プロローグ
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テレビの音もないリビング。
窓から射し込む光は、夕日の茜色をしていた。
逆光で、母の表情はわからない。けれど、きっと般若のように顔を歪めて怒っているか、泣いているのだろうと思う。
「あの男に似て、汚らわしい! その目で私を見ないでっ!!」
金切り声で叫んだ彼女は、汚物を見るように少女を蔑みの眼差しで見下ろした。
母が少女を殴ることはない。
それは、わずかにでも残る愛情からではないと、少女は知っていた。触れることも嫌忌しているからだと、少女は知っていた。
涙は出ない。ぼんやりと母を見上げるだけ。
キッチンから漂うカレーの匂い。ダイニングテーブルに置かれた二つの白い皿。
少女は愛されていないことを理解していたが、いつだって夕食を二人分用意して、彼女の帰りを待った。
夢見ていたのだろうか。
愛されたいと思っていたのだろうか。
少女は自分の心を認識しようとしなかったから、わからない。
ただ――いつか、二人で食卓を囲みたいと、願っていたのは本当。
*** *** ***
ひんやりとしたものが、半身を包む。
(――冷たい)
痛む頭で、朦朧と思った。
内臓が引っ張られるような、攣るような痛みが体中に残る。
涙の滲む目は閉ざされていたものの、聴覚だけは鋭敏に音を捉えた。
ギシ、ギシ、という音が近づいてくる。少女は瞼をゆっくりと押し上げた。
視界は白い。
そして彼女は自分が雪の中にいるのだと知る。
近づくのは、雪を踏む音。足音。
ようやく視界に入ってきた、上品な茶色の靴。次いで、その人影は少女の目の前に膝をついた。
少女の頬に降った雪は、温かい手でそっと払われる。
「――もう、大丈夫だよ」
少女とあまり年端の違わない、変声中だろう少年のそれ。
知らない声なのに、安堵する自分がいた。
やがて、彼女は心地良い眠りに襲われ、ゆっくりと目を瞑った。
*** *** ***
明度の落とされた、少しくすんだ白を基調とした部屋。
そこは、この家のリビングであり、家族団欒の場所だ。
しかし、今、この部屋にいるのは一人の青年と一人の娘だけ。
ソファで二人並び、向かいあう。
青年は娘の鳩尾に手を置いている。
それは、治療行為だ。
青年は医療を専門とする”医療魔術師”を生業とする。ゆえに、不調な娘を癒すため、そうしていた。
彼の手から発せられる治癒の魔法は、人肌くらいの温かさ。心まで癒すような温度。
睫毛を伏せ、まどろみそうな娘に、青年は囁く。
「――がんばれ、ユキ」
どこまでも優しい声に、こそばゆさすら覚える。
「……うん。うん、がんばるよ、クロードさん」
いつだってそう励ましてくれる彼に、彼女は眉尻を下げて笑んだ。
――人は、”堕ちた”と気づいた時には、手遅れなもの。
それを、この時の彼女はまだ知らない。
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