう関係なのかもしれない。
一体世界はどれくらいあり、日本人の自分からして常識外れなことは、どれほどあるのか。皆目見当もつかない。
もしかしたら、ユキが幼い頃にテレビで観たアニメの世界――例えば冒険の世界や宇宙で戦争する世界も、どこかの異世界では存在するのかもしれない。
はぁ――と、長い溜息を吐く。
これまで考えた事もないことを思考した結果、なんだかすごく頭が疲れた。今まで使ってこなかった部分の脳を使った、そんな感じだ。眩暈すら覚えそうだった。
――この世界にも、ユキと同じ地球出身者は複数いるだろう。それが民族総出の移民といった規模ではないにしろ、自分とジャスパーだけではない、そう確信が持てる。その仮説への自信は、食文化に地球で馴染みのあったものも数多くあるという理由から。
しかし、だからといってなんだというのか。
地球出身者が集まって、故郷を懐かしむ? 地球への帰還方法を探す?
ユキにとって、それらは最善ではない。帰る場所がないのだ。日本へ戻っても、必要としてくれる人はいないし、帰れる家もない。
どちらにせよ、異世界からこの世界への迷い人は少なからずいる他方で、こちらから異世界へ魔法を使って行くことができる――とは聞いたこともない。
それよりも、とユキは思う。
彼女にとっては、養父母やクロード、ロシェットがいる世界の方がよっぽど大事だった。
母への罪悪感がないわけではない。母が死んだのか、生きているのかもわからない。――自分が母を殺した、とまで思ってはいないし感傷に浸ってもいない。だが、母を見捨てたという事実だけは、今もユキを縛り、苛む。
それでも。
今を、これからをどう生きるのか。そう考えた時、今の家族と母とを天秤にかければ、自ずと今の家族へと傾いた。ゆえに、この世界で足掻くのだ。
――自分がいかにロクデナシか。誰よりもわかっている。
けれど、自分から一番大切なものを手放すことは、彼女にはできなかった。
教師という立場に追い詰められていたとしても、日本に帰る事――ひいては家族から離れることなど、ユキにとっては考える価値もないこと。
だから、ジャスパーからもらった情報をもとに、これからどんなことが起こり得るか考える。
地球の本、物語には、どんなものがあっただろうか。
ともすれば、肩を落とす。
(……どうして私、本を読まなかったんだろう)
そうしたら、現状打開策の参考が、なにかあったかもしれないのに。
今更ながら、深く悔やんだ。
.
 




