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小説家 鈴懸(すずがけ) 〜月猫物語〜



 書きかけの原稿を前に腕をくむ男。男はイスの背に体をあずけ、目をつぶっている。

 その男の背後には、手あかまみれの窓があり、わずかに開けられていて、夏の夜の風が入りこんできている。

 その窓のすきまから、息をひそめ、男のようすをうかがう、あやし気なものがある。

 そいつは、つぎの瞬間、窓から音もなくしなやかに侵入した。身軽な猫である。すりきれた畳の上で、上質な毛並みの一匹の猫が蛍光灯の明かりを不愉快そうに浴びる。猫はためらうことなく男の足下へ近づき、男を見あげる。

「ニャー」

 猫の声に気がついて、男が目をあける。目が合う。見つめ合う。男は数回まばたきして、右の眉毛をポリポリとかく。

「なんだ?」

「ニャ」

 男が指の腹で猫の首のあたりをなでてやると、猫はまんざらでもないようすで、じっとしていた。

 男は台所へいき、紙皿に、なみなみと牛乳を注ぐと、あちらこちらにピチャピチャとこぼしながら部屋に戻ってきた。すると、猫が机にのって原稿を見ている。

「えらいなおまえ、おれの小説読んでるのか? どうだ、おもしろいだろ」

 男は畳の上に皿をおく。猫はふわりと畳におりたつと、あだっぽくよってきて、牛乳を飲みはじめた。

 男はイスに戻り、珍客に視線をむける。

 つやのいい体毛。青い目。サンドカラーの体色、目元足元に深い茶色。気品のある雰囲気。これは外国の高級な猫にちがいない。近所の金持ちの家からぬけだしてきたのだろうか。

 それから男は机の端に積みあげられた原稿を万年筆の尻で軽く二回叩いた。猫が顔をあげる。

「この小説はな、大作なんだ。二千頁を超えてる。まだ増える。テーマは『愛』だ。人間は『愛』が大好きだからな。大ヒットまちがいなしだ。この小説でおれもついに作家ということになる。文壇デビューだな。ふふ、雑誌なんかに顔写真ものるだろうな・・・」

 男の名は鈴懸すずがけ。作家志望の中年男だ。作家チャレンジ歴ウン十年の大ベテラン。ところが、いまだに一作品も評価をうけたことがない。コンテストの予選を通過したこともないし、出版社に持ちこんでも、採用されたことはなかった。

 鈴懸は、気のおけない友達に話すかのように猫に話した。

「おれほど才能にめぐまれた男もいない。そしておれほど運にみはなされた男もいない。神さまにいじわるされてるのさ・・・」

 鈴懸は分厚い原稿を手前に引きよせた。

「ちょっと、でだしのところ読んでやるから、よくきけよ。名作のでだしだぞ。・・・ん、ん(咳払い)。・・・ん・・・池の水の中からコイたちが見あげています。青い空と白い雲・・・」

 鈴懸は、気分よく原稿を読みあげて、十頁目になったとき、横目で猫の反応をうかがった。しかし、そこには猫の姿はなかった。猫はいつのまにか、窓から出ていってしまっていたのだった。

「なんだよ、ひとがせっかく読んでやってるのに・・・」

 鈴懸は窓のすきまに、寂しげな目をむけた。


 ある日の夕方、鈴懸は近所を散歩していた。小説の執筆にいきづまり、気分転換に歩いていたのである。鈴懸は、一本の電信柱の貼り紙に足を止めた。

『迷い猫探しています』。シャムネコ、オスと書かれ、写真もある。あの猫である。真夜中に鈴懸の部屋にきた猫。貼り紙に書かれている飼い主の住所は、鈴懸の家のすぐ近所である。

 ふと、周りをみれば、目にはいる全ての電信柱に、残らず貼り紙がしてある。飼い主は、よほど心配しているのだろう。

 鈴懸は貼り紙を一枚はがして持ってかえってきた。

 じつは、あの猫は、あの晩以来、毎晩鈴懸の部屋に来ていた。だから、きっと今夜もやって来る。

 午前二時。

 そろそろ来るころだ、鈴懸は背中で窓の気配を探っていた。

 数分後、窓のすきまから、シャムネコが入ってきた。鈴懸の背中に「ニャア」と声をかける。

「ああ、おまえか、今、牛乳持ってきてやるからな」

 鈴懸は、そう言いながらイスから立ちあがると、左手をグーと横にのばして、窓をぴたりと閉めてしまった。

「おまえ、指名手配されてるんだぞ。これをよくみろ」

 鈴懸は、ポケットから例の貼り紙をとりだし、しわをのばしてシャムネコの顔の前につきだした。さすがのシャムネコもたじろいで首をすくめた。


 数日後。

 ぶあつい原稿の束をめくり、修正を入れていく鈴懸。今夜は、仕事がはかどる。素早いペンさばきで、次から次へと朱を入れて、頁をめくっていく。

 蒸し暑い夜で、顔には汗がふきだしている。原稿の上に一滴の汗が落ち、染みをつくった。鈴懸が手の腹で染みをこすると、力が強すぎたため、原稿が破れてしまった。

「あぁ・・・」

 鈴懸は大きく息をつくと、万年筆を放りだし、両腕を上にあげ、伸びをした。先日、シャムネコを返しにいったときのことが軽い疲労をともって思いだされた。

 あの夜、部屋にきたシャムネコを、一刻も早く、飼い主に返してあげたかったが、午前二時半に行くわけにはいかない。そこで逃げないように窓を閉めて、朝まで部屋から出さなかった。朝になり、段ボール箱にシャムネコを入れて返しに行った。

 シャムネコを飼っている家というのは、思ったとおり大きな家であった。高い壁と大きな門。広い庭と三階建ての家屋。大理石の表札には「岩鏡」と刻まれてあった。

 ところが家の大きさに不釣り合いなことに、そこの主人というのが、おどろくほど、腰の低い男だった。そして背も低く、やせ形で、ちょこまかとうごいた。段ボールにシャムネコをいれて持っていった鈴懸に、箱に入ったウイスキーを一本持たせてくれた。そして、このシャムネコの名は「タケオ」であると、すこし恥ずかしそうに言った。


 鈴懸は破れてしまった原稿を、裏からセロテープでとめた。汗ばんだ指先の模様がセロテープに写しとられていた。

 その時、鈴懸の背後で「ミャ」と声がした。タケオである。

「また、来ちゃったのか!」

 怒った顔をする鈴懸の前から逃げようとするように、タケオが部屋の壁にそって左の方へと歩いていった

 鈴懸はタケオを再び、岩鏡の家へ届けることがためらわれた。もう電信柱の貼り紙は全てはがされていたのだ。それなのにタケオを届けにいけば、前回ウイスキーをもらっているため、またもの欲しさにやってきたと思われてしまうのではと、気がひけたのだ。それに、タケオは何度もうちにやってきている。ならば帰り道だってとうぜんわかるはずだ。

「タケオ、おまえ自分で家に帰りなさい」

 鈴懸はそれだけいうと、タケオを無視した。今夜は牛乳もあげなかった。

 鈴懸はウイスキーの水割りを一杯飲むと、ふとんをしいて横になった。

 明かりを消すと、部屋の隅にいたタケオが、うかがうように鈴懸のそばにきて丸くなった。

「そういえば、以前にも、おれになついてきた猫がいたなあ。シャムネコなんてたいそうな猫じゃない。・・・ノラネコだったけどな・・・」

 鈴懸がタケオを見ると、タケオは目をつぶって、小さな寝息をたてていた。

 窓は、いつでもタケオが出ていけるように、大きく開け放しておいた。窓からは三日月がでているのが見えた。

 明日までに出ていってくれよ、鈴懸は祈った。


 部屋に朝日がさしこみ、鈴懸が目を覚ますと、タケオが部屋の隅から、じっと見つめていた。

「あらら・・・、まだいたのか・・・」


 岩鏡邸のインターホンに来意をつげると、すぐに玄関から、主人がちょこまかとやってきた。前回は、タケオを段ボールに入れてきたが、今回は、そのまま抱っこしてきていた。門の扉を開けた主人にタケオを差しだす。

「いつも、スイマセンね、うちのタケオが、ご迷惑をかけて・・・。なにか、お詫びというか、タケオが一晩泊めていただいたお礼というか、何か持ってまいりますから、ちょっとお待ちになって・・・」

 家の中へ戻ろうとする主人を鈴懸が引きとめる。

「いやいや、そういうつもりで来たわけではありませんから、あの、この前のウイスキーもまだありますし。では・・・」

 後ろをふりむきかけた鈴懸の腕をつかみ、今度は主人が引きとめる。

「そんなことおっしゃらずに、あっ、そうだ。あの、朝食どうです。あのたいしたものじゃないんです。ほんと、目玉焼きとみそ汁と白いご飯だけなんですけど。うちじゃ、家内が朝弱いっていうんでまだ寝てるんですよ。ですから、いつも私、一人で用意して食べていくもんですから。なんにも気になさることないんで、どうです、ご一緒に・・・」

「いやいや、そんな・・・」

「そう言わずに、朝食、もうお済みでございますか?」

 けっきょく鈴懸は、家の中にとおされてしまった。それは、単に主人のしつこさに負けたのではなく、目玉焼きとみそ汁と白いご飯という日本的朝食の絵面に食欲が反応したからなのである。

 シャンデリアの天井に、二十人も座れるだろうという巨大テーブル。そこで二人の中年男が向かい合って座った。本当に目玉焼きとみそ汁と白いご飯。あとはなに一つない。みそ汁は、あきらかにインスタントだ。薄っぺらなワカメがただよっている。

 それでも、みそ汁とご飯からは湯気がたちのぼり、食べれば普通どおりにおいしい。鈴懸が、

「おいしいですね」

と言うと、主人はうれしそうに笑顔をむけた。

 金持ちなんていうのは、こんなものか。鈴懸のなかで、金持ちのイメージが変わろうとしていた。

「プルルルルル」

 部屋の隅の電話がなる。

「ちょっと失礼します」

 岩鏡が席をたち、電話に向かった。

「岩鏡です。・・・ああおはよう。・・・うん。・・・うんうん・・・うん。・・・それじゃあね。尾川洋子先生に頼んで・・・。じゃあ、朝田次郎先生に・・・。・・・だいじょうぶ、あの人には貸しがあるんだよ。私がどうしてもお願いしたいからと言えば、ひきうけてくれるから・・・」

 鈴懸がおどろいて、喉につまらせたご飯をまるのみして、みそ汁を喉の奥に流しこんだ。尾川洋子、朝田次郎といえば超一流の売れっ子作家だ。その人たちを先生と呼ぶなんて、この岩鏡という人、なんの仕事をしているのだろうか。

 そのとき、玄関のほうから、声がした。

「社長、お車の準備ができました」

 岩鏡は、受話器を耳にあてがったまま、顔を廊下にだして、右手をあげて、あいさつをした。

 朝食を済ませた鈴懸は、岩鏡邸からの帰りみち、ゴミ集積所をひとつひとつのぞきながら歩いた。そして、あるものを見つけると、それをゴミ袋の下から引っぱりだした。

 『月刊雪割』。歴史ある文芸誌である。本のうらの奥付をめくる。『発行人 岩鏡良男』。

 鈴懸の目と口が大きくあいた。


 十日後の夜。

「できた!」

 鈴懸がめずらしく興奮して、胸の前でこぶしをつくった。

 二三五一頁の原稿は、ひもでとじられ、机の上にでんと置かれていた。

 鈴懸は濃い水割りを作ってきて、チビチビとやりはじめた。

 原稿をうっとりとながめ、横から厚みを確認して、手に持ってその重さに満足した。さらに、無造作に頁を開き、その頁のできばえにうれしそうにうなずいた。

 鈴懸は突然思いだしたように、すきまの開いた窓にむかって小さく呼びかけた。

「タケオ、タケオ、タケオちゃ〜ん」

 しかし、タケオは、あらわれなかった。

 鈴懸は、この長編小説を雪割社の社長である岩鏡に売り込もうと思ったのである。しかし突然「読んで下さい!」と持ちこむ方法では、相手の機嫌を損ないかねない。そのために、断られることもありえる。そこで、タケオを連れていこうと考えたのである。タケオを返しにきたついでに、ということになれば、相手もひけめがあるから、こちらの頼みを受けいれてくれるのではないか、と考えたのである。

 ところが、そう都合よく、タケオはやって来ない。この十日間、一度も来ていない。あの夜、牛乳をやらなかったから、来ないのかもしれない。

 二日間、タケオを待ったが、やって来なかった。

 しかたなく、鈴懸は、原稿を紙袋に入れて一人で岩鏡邸に向かった。

 岩鏡邸の前を、行ったり来たりする鈴懸。ときどき、三階の窓に向かって、小さく声をかける。

「タケオー」

しかし、タケオは出てこない。タケオなしでは、どうしてもインターホンを押す勇気がない。

 そもそも、今日は日曜日だけれども、岩鏡本人がいるとは限らない。いるか、いないか・・・。門のすき間に、顔を押しつけ、室内のようすをさぐる鈴懸。

「おまえ、なにをやってるんだ!」

 叱りつけるような、厳しい調子の声に鈴懸がふり返ると、警察官が立っている。少し離れたところには、赤色灯を回したパトカーも止まっている。

「え、違いますよ。私はあやしいものじゃない。なにもしてませんよ・・・」

 顔を引きつらせる鈴懸。

「お話を聞かせてもらいましょう」

警察官は鈴懸をパトカーに押しこめてしまった。


 数時間後、街はどっぷりと暗くなり、街灯には白いあかりがついていた。

 黒塗りの高級外車の後部座席に並んで座る岩鏡と鈴懸。疲れのにじみでた表情の鈴懸・・・。

「鈴懸さん、災難でしたな。ドロボウと間違えられるなんて・・・。鈴懸さんのように心の優しい方をドロボウ扱いするなんて、まったく警察なんてのは、人をみる目がありませんな」

「まあ、私のみすぼらしい身なりにも問題があるのでしょう。それにしても、岩鏡さんにもお手間をおかけして申し訳ございませんでした。運転手さんも、スイマセンでした」

 運転手がバックミラーで笑顔をみせた。岩鏡も、

「あなたは被害者ですよ。なにも気にしないでいいんですよ」

と言った。

 それから岩鏡は、体全体を鈴懸に向けて、改めた口調で言った。

「それにしても、鈴懸さんが小説家でいらっしゃったとは恐れいりました。私も小さな出版社をやっておりますので、今後いろいろとおつき合いがあるかもしれません。どうぞよろしくお願いいたします」

 岩鏡の頭が深くさがった。

 鈴懸は、ちょっと困って言った。

「小説家といいましても、ピンからキリまでおりますでしょう。私はキリの・・・さらに下の小説家でして・・・」

 ふだんは、うぬぼれのつよい鈴懸だが、一流の小説家を知りつくしている岩鏡を前に、弱気になっている。

「いやいや、ごけんそんを。いま、原稿をお持ちだというじゃありませんか。家につきましたらば、すぐに読ませて頂きますから」

「それがその、持ち物検査で原稿をみた警察官が、字が下手で読めやしないなどと言いまして・・・、いまどき、ワープロでなく、手書きですから、読みにくいのではないかと・・・」

「そんなことはありません。作家の書く文字というのは魂がこめられておりますので、字が生きてるんですよ。だから、実に様々の形があり、美しいんです。それに、もし私が読めないときには、鈴懸さんに読みあげてもらって、それを拝聴させてもらうことにすればよいのです。なにも心配いりません」

 原稿の入った紙袋を大事そうに抱えている鈴懸に、岩鏡はやさしい笑顔をむけた。


 先日、二人で朝食を食べた大きなテーブル。岩鏡と鈴懸は、少し離れてななめ向かいに座った。

 岩鏡が、原稿を読みはじめた。

 鈴懸の手書きの文字を苦もなく、ものすごい早さで読んでいく。秒針のリズムといっしょだった。一秒に一頁、原稿用紙がめくられていく。一分で六十頁。

 岩鏡は社長になる前に長いこと編集をしていたというが、それにしたって手書きの原稿をこんなに早く読める訳がない。鈴懸は、目の前で原稿をめくり続けている岩鏡に恐る恐るたずねた。

「あの・・・、読んでらっしゃるのでしょうか」

 岩鏡は手を休めることなく笑った。

「もちろんですよ。私は速読が自慢なんですよ。いま、家内が飲みものをもってきますからね」

 岩鏡はそう言いながらも、手を休めなかった。


「いつも主人がお世話になっています」

 岩鏡より、さらに小柄な岩鏡の妻が、健康的な笑顔で、部屋に入ってきた。

 妻につづいて、落ちつきはらったタケオも入ってきた。

 妻はコーヒーを鈴懸の前におくと、小さく会釈をして、部屋から出ていった。

 部屋に残ったタケオは、岩鏡の読んでいる机にひょいと飛びのると、原稿を見おろした。岩鏡は気にするようすもなく原稿をめくり続けた。

 鈴懸はそんなタケオを見ながら、コーヒーを口に運んだ。そして、十年程前のことを思いだした。


 あの当時も今とかわらず、売れない小説を書いていた。

 夏の夜は、近くの公園に涼みにいくのが日課だった。鈴懸は、公園の倉庫小屋の横のベンチに座った。そして、公園の街灯のあかりに書きかけの原稿をひろげた。すると上の方で、猫の鳴き声がした。倉庫小屋の屋根で、一匹のやせた三毛猫が鈴懸を見おろしていた。

「どうした、おまえ。腹へってんのか。おれもだよ。この原稿が売れたら、おまえにも、うまいもの食べさせてやれるのにな・・・」

 三毛猫は、鈴懸の原稿をじっとのぞきこんでいた。

 その年の夏、鈴懸は三毛猫と親しくなって、ときどき食べものを持っていってやった。

 倉庫小屋の屋根で月を見あげていた三毛猫は、鈴懸がくると、鈴懸のベンチにおりてきた。三毛猫はそこでセンベイを食べたり、原稿をのぞきこんだりした。そしてしばらくするとまた倉庫小屋の屋根に月を見に戻った。

 その猫は月を見るのが本当に好きだった。そしてその倉庫小屋の屋根からは、枝葉にさえぎられることなく、一晩中でも月を見ることができた。倉庫小屋の屋根で三毛猫は、月を見あげ、目を見開いたり、細めたりしていた。

 ところが、ある満月の晩、倉庫小屋の屋根にめずらしく三毛猫がいなかった。その夜は雲一つない最高の月夜で、こんな夜に三毛猫がいないのは不思議だった。

 鈴懸が倉庫小屋のうらにまわると、三毛猫は横になっていた。近づいてみると、足から大量の血を流していた。きっと犬にかまれたのだろう。

 三毛猫は、動かない足を引きずって、屋根にのぼろうとしたが、力がまるではいらないようすだった。鈴懸は、三毛猫をそっともちあげ、屋根に上げてやった。三毛猫は、弱々しく空を見あげ月を探した。目も弱っているようだった。それでもようやく月をみつけると、二回まばたきをした。それからすぐ頭を腕にのせて、目を閉じてしまった。

 それっきり、二度と目を開けなかった。

 おなかいっぱい食べてる猫や、安全な環境で暮らしている猫も、世の中にはたくさんいるのに・・・。

「今度、生まれてくるときは、金持ちの家の猫として生まれてこいよ・・・」

 三毛猫が最後に見た月を、鈴懸も見あげた。夜の空にまぶしいほど輝く、大きな満月だった。

 あの夜以来、満月を見ると三毛猫を思いだすようになった。十年たつ今でも、あのやせた三毛猫がはっきりとよみがえる。


 岩鏡は最後まで読む早さをおとさなかった。そして、最後の頁を読み終えると、目を閉じた。それは、疲れた目を休ませているようでもあり、長い小説をふりかえっているようでもあった。

 数秒後、目をゆっくりと開いた。

「とてもおもしろい小説でした」

 岩鏡が興奮気味に言った。鈴懸はお礼を述べた。

 岩鏡はそれ以上、小説に対しての感想を言わなかった。そのかわり、この小説を雪割社から出版させてくださいと、一礼した。

 岩鏡は、すぐ戻りますと言って部屋を出ていった。鈴懸が部屋を見まわすと、いつのまにかタケオの姿もなかった。

 鈴懸は信じられない気分であった。数十年間も誰にも認められずにいたのだ。とつぜん出版という話になっても、実感がわかず、喜びにならなかった。

 岩鏡が、契約書を持って、戻ってきた。岩鏡から契約内容をきいて、契約書にサインをしているうちに、じわじわと喜びがわいてきた。頭のてっぺんから足の先まで、喜びでしびれてきた。

 契約が済むと、岩鏡は言った。

「それにしても、不思議なご縁ですね。タケオが鈴懸さんの元へ何度も行くことで、私たちは知り合いになれて、こうして、お仕事もいっしょにできるようになりました。なんだか、タケオが、二人をとりもってくれたように思えてなりません」

 それから、岩鏡は少しあごを引き、声を震わせて、怪談話をする口調で言った。

「なにかしら、タケオは、あなたをひきたてる理由があるのかもしれません。昔あなたに助られた猫の生まれかわりとか・・・」

 鈴懸が手を横にふって、怖がるまねをした。

「猫の恩返しなんて、あるわけないですよー」

 鈴懸が大声で言うと、岩鏡は楽しそうに笑った。鈴懸も声を合わせて笑った。


 鈴懸は原稿を預け、ていねいにあいさつをして玄関をでた。夏の夜のむしあつい空気が体をつつむ。

「ニャーアーアー」

 頭の上の方で長い鳴き声がした。見あげると、岩鏡邸の三階の屋根からタケオが鈴懸をじっと見ている。タケオの尻尾はピンとのびていて、尻尾の先はあるものを指ししめしていた。


 夜の空に、まぶしいほど輝く、大きな、大きな満月を・・・。


           ( お わ り )

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