幕間
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異世界に現れたユキを、最初に見つけたのはクロードだった。
冷たい、芯まで凍る雪の中。
視界は真白。はらりはらりと、頬に雪が舞い落ちる。
そのまま長時間放置されれば、間違いなくユキは死んでいただろう。
けれど、ユキが現れた場所は、運良くもステファノス家の庭であった。
さらに、偶然にもクロードは庭にいたらしく、彼はすぐにユキを見つけ、彼女を助けた。
ユキの頬に降った雪を払う、温かい手。
「――もう、大丈夫だよ」
傷ついて、血を流し続ける心。母を見捨ててしまったかもしれないという罪悪感。
苦しくて、痛くて堪らなかった。それなのに、泣きたくても、涙が出なくなっていた。
そんなユキに、凍てつく心まで溶かすような、心地よい声が降り注ぐ。
――ひどく、眠たかった。
――ひどく、疲れていた。
生きたいのか、死にたいのかも、わからないほどに。
死と生の狭間を彷徨うユキを救ったのは、彼だったのだ。
彼は、兄のような、幼馴染のような、親友のような存在。
彼がいつもくれる”がんばれ”という言葉は、ユキが頑張るために望む言葉だった。
強請らずとも、彼はいつだって察してそれをくれる。
『君が何も持っていなくても……君がいてくれるだけで、いいんだ』
その言葉に、目から鱗が落ちるかというほど驚いたと、きっと彼は知らない。
無条件で愛してくれる可能性を持つ家族から、拒絶された彼女が「ここにいていいよ」という言葉のために、どんなに必死か――きっと、知らない。
それが、縋るほどに欲しいものだとも。
ユキにとって、クロードは憧れの人。
迷わず、いつも前を見据え、ユキに手を差し伸べてくれる。
ユキが何も持っていなくていいと言ってくれた――唯一。
異世界に来てからの幸せは、いつも彼と共にあった。
かけがえのない、特別。それが、ユキにとっての、クロードという存在である。
*** *** ***
『クロードくん、ユキちゃん、ロシェットちゃん、お元気ですか?
お父さんとお母さんは元気です。三人とも元気ですよね? ね? ね??
そうでないと、お父さんもお母さんも、心配で夜も眠れなくて、もう職務放棄して家に帰りたくなる――もとい帰ってしまいますから、お返事ください。たくさんください。』
そんな文章から始まる、ステファノス夫妻の手紙。
便箋に並ぶ文章によれば、現在は南方地域で視察をしているようだ。詳しくは、守秘義務によって書かれていないものの、二人とも元気だということがよくわかる内容だった。
月に一度届く手紙を、リビングで三人揃って読んでいる。――といっても、手紙をソファに座るクロードが朗読し、それを隣から覗くユキ、さらにクロードの背後からはロシェットが顔を出して文字を追う。
「父さんも母さんも、相変わらずだね」
嬉しそうに、ロシェットが声を弾ませた。
それに、クロードとユキは苦笑することで答える。
養父は、魔術省所属の魔術師である。つまり公務員であるから、辞令に従い、今は地方赴任中だ。養母は地方行きの彼についていった。
養父母は、共に親馬鹿の部類に入り、子ども達三人をとても大切にし、かわいがる。既に大人へと成長したクロード・ユキをも子ども扱いするため、クロードは困った笑いを見せることが多い。他方でユキは、くすぐったさを覚え、はにかむ。そんな家族関係は、非常に良好といっていい。
家族の仲良しぶりは、養父母の地方赴任前、週末になると必ず五人で日帰り旅行に繰り出すほどだ。国内で行っていない場所はないのではないだろうか。
引き取られた当初、この世界の地域を全く知らなかったユキにとって、それはとても楽しく、理解を深めるきっかけとなった。
天空が映る鏡のような湖、桜の並木道、古代を想わせる森。地球にいた頃、テレビでしか観た事のない景色が、この世界にもあることを知った。そしてそれは、ユキにとって郷愁を感じさせるものであり、反対に家族に纏わる悲しい日本での記憶を上塗りする機会にもなった。
感謝してもしきれない。本当に、ユキにとって養父母は大切な存在なのだ。
ゆえに、ユキは就職先に国立学院を選んだ。
ユキの性格からすれば、本当はもっと生徒と教師の距離が近い学校や、家庭教師の方が向いただろう。ユキ自身、それは感じていた。
国立学院高等部は、寄付金と税金から管理運営される。公務員育成を目標としているため、生徒の心身よりも目標達成を重視しているのだ。国のために尽くす覚悟を持った者――それこそ、国立学院高等部が入学資格として求めるものであり、備わっていることが前提とされる。
もちろん、メンタルケアのために養護教諭が常在し、カウンセラーも週に三度来校する。しかし、学校と生徒の間には壁があり、家庭の問題や人間関係といった問題は、メンタルケア部門に委ねられる、もしくは家庭で対処するよう考えられている面が強い。
では、なぜユキがこの学校を選択したかといえば、高給だからである。
ユキにとって、ステファノス夫妻との養子縁組を拒みながら邸でお世話になっている現状は、負い目を感じる状態だ。
家族愛を向けられ、その幸せに浸る日々。これまでの人生で、最も幸福なひと時。
けれど、他人であることを望んでしまった。それはユキの望みであり、実母との縁を断ち切ることを拒んだ結果。
――こんなに大切にしてもらっているのに。
――感謝してもしきれないほど、たくさんのものをもらっているのに。
幸せだからこそ、厚意を拒んだ後ろ暗さに苦しくなる。
”ありがとう”――その気持ちを、どう返せばよいのかわからなかった。
結果、ユキは家計を支えることで、感謝の気持ちを示そうと考えた。
料理当番を引き受けたことは、やはりユキの一存であったし、家計援助もユキの一人よがりかもしれない。
それでも、なにかせずにはいられなかった。
この家にいることが許される物理的な証が、欲しかった。だから、自分で国立学院の教師となることを決めたのだ。
手紙を朗読するクロードが、ある文章の手前で溜息を吐く。
「兄さん、どうしたの? 続きは?」
促すロシェットに、兄は一瞬躊躇いを見せる。そうして数拍後、諦めたように朗読を再開した。
『クロードくん、ユキちゃん、恋人はできましたか?
あ、ロシェットちゃんはまだ高校生なので早いです。恋人ができていたらお父さんが寂しくて泣いてしまうので、卒業まで待ってください。』
「……わたしはまだいいんだ」
ぽつりとロシェットが呟く。
「ていうか、兄さんもユキちゃんも、恋人いないの? 好きな人は? まずはユキちゃん、どうですか?」
ロシェットはクロードとユキの間の背もたれに肘をついて、銀の髪を揺らした。興味深々、といった風にユキを見つめる。
視線が痛い。突拍子もない質問に冷や汗を流すユキは、困惑の色が隠せない。
唸りながら、苦虫を噛み潰した。
「恋人は……いないわ」
「うん、知ってる。だって休日は家にずっといるし、仕事終わったら直帰してるもん」
ロシェットに一刀両断され、少しばかり凹む。自分は傍から見ても、枯れた女なのかもしれない。……今更かもしれないけれど。
そも、学生時代は勉強ばかり、就職してからは仕事のことばかりで、恋人なんて考えたこともなかった。
好きな人のことすら。
――それはもしかしたら、怖いのかもしれない、と思う。
実父に、恋人に溺れた実母。その姿が、どこか脆く、醜くユキには見えた。
心のどこかに、ああはなりたくない――そんな母への、ひいては恋に溺れた女への嫌悪感があるのかもしれない。
だから、心のよりどころは家族のみに向け、それでも完全に心を許すことはできずにいる。委ねることは、今もなお、きっとできていない。
――家族の誰も、ユキの日本での姿を知らない。彼女が両親に捨てられ、彼女自身母を捨てたことを知らない。そんな自分を知られることを、恐れてしまう。
本当の自分を知られ、拒絶されたくないから距離をつくる。臆病で、脆弱。それが、ユキなのだ。
いつか、すべて話すことができたならば――その人が受け入れてくれたならば、ユキはその人しか見えなくなり、依存するだろう。それすらも、今は怖いと思う。
そんな未来が、来るのかもわからないけれど。
「いつか……できたらいいんだけど、ね」
本心を押し隠し、眉尻を下げて笑む。それが、ユキの精一杯。
ロシェットは、優しい子だ。ユキの幸せを願ってくれる。距離を測り、踏み込まずにいながら、大切に想ってくれる。
そんな彼女だから、ユキの表情を見て口を引き結び、寂しそうに睫毛を伏せるのだ。
(ごめんね、ロシェット)
優しさを噛み締める。
そして、話を変えようと、ふふ、と笑声を漏らした。
「ロシェットこそ、好きな人はいないの?」
「父さんが泣いちゃうから、まだいい。――それに」
恋よりも、心配事があるから。
続く言葉をロシェットは呑み込み、ユキをひそかに見やった。
しかしその視線は、すぐにクロードへと向けられる。
「兄さんはどうなの?」
突如話題を振られ、クロードは目を丸くした。
そうして、温和な、けれどなぜかぞくりと背を這うような寒さを想わせる、美しい微笑を見せた。
「――大切な人なら、いるよ」
表情とは対象的な、心に沁みこむほどに温かみを持った声音。
どうして悪寒がしたのか、不思議なくらいだ。
そう思いながら、ユキは胸が締め付けられるような違和感を抱いた。
(……もう、クロードさんも二十八歳だもの)
当たり前じゃない。
心中、独り言。
この世界でも、日本同様婚期が早いとはいえない。法律では男女共に十六歳から結婚が認められていながら、平均で男性三十歳前後、女性二十代後半となっている。ということは、クロードもそろそろ結婚相手を見繕っても良い歳といえよう。
(家族離れ、できてないなぁ……)
溜息を吐き、自立できていない自分に落ち込む。
―― 一番になりたいわけではない。
その筈なのに。
胸の痛みは、いつしかユキが欲張りになっていたという証だろうか。
「誰? 誰??」とはしゃぐロシェットの声。
「まだ秘密」
くすくすと笑いながら、人差し指を唇にあてるクロード。
その中で、ユキだけが寂しさの中に取り残されてしまう。
「じゃあ、いつからその人のこと好きなの?」
「ずっと――ずっと前から」
「……それって……前の世界の人?」
怯んだような、人の痛みに触れてしまったような、弱弱しいロシェットの言葉に、ユキは目を瞬いた。
「え?」
首を傾げる。なにを言っているのだろうか。そう思った。
ユキの疑問に答えたのは、クロードだった。彼はなんでもない風に、話す。
「ユキは知らなかったかな? 僕もユキと同じだって」
ユキの目が、極限まで見開かれる。
「……それって」
声が、掠れた。
「僕もユキと同じ、十二歳の時にこの世界へ来たんだ。養子縁組して、父さんと母さんの子どもになって、一歳だったロシェットの兄になった」
懐かしむクロードの表情。どこか、遠くを見る眼差し。
俯き、不安げなロシェットの頭を、クロードは撫でる。
そんな二人は、血のつながりがなくとも、ちゃんと兄妹に見えた。
(いいなぁ……)
眺めているこちらまで、心がほかほかと温まる。
口元を綻ばせ、眺めていると、クロードはロシェットを撫でる反対の手で、ユキの頭も撫ではじめた。
まるで、子ども扱いだ。
頬を染め拗ねながら、笑みを零す。
目を閉じて、今この時の幸せを噛み締めた。
クロードは、ユキにとって憧れの人だ。
がんばれと、いつも背中を押してくれる。頑張るために必要な言葉を、察して言葉にしてくれる。
ユキは、なにかを選んだら、そのなにかしかできない。一つの事に精一杯取り組むかわりに、他のことがおろそかになる。率直にいえば、不器用なのだ。
だから、今まで一度も恋人がいなかった。取り組むべきことがあったから。
そして、今の取り組むべきことは、”教師生活”。
そんな現状に対し、仕方ないと思っている。多くを一気に手に入れられないならば、一つだけでも一生懸命向き合いたい。
――自分は、そうだけれど。
もし、ロシェットに恋人ができたら、目一杯歓迎したいと思う。大切な家族の、大切な人だから。
――でも。
もし、クロードに恋人ができたら――歓迎、できるだろうか。
不意に、黒い感情が心を過ぎった。
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